2014年6月3日
備中高松城、岡山の城と聞けば?TOP3には入る有名な城ではないだろうか?
また、歴史上では有名な水攻めで有名な城だろう(^^)
また、歴史上では有名な水攻めで有名な城だろう(^^)
現在は、昭和57年に公園化され遺構らしい物は、殆ど確認出来ないが、水攻めの築堤跡など歴史好きには堪らない場所かも
また、4月には桜、6月は花菖蒲やサツキ、そして7月には、昭和57年に公園にするのに復元された沼に、地中に眠っていた蓮の花が400年の時を越え自然に自生し有名になった!(当時も蓮の花が群生していたとか)この蓮の花を『宗治蓮』と名づけています。
≪有名な、備中高松城(水攻め)ですが、知らない人の為に簡単に≫
清水宗治が城主を務めた備中高松城は、低湿地帯に築かれた梯郭式平城で、元は、備中を治めていた三村氏の家臣だった石川氏が築城。備中兵乱で毛利が三村氏(三村家親、元親)を滅ぼした時、石川氏に仕えていた清水宗治は毛利方に就き後に備中高松城主になったとされています。
(高松城と呼ばれてましたが、現在は香川県の高松城と間違えるので備中高松城と呼んでます)
その後、天正10年4月に羽柴秀吉の中国攻めが始まります(毛利軍VS織田軍)
この中国攻めで備中高松城での戦いが有名ですが、前年の天正9年には前哨戦とも言える八浜城の戦いが宇喜多軍と毛利軍で行われています。 そして、本格的な中国攻めの際、毛利方の最前線の城で境目七城とされる城が北から南に(宮地山城)(冠山城)(備中高松城)(鴨庄城)(日幡城)(撫川城 「以前に紹介。」)(松島城)が在り各城に秀吉軍との激戦や諜略などストーリーがあります(^^)
この七城の主城が、清水宗治と約5000の将兵が守る備中高松城でした。
後は、有名な話なので詳しくは割愛(^^)
(高松城と呼ばれてましたが、現在は香川県の高松城と間違えるので備中高松城と呼んでます)
その後、天正10年4月に羽柴秀吉の中国攻めが始まります(毛利軍VS織田軍)
この中国攻めで備中高松城での戦いが有名ですが、前年の天正9年には前哨戦とも言える八浜城の戦いが宇喜多軍と毛利軍で行われています。 そして、本格的な中国攻めの際、毛利方の最前線の城で境目七城とされる城が北から南に(宮地山城)(冠山城)(備中高松城)(鴨庄城)(日幡城)(撫川城 「以前に紹介。」)(松島城)が在り各城に秀吉軍との激戦や諜略などストーリーがあります(^^)
この七城の主城が、清水宗治と約5000の将兵が守る備中高松城でした。
後は、有名な話なので詳しくは割愛(^^)
秀吉軍の攻撃を数回撃退するが水攻めにより開城を決意、天正10年6月4日清水宗治の切腹により城兵の命を助けるという事で和睦し中国大返しにうつります。
(秀吉が、備中高松城に到着した時に、最初に本陣を置いた龍王山)
≪ 備中高松城址の、花菖蒲。 今回は、花菖蒲を見に行ってみました(^^) 沢山の観光客が来ていました ≫
≪ 資料館内、1階と2階があり、それぞれ清水宗治の備前焼の像がある(^^) ≫
≪ 写真左上: 清水宗治の首塚。元は、秀吉の本陣跡にありましたが後に本丸へ埋葬されました。 ≫
≪ 写真左下: 胴塚。現地案内板より「治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は己が刀で己が首を切り、そのまま落ちこんで自刃し亡き公の後を追った。この主にしてこの臣あり 主を思う真情躍如たるものがある。」 ≫
≪ 写真右: 天正10年6月4日 清水宗治公自刃の址。 当時は、小舟の上でしたが、同じ位置らしいところに供養塔があります。≫
清水宗治辞世の句
≪ 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して ≫
天正10年6月4日(現在の6月23日)の出来事。今年でもうすぐ、432年前の事になります。
≪ 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して ≫
天正10年6月4日(現在の6月23日)の出来事。今年でもうすぐ、432年前の事になります。
≪ 今も残る堤跡の一部。 ≫
≪ 当時の各布陣の場所と、境目七城の位置(黄色まる) ≫
『備中高松城攻めの時の他の七城』
(宮地山城は、降伏を拒んでいたが冠山城の落城を見て降伏。)
(鴨庄城は、秀吉軍へ裏切りが出るが、鎮圧して持ちこたえる)
(日幡城は、裏切りによって城主が殺害され同年5月開城。後に毛利が奪え返す。)
(撫川城は、高松城和睦まで応戦し持ちこたえる)
(松島城は、離れていたため攻められなかったらしい)
『備中高松城攻めの時の他の七城』
(宮地山城は、降伏を拒んでいたが冠山城の落城を見て降伏。)
(鴨庄城は、秀吉軍へ裏切りが出るが、鎮圧して持ちこたえる)
(日幡城は、裏切りによって城主が殺害され同年5月開城。後に毛利が奪え返す。)
(撫川城は、高松城和睦まで応戦し持ちこたえる)
(松島城は、離れていたため攻められなかったらしい)
そして、もうじき咲く宗治蓮(^^)/
≪ 7月の初旬~中旬に沼中に咲き乱れる蓮の花(^^) 岡山でも有名な蓮の花のスポットです。(去年の7月中旬の写真) ≫
=冠山城攻防戦=
≪境目七城の一つで唯一、最後の一兵まで戦い抜いた冠山城の戦い ≫
八浜城の合戦から一年後。中国攻めが本格的になり備中高松城攻めの前哨戦となる天正10年 (1582)4月17日冠山城は、 羽柴秀吉軍2万 、宇喜多軍1万に囲まれる。守りは城主の林三郎左衛門重真「清水宗治の娘を嫁にもつ」
八浜城の合戦から一年後。中国攻めが本格的になり備中高松城攻めの前哨戦となる天正10年 (1582)4月17日冠山城は、 羽柴秀吉軍2万 、宇喜多軍1万に囲まれる。守りは城主の林三郎左衛門重真「清水宗治の娘を嫁にもつ」
(援軍で参陣したのは、早島城主の竹井将監や。祢屋七朗兵衛など他 3百騎)
総勢 3千6百人で、羽柴秀吉軍、宇喜多軍らと戦った。 城兵の奮戦で寄せ手を撃退し攻めあぐねさせたが、4月25日城内より出火し城中大混乱となった。 そこへ、秀吉軍の総攻撃が始まる。その時、加藤清正が、1番乗りの功名を上げる。 最早これまでと、林 重真は自決するも、早島城主の竹井将監など残った将兵139人は降伏せず討死を遂げた。この時、加藤清正は、早島城主で猛者の竹井将監との激闘があり加藤清正は、槍を捨て太刀で応戦ののち竹井将監を討ち取ったことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
本丸跡には、冠山合戦戦死将兵慰霊碑や供養塔がある。 小山ながら難攻の冠山城も奮戦したものの遂に落城した。林三郎左衛門重真は享年51才、備中の国を半国与えようという羽柴 秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。
本丸跡には、冠山合戦戦死将兵慰霊碑や供養塔がある。 小山ながら難攻の冠山城も奮戦したものの遂に落城した。林三郎左衛門重真は享年51才、備中の国を半国与えようという羽柴 秀吉の誘いをも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。