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Real Yellow Monkey

書評、音楽評、映画評、SS、雑記、その他

蠅の王 (新潮文庫)/ウィリアム・ゴールディング
¥761
Amazon.co.jp

あらすじ(裏表紙参照)


未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。

大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心に巣食う獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へと駆りたてられてゆく……。

少年漂流物語の形式をとりながら、人間のあり方を鋭く追究した問題作。


引用


「狩りをしていると、ときどき思いがけなく、まるで-」

彼は、突然赤面した。

「もちろん、なんでもないことなんだ。ただ、そういう感じがするだけなんだ。つまり、自分が狩りをしているのじゃなく、逆に-自分が狩りだされ追っかけられている、つまり、ジャングルの中で、しょっちゅう何かに追っかけられているという、そういう感じがするんだ」

(P.84)


サイモンの面前には蠅の王が棒切れの上に曝され静まりかえってにやにや笑っていた。

ほど経てついにサイモンは絶望的になって、うしろを向いた。

白い歯と霞んだ眼と血は、依然として眼中から離れなかった。

そして、その彼の凝視は、あの古くから人間につきまとっている、のがれるすべのない認識の体験によって、釘づけにされたままだった。

(P.235)


「正直なところ」と、士官は、なお自分の前に横たわる捜索の任務を思い浮かべながらいった、

「イギリスの少年たちだったら-きみたちみんなイギリスの少年だろう?-そんなんじゃなくて、もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね-つまり-」

(P.347)


感想


この物語は、『十五少年漂流記』や『珊瑚島』を戯画的に描いた話でもあり、無人島に不時着した少年たちの爾来を描いた、簡素な設定で成立している。


作中のキャラクター設定は、なかなか絶妙である。

その人間関係が織り成す様々な経緯は、緊迫感を持続させながら、読者を物語の最後まで誘う事だろう。

以下、主要なキャラクターを説明しながら、ストーリーも少し説明していこうと思う。


主役と言えるキャラクターは、ラーフという少年である。

ラーフは、時に勝気な面もあるが、物事を熟考する性格で、自分自身についてもよく知り、少年たちの為にベストな方法を提言し、リーダーシップを発揮する。

熟考する性格の裏を返せば、優柔不断でもあり、言いたい事を上手く伝えられない処もあるのだが、それでも少年たちは、リーダーに選出したラーフを信頼している。

最初に、ほら貝を見つけ、それを吹いて集会を開いた事による神妙なオーラも、魅力の一つとして手伝っているのだろう。


そして、ラーフが島で一番最初に出会う少年がピギーである。

ピギーは、太っちょで眼鏡を掛けている不器用な少年であるが、少年たちの中で最も物事を論理的に、そして実際的に考える事が出来る少年なのである。

しかし、ピギーは裨益しているに関わらず、デブで役立たずと皆に謗られ、碌に話を聞いてもらえない。

やがて、ラーフは彼を参謀役として認める事になるが、最終的にピギーは、ラーフと共に少数派に追い遣られてしまう。

ピギーのような理想的な思想の持ち主が迫害されてしまう過程は、不条理且つ切実なリアリティを持って、胸に迫ってくる。

因みに彼の眼鏡は、火を起こす為のレンズ代わりとなり、島では大変な貴重品となる。


ラーフと対称的なキャラクターであるのが、ジャックという少年である。

ジャックは、合唱隊のリーダーであり、島では最初から幾人の麾下を引率している。

ジャックは、決断力がある半面、血の気の多いワンマンタイプである。

その感情的な性格により、ジャックは島での生活の途中、粗忽により大きな失態を演じてしまう。

それは、ジャックが狩りに熱中する余り、烽火の見張りをしている合唱隊を狩りに引き入れてしまい、その間に、島の近くに居た船が通り過ぎてしまうという経緯である。

しかし、ここでジャックは素直にミスを謝罪して和解し、皆に認められるようになる。

ジャックは、自己中心的であるが人心掌握の術を心得ており、統率力は持っているようである。

漸次、ラーフとは対立を深めていくが、その溝こそが、人間が潜在的に畏怖の念を抱いている正体ではなかろうか、とも思わせる。


サイモンは、ジャックの合唱隊のメンバーだったが、やがて、ラーフたちと小屋を一緒に作るなどして、行動を共にしていく。

サイモンは、神秘的な物に魅せられる傾向があり、周りから変人扱いされるが、最後に、皆に最も賢明な進言をする事になる。

それは、少年たちが戦慄を覚える獣の正体を、皆で確認しに行こうという考えであった。

しかし、その考えは皆に受け入れられない。

その獣の正体というのは、実はパラシュートで落下した兵士の死体だったのだが、後にサイモンは、島の頂上に一人でそれを確認しに行く事になる。

この作品の中で、最も読者の脳裏に刻まれるシーンとなるのは、サイモンと、蠅の王こと死骸である豚の頭、との会話シーンであろう。

我々の一部でもある豚の頭とは、我々の内面を写し出す存在でもあるのだ。


それ以外に、双子のサイモン・エリックや残虐な性格のロジャー、その他の少年たちが登場するが、重要なキーパーソンとなるのは、上記の四人である。


以下、肝要となる物語の内容と感想について記していく。

物語の前半は、秩序の象徴であるほら貝を中心に、少年たちは規則について話し合い、安寧な生活を送る。

自由を謳歌する少年たちの暮らしは、前半に於いては一種のユートピアを想起させる程である。

しかし、時間が経過するに従い、島での人間関係に亀裂が生じ始める。


少年たちが決めた規則とは、救助される為に烽火を上げ続ける事、小屋を作りそこで寝泊まりする事、その他である。

しかし、ジャックは狩りに魅せられ、自らが周囲に豚肉を分け与える事によって、権威を示したいと考えている。

食物が、他には果物しかない島の生活に於いては、豚肉は貴重な蛋白源であるのは間違いない。

しかし、プライオリティーを考慮すると、烽火を上げる事や、小屋を作る方が重要だというのが、ラーフやその他の少年たちの一致した考えである。

狩りにばかり人手を割く事は出来ないのである。


しかし、小さい少年たちやジャックたちには、その論理が通じる事なく、やがて瓦解が生じる事になる。

その瓦解の決め手となるのは、集会の時に、ジャックが「ぼくの狩猟隊をどう思う?」とラーフに訊いたときに、それをラーフが邪険に扱った事によるものである。

ピギーがそれについてラーフに窘めたものの、ラーフは忖度する事も無く、聞く耳も持たない。

これによって、ジャックの承認欲求と矜持は打ち砕かれてしまう。

元々ラーフに対して含む処があったジャックは、我慢の限界に達し、暴言を吐いてラーフの元を去ってしまう。

そして、ジャックは「城岩(カッスルロック)」と呼ばれる場所に要塞を築き、そこで狩りをしながら仲間を次々と引き入れ、ラーフたちと対立して争う事になってしまう。

ジャックとジャックの仲間たちは、顔に隈取りを施し、匿名的な蛮人と化していく。


ここで、着目すべきは、ジャックの仲間たちは自分の意志で行動しているというより、常に風下に居て趨勢に流されてしまう、という習性を持っているという事である。

また、一見するとジャックが専制君主且つ悪因のように見えるが、決してそうではなく、島の少年たちが支配されていたのは蠅の王、つまり、内面的な問題と換言する事が出来るだろう。

そして、蠅の王とは、少年たち自身を滅ぼしてゆく存在なのである。


その後、ラーフは何とかジャックと和解しようと城岩を訪れるが、その過程で、サイモンとピギーが殺害されてしまうという悲劇が起きる。

ラーフはその後、ジャックたちの画策から逃れ、何とか生き延びてイギリスの海軍に救出される。
最後の海軍士官の台詞は、暗澹たる皮肉に満ちたもので、秀逸なラストを演出する事になる。


感慨深いのは、価値観を異にする人たちと共に暮らすという事が如何にシビアな事であるか、そして、そこでの軋轢は必然的に生じてくる、という事である。

無人島の少年たちは、その軋轢の解決を避け、匿名的な蛮人と化し、いつ誰が殺されるか分からないバトルロワイアル的な状況に追い込まれる事を、余儀なくされるのである。

物語中、あまり心理描写されていないが、いつ救助されるか分からないストレスフルな環境に置かれて、少年たちは無分別になり、刹那的に生きるようになってしまったのだろう。


無人島を社会の縮図として考えた場合、それは、社会を起源に立ち返って考える事に繋がっていく。

我々の周囲に於いて鑑みると、諍いや争いが絶え間ないストレス社会であり、何故、今のような社会になってしまったのか? と、人々が疑問を抱く事も少なくないだろう。

その上で、人類のルーツの生活から考えるシミュレーション的な機能を果たしているのが、この物語の面白い処でもある。

物語中、少年たちの多くは、秩序や論理よりも不埒千万な感情に流されていってしまうが、元来自然状態から始まった人類は、その後、どのように現代社会の秩序を築いていったのだろうか?

物語のラストでは、少年たちの原始的な争いの世界と、大人たちの複雑化したシステムに於ける戦争の世界が、見事に対比され描かれている。


現実の社会に於いて考慮してみると、この作品内に於けるプリミティブな人間性は、ときに隠微な形で現実社会に姿を現す事がある。

その為、この作品はとても絵空事とは思えないリアリティを醸し出している。


要するに、何が言いたいかとするなら、政治や法や社会システムについて考えるより先に、人間の内面について考える必要性を、この作品は問い掛けているように思うのである。

而して、ではどうすればいいのか?というのは、普遍的なテーマであり、様々なジレンマを抱えながらも、人々は思考し続ける運命にあるのではないか、と思う次第である。






スローターハウス5 (ハヤカワ文庫 SF 302)/早川書房
¥756
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あらすじ(裏表紙参照)


時の流れの呪縛から解き放たれたビリー・ピルグリムは、自分の生涯の未来と過去を往来する、奇妙な時間旅行者になっていた。

大富豪の娘と幸福な結婚生活を送り……異星人に誘拐されてトラルファマドール星の動物園に収容され……やがては第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、連合軍によるドレスデン無差別爆撃を受けるビリー。

時間の迷路の果てに彼が見たものは何か? 

著者自身の戦争体験をまじえた半自伝的長編。


引用


そのころから、すでにわたしはドレスデンの本を書いていると称していた。当時アメリカでは、それは有名な空襲ではなかった。それが、たとえば広島をうわまわる規模のものであったことを知っているアメリカ人は多くなかった。わたし自身、知らなかった。この空襲については、何もおおやけにされていないも同然であった。

(P.22)


「わたしにはわかるわ。二人が赤んぼうじゃなくて、まるで一人前の男だったみたいに書くのよ。映画化されたとき、あなたたちの役を、フランク・シナトラやジョン・ウェインやそんな男臭い、戦争好きな、海千山千のじいさんにやってもらえるように。そして、戦争はすばらしい、だからもっとやろう、ということになるんだわ。ほんとうに戦うのは、二階にいるあの子供たちみたいな赤んぼうなのに」

ようやく合点がいった。メアリの怒りをかきたてているのは戦争だったのだ。

(P.27)


ビリーが逆向きに見た映画の粗筋は、つぎのようなものだった-

負傷者と死者をいっぱい乗せた穴だらけの爆撃機が、イギリスの飛行場からうしろむきにつぎつぎと飛びたってゆく。フランス上空に来ると、ドイツの戦闘機が数機うしろむきにおそいかかり、爆撃機と搭乗員から、銃弾や金属の破片を吸いとる。

同じことが地上に横たわる破壊された爆撃機にも行われ、救われた米軍機は編隊に加わるためうしろむきに離陸する。

(P.102)


貨車はときにはのろのろと、ときにはきわめて速く走り、そしてしばしば止まり-坂をのぼり、坂をくだり、カーブを曲り、あるいは直進する。パイプを通してビリーの眼に何が見えたとしても、彼はただこういうしかない、「それが人生だ」

(P.156)


ついでながら、トラウトは金のなる木をテーマにした本も一冊書いている。その木は、葉のかわりに二十ドル札をつける。花は国債、果実はダイヤモンドである。人間たちはそれに魅せられ、根の周囲で殺しあいをする。死体は良質の肥料となる。そういうものだ。

(P.219)


感想


粗筋に既出されているように、著者の戦争体験を基にした半自伝的な小説であり、SF色は薄い。

主人公ビリー・ピルグリムは、未来と過去を往来する時間旅行者なのだが、時間軸をコントロールして移動しているというより、恣意的に過去を回想するような感覚で、各時代を往来する。

基本的には、様々な時間軸が複雑に入れ替わりながら、ストーリーは進行していく。

只、それによって物語が難解になっているわけではなく、何か朦朧として夢の中を彷徨っているような、不思議な感覚を読者に与える効果を果たしている。


ドイツ軍の捕虜になった話や、ドレスデン無差別爆撃、トラルファマドール星人による誘拐、大富豪の娘との結婚と、様々な時間軸によってストーリーは展開していくが、メインとなるのは戦争体験の話である。

戦争を行う人間を滑稽に扱う事によって、読者に戦争の馬鹿馬鹿しさ等を伝えようとしているのだが、狙いとしては、戦争をドラマチックに演出する映画や小説に対するアンチテーゼという事もあるのだろう。

その為、多くの戦争を扱った物語のような重々しい陰鬱さはなく、悲惨な事が淡々と繰り返され、それがユーモアというオブラートに包まれているのが特徴的だ。

文末ごとに繰り返される「そういうものだ。」という台詞は、この世界の様々なエラーに対して、笑いながら甘受するような、云わば仏教的な悟りに近い境地なのかもしれない。


ビリー・ピルグリムは、戦争の最中では着る服もなく、青のトーガと劇で使用されたシンデレラの銀の靴を履いて、ドイツ軍の捕虜として過ごさなければいけない。

印象的なのは、ピルグリムだけでなく、アメリカ軍の兵士はまともな軍服すら与えられず、間に合わせの服を着用していたという事である。

実際の処、米軍の兵士は、尊厳を与えられる事が他国と比較すると少なく、蔑ろにされていたようだ。

そもそも、ドレスデン爆撃自体も長い間、隠蔽されてきた歴史がある。

我々が普段、耳目に触れるニュース自体、多寡の情報操作や隠蔽が行われているが、隠蔽されている部分こそ人生の不条理が凝縮されている。

そこを独特のブラックなユーモアを通して表現しようという試みは、著者の小説の重要な出色の一つであろう。


トラルファマドール星人やキルゴア・トラウト、エリオット・ローズウォーター等、他の小説で登場するキャラクターも出てくるので、順番的に後の方に読めば、より楽しみが増すと思われる。

著者の他の作品を読む事によって、カート・ヴォネガットが一貫して何を重要なテーマとして表現したかったのか、という事も理解出来るようになるかもしれない。

難解な科学用語は皆無で、ページ数も少ない為、SFが苦手で文学好きな人に特にお薦め出来る作品だ。


銀河ヒッチハイク・ガイド (河出文庫)/ダグラス・アダムス
¥683
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あらすじ(裏表紙参照)


銀河バイパス建設のため、ある日突然、地球が消滅。

どこをとっても平凡な英国人アーサー・デントは、最後の生き残りとなる。

アーサーは、たまたま地球に居た宇宙人フォードと、宇宙でヒッチハイクをするハメに。

必要なのは、タオルと<ガイド>-。

シュールでブラック、途方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作!



引用


星図にも載っていない辺鄙な宙域のはるか奥地、銀河の西の渦状腕の地味な端っこに、なんのへんてつもない小さな黄色い太陽がある。

この太陽のまわりを、だいたい一億五千万キロメートルの距離をおいて、まったくぱっとしない小さい青緑色の惑星がまわっている。

この惑星に住むサルの子孫はあきれるほど遅れていて、いまだにデジタル時計をいかした発明だと思っているほどだ。

この惑星にはひとつ問題がある、というか、あった。そこに住む人間のほとんどが、たいていいつでも不幸せだということだ。

多くの解決法が提案されたが、そのほとんどはおおむね小さな緑の紙切れの移動に関係していた。これはおかしなことだ。というのも、だいたいにおいて、不幸せだったのはその小さな緑の紙切れではなかったからである。

というわけで問題はいつまでも残った。人々の多くは心が狭く、ほとんどの人がみじめだった。デジタル時計を持っている人さえ例外ではなかった。

(P.5)


そのほかに、やや大きめの電卓のような装置も入っていた。百個ほどの小さなフラットボタンと、およそ十センチ四方のスクリーンがついていて、いつでも無数の「ページ」の一つを呼び出すことができるのだが、一見してあきれかえるほど複雑な装置に見える。

ひとつにはそのせいもあって、この装置がぴったり収まるプラスティックのカバーには、大きな読みやすい文字で「パニクるな」と書いてある。

これにはもうひとつ理由がある。この装置はじつは、小熊座の大出版社が出したうちで最も驚くべき本、すなわち「銀河ヒッチハイク・ガイド」なのだ。

(P.36)


とくに大統領は百パーセントお飾りと言ってよい。権力と名のつくものはなにひとつ持ってない。見たところ議会によって選ばれているようではあるが、大統領に要求される資質は指導力ではなく、計算ずくでちゃらんぽらんをやる能力である。

だからこそ、選ばれるのは決まってなんであんなやつがと言われる人物であり、人を逆上させると同時に魅きつけもする人物なのだ。

大統領の仕事は権力をふるうことではなく、権力から目をそらすことだ。

その基準から言えば、ゼイフォード・ビーブルブロックスは、かつて銀河帝国に現れたまず最高の大統領のひとりだった。

(P.53)


イギリスもう存在しない。それはわかった-なぜだか実感できた。別のを試してみた。

アメリカも消えた。これはうまく呑み込めなかった。もうちょっと小さいところから始めることにした。

ニューヨークも消えた。反応なし。まあだいたい、彼にとってニューヨークは夢物語みたいなものだったし。ドルは二度と復活することはない。かすかにうずくものがあった。

ボガートの映画は二度と見られないのだとつぶやいてみたら、したたかにぶん殴られたような衝撃があった。マクドナルドもだ。マクドナルドのハンバーガーなんてものは、もうどこにもないのだ。

(P.84)


こうして条件は整い、ここにあっと驚く新たな高度産業が誕生した。すなわちオーダーメイドの豪華惑星の建造という産業である。

この産業を生んだ惑星マグラシアの超空間技術者たちは、ホワイトホールを通じて物質を空間に集め、それを夢の惑星に仕立てあげた。黄金の惑星、プラチナの惑星、柔らかいゴム製でしょっちゅう地震の起きる惑星-銀河系有数の大富豪が求める厳しい基準に合わせて、すべてが美しくつくられていた。

(P.156)


「そのコンピュータから見ればたんなる演算パラメータにすぎないものも、わたしごときには計算することさえかなわないでしょう。しかし、そのコンピュータを設計するのはこのわたしです。そのコンピュータにならば、究極の答えに対する究極の問いを計算することができるでしょう。

そのコンピュータは無限にして精妙な複雑さをそなえ、有機生物そのものが演算基盤を構成することになるでしょう。そしてあなたたちは新たな形態をとってそのコンピュータに降り立ち、一千万年のプログラムを誘導することになります。

そうです、このわたしがそのコンピュータを設計するのです。名前もつけてあげましょう。そのコンピュータの名は……地球です」

(P.245~P.246)



感想

ダグラス・アダムスのベストセラー作品で、書かれたのは1979年。

SF古典としても人気の高い作品で、映画化もされている。

ダグラス・アダムスはモンティ・パイソンに影響を受けているらしく、物語全般にブリティッシュ・ジョークが、余すところなく埋め込まれている。


まず、ストーリーについて。

アーサー・デントは平凡な英国人であり、その友人のフォード・プリーフェクトは宇宙人であり、「銀河ヒッチハイクガイド」の現地調査員である。

因みに「銀河ヒッチハイクガイド」は、現代で言うならWikipedia的な辞典であり、表紙には「パニクるな」と書かれてある。


或る日、地球上のあらゆる国の上空に堂々たる船が浮かび、人々はパニックに陥る。

銀河外縁部開発計画に基づき、超空間高速道路の建造が不可欠になり、地球は取り壊し予定惑星の一つであるというのだ。

そして、工事は二分足らずで終わるという旨のアナウンスが告げられる。

その後、人類の事など歯牙にもかけず「破壊光線作動」の合図で、地球はあっさりと破壊されてしまう。


そして、生き残ったアーサーと宇宙人フォードの二人は、奇想天外なヒッチハイクの旅を始める事になる。

また、銀河帝国大統領ゼイフォード・ビーブルブロックスも、アーサーやフォードと一緒に旅をする事になる。現代の大統領を愚弄するようなゼイフォードのキャラクター設定は、なかなか面白い。


とにかく、登場するキャラクターのほとんどが闊達で飄逸としていて印象的である。

また、各々がキャラ立ちしているのは、シリーズ化する上で重要な事だろう。

特に、重度鬱病ロボットのマーヴィンが良い味を醸し出している。

発言する事全てがいちいちネガティブなのだが、このロボットの懊悩が物語の後半に重要な役割を果たす事になる。


以下は、特に印象に残った物語の中核となる部分。


人々は常に宇宙の真理を渇仰していた。

それを解決するために、人々はスーパーコンピュータ、ディープ・ソートを作り出し解答を求めた。

しかし、ディープ・ソートは解答を750万年も待たせた挙句、「生命と宇宙もろもろの答えは42」と答える。

この意味不明な解答に勿論、人々は納得しない。そして、その解答が出来るコンピュータを設計する事になり、それが地球という事になった。

惑星マグラシアでは、銀河系のほとんどの惑星を製作している。

ディープ・ソートは地球を設計し、芸術家のスラーティバートファーストや、その他のマグラシア人が地球を建造した。

そして、地球人は破壊されるまで、そこに住んでいたという事だった。


この設定は、個人的に非常に感興を催す処だ。

地球は実験施設であり人類はとても愚かであり、それが独特の諷刺の効いた笑いに変換されている。

また、森羅万象を俯瞰的に諷刺している点も面白いのだが、我々の巷間をクリエイター的な視点で考察した場合、どうなるのだろうか?という点も興味深い。

基本的に小説自体、特に三人称で描かれる場合、神の視点から描かれていると言える。

そして、その視点からこの作品のように、劫初や世界についてユニークに思い巡らす事は、日常の瑣事に捉われている人々にとって、精神の陋劣を防ぐ手段として有効だと思える。

SF小説はこの作品のような世界観を描くのに、まさに打ってつけと言えるだろう。


ブリティッシュ・ジョークに触れる機会がまだまだ少なく、それは個人的な課題でもある。

しかし、この作品には、何回も読み返したくなるような眩惑的な魅力がある事は確かだと言える。

また、科学的な知識はあまり必要とせず、SFの枠に拘らずに万人が受け入れられる世界観である。

文学好きな人、またはカート・ヴォネガット等が好きな人にもお勧め出来る作品だ。



アンドロメダ病原体 (ハヤカワ文庫 SF (208))/早川書房
¥903
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あらすじ(裏表紙参照)


アリゾナ州ピードモントは、無人衛星の着地後、瞬時に死の町と化した。

現地で極秘裏に衛星の回収作業を行っていた回収班からの連絡も、やがてぷっつりと途絶えた。

どうやら地球外病原体-それも恐るべき致死性を持つ病原体が侵入したらしい。

ただちに最高の頭脳と最新鋭のコンピュータによる特別プロジェクトが発動されたが・・・。

地球が直面した戦慄の五日間を徹底したドキュメンタリー・タッチで描く衝撃の話題作!


引用


そのアイデアは、彼の論文の終わりにこう要約されていた。


以上から地球外生物との最初の接触は、種形成の既知の確率から決定されるだろうという結論が生まれる。地球上に複雑な生物が稀であり、単純な生物が豊富に存在するのは、否定できない事実である。

細菌は数百万種、昆虫は数十万種存在する。

いっぽう、霊長目は数えるほどの種類しかなく、大型類人猿は四種類に限られている。

(中略)

これらの考察からして、人類と地球外生物の最初の相互作用は、地球の細菌あるいはウイルスと同一とはいわないまでも、それに近似した生物との接触から成るものであろうと思われる。

そうした接触の結果は、地球の全細菌の三パーセントが人間に有害な効果をおよぼしうる事実を想起するならば、けっして楽観を許さない。

(P.65~)


だが、ほんとうの目的はまったく別物だった。

スクープ計画のほんとうの目的は、フォート・デトリック研究センターの開発プログラムに応用できるような新しい微生物を発見することにあった。早くいえば、新しい生物兵器を発見するためのプロジェクトだったのだ。

(P.78)


地球上では、進化の流れが、つねにより大きい、より複雑な動物をめざしている。

しかし、地球の外ではそれが通用しないかもしれない。宇宙のかなたでは、生物が正反対の方向へ-より小さい形態、より小さい形態へと-向かっているかもしれない。人類の現代のテクノロジーが製品をより小さくすることを学んだように、ひょっとすると高度な進化の圧力は、より小さい生命形態をめざしているのかもしれない。

(P.181)



感想


小説全般に言える事かもしれないが、SFに於いても文学的な作品は高尚とされている。

その為、文学性というよりは科学性とエンターテイメント性の強いマイクル・クライトンのSFファンの中での立ち位置はどうなんだろうと多々思う事がある。

しかし、SF作品の歴史の中でも「アンドロメダ病原体」の評価は高く、個人的にも知識小説の形式は悪くない感触だ。


物語は、宇宙人とのファーストコンタクトなどではなく、特定不可のウィルスが人々を次々と殺すところから始まる。

これは、地味ながらも非常にリアルな設定で、物語に独特の緊迫感を与えるのに成功している。

特に、病原の特定と対処の為に、血液検査や動物実験等、ロジカルな手順で分析していく作業や、詳細なデータが描かれている箇所は圧巻である。

オペレーション・リサーチの論理と軍事科学機関の統計的全体主義が見事に組み合わさっている。

論理的完成度の高いミステリーSF作品と言えるだろう。


印象に残る部分は、スクープ計画の本当の目的は軍事目的であったという箇所だ。

スクープ計画とは、宇宙機が地球に帰還した際、それと一緒に持ち込まれる可能性のある大気圏外生物の調査の事である。

しかし、これはあくまで表向きの目的であり、この計画自体は実は極秘裏に行われており、世界のトップリーダーのアメリカにとって要機密事項なのである。

科学やテクノロジーの発展は、常に人間の支配・征服の為に利用される危険性を孕んでいる。

その昔、鉄を生産し始めた頃から、人類はどんな変遷を辿ってきたのだろうかと考えさせられる。

また、地球外知的生命体が必ずしもヒト型に近い形態をしているとも限らず、ウィルスのようにミクロの形で進化していくという推論。これも、有り得なくもない発想だろう。


作品中で難を言うなら、人物描写が希薄な点が挙げられる。

スクープ計画に基づくワイルドファイアチームの五人は、選りすぐりの細菌学者や医者によって結成されている。

しかし、キャラクターの描写が直接的で尚且つ個性が感じられず、然程感情移入出来ずに物語が進行してしまう処がある。

これは、科学的詳細を述べる箇所が多いが故、話をコンパクトに纏める手段の一つかもしれない。


作品自体は、科学的知識が詳細ながらも、読みやすく誰にでもお薦め出来る作品である。

特に、哲学的なSFが苦手だと言う人には丁度いいかもしれない。

映画で言うなら、「X-FILE」辺りが好きな人には合う作品だと思う。

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私はくまモン 派!


元祖ゆるキャラは、滋賀県彦根市のひこにゃんですが、やはり最初に著作権使用料を無料にしたのが大きかったですな。

そして、くまモンは経済効果1000億円ですか~。

ゆるキャラを使うメリットは、まず固いイメージを取り払い親しみ易さを感じさせる点ですな。

ただ、この親しみ易さに隠されている本意を見逃してはいかんですよ。ニコニコ



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