Real Yellow Monkey -4ページ目

Real Yellow Monkey

書評、音楽評、映画評、SS、雑記、その他

神狩り (ハヤカワ文庫 JA (88))/山田 正紀
¥605
Amazon.co.jp


あらすじ(裏表紙参照)


工事現場で見つかった弥生時代の石室には、謎の<古代文字>が刻まれていた。

情報工学の若き天才島津圭助は、その解明に乗り出した。

が、古代文字は人間にはとうてい理解不能な構造を持つことが判明する。

この言語を操る者、それは神なのか? 

だとしたら、嘲笑うように謎の言語を提示する神の真意は?

やがて圭助は、人類の未来を賭けた壮絶な闘いの渦に巻き込まれていく

-壮大なテーマでSF界を瞠目させた傑作長編。



引用


だが、これはやらなければならない仕事なのだ……ヴィトゲンシュタインはそう自分に言い聞かせた。

俺が挫折することになっても、きっと誰か仕事を受けついでくれる人間が現われるに違いない。

重い雲がちぎれかけて、海にうっすらと陽が差している。

その海を見つめるヴィトゲンシュタインの眼に、ようやく和やかな光が泛び始めていた。

(P.14)


ぼくが言っているのは、変形規則が異るとか、語形が異るなどということではない。

その程度のことで弱音を吐くほど、ぼくはやわな研究者じゃないつもりだ。

<古代文字>には、あらゆる文字に共通しているはずの、言語それ自体の普遍的な条件が、ごっそり欠落しているのだった。

確かに、世界には様々な個別言語が存在する。が、それら個別言語が、互いにどれだけ違うものに見えようと、そこには共通した規制が働いている。

人間の頭脳だ-。

つまり、人間の頭脳には、言語に存在しうる変形が必ず満足する普遍的条件が、あらかじめ与えられている訳だ。

(P.35)


ぼくが、<<古代文字>>を一種のメタ言語だと表現したのは、それが、ただ二つの論理記号しか所有していないからだ。

<メタ言語は、メタ論理の対象として研究される対象言語よりも、より有限的な性格を持たなければならない>

という原則があるのをご存知だろうか?

世界のあらゆる個別言語が、五つの論理記号を持っていることから、<<古代文字>>はメタ言語としての条件を満足している-と、まあ考えることはできる。

だが、それはそれだけの話で、たんに見かけ上のことにすぎない。

言葉を換えてみよう。

世界のあらゆる個別言語だけではなく、人間の脳が、五つの論理記号を持っているのだ、と-

(P.55)


またしてもコンピューターは、ぼくが予想もしていなかった<<古代文字>>のありえない構造をはじきだしてきたのだった。それによると、<<古代文字>>の関係代名詞は、なんと一三重以上に入り組んでいるらしかった。

人間は、関係代名詞が七重以上入り組んだ文章を理解することができない、というのに、だ-

(P.59)


「言い換えれば、二元論は論理の本質だ、ということにならないかね。そして、<<神>>のありざまを感知していた道士や錬金術師たちが、ごく自然に、二元論にかたむいていった、ということは……

それが、我々の理解を絶した論理であろうと、<<神>>もまた論理的な存在である、という証しではないだろうか」

(P.93)


感想


「神狩り」は、1974年の作品で、当時二十三歳の山田正紀のデビュー作且つ代表作である。

内容は、謎の古代文字を解き明かそうとする人達が次々と殺害されていくという、比較的ミステリー色の強いSF小説となっている。


主人公の島津圭助は、情報工学の天才で、機械翻訳のオーソリティでもある。

作中、垂涎の的であったスーパーコンピューターを使って、島津圭助は古代文字の解明に挑戦していく。

今でこそコンピューターによる翻訳は馴染みのある技術だが、作品が書かれた当時のコンピューターの能力で考えた場合、相当に難易度の高い技術だったと思われる。

また、プロローグでは、哲学者のヴィトゲンシュタインも登場したりもするが、全体的には読みやすいレベルに仕上がっている。


この作品を読んで、特に感慨深いのは、神という存在についてのSF視点による考え方である。

一般的な神のイメージは、人間に姿が似ていて、人間の言葉を使い、人間的な思考をする存在だと思われる。

そこでの神のイメージは、人間の思考の限界を越えていない。

しかし、そもそも神という存在は、人間の言葉を使用した思考ではなく、人間の脳の限界を超越した、非人間的な論理構造で思考しているのではないだろうか?


また、一般的な神の存在否定は、真に科学的にロジックを突き詰めていった考えでは無く、宗教的な神のイメージに対する否定が大半なのではないかと思われる。

しかし、ダークマターやダークエネルギーなど、宇宙に於いて人間が解明出来ない事は95%以上と言われている。

また、地球外生命体にしても、所謂ダーウィン的進化を遂げた生物ではなく、エーテル状になって漂い存在しているのかもしれない。

要は、人間の思考能力では到達出来ない領域が世界には存在し、人間の思考能力に限界がある以上、神の存在について肯定的に語る事は、非SF的とは言えないのである。


作中、気に掛る点は、硬派なハードSF的作風にESP(超能力)というガジェットの組み合わせは、良くも悪くも漫画チックになり、個人的にはミスマッチに感じられる点である。

それは、ESPを使う事によって、作家の作品に於ける自由度が高くなり、作家が物語を都合の良いように推し進める事が出来てしまうのが、大きな要因であると思う。

これは、ミステリー小説等に心理学や精神医学を使った場合に於いても、論理性を欠いたご都合主義として、同じような事が言える。


閑話休題、この作品のテーマについて一言で言うならば、「神vs人間」である。

それは、「神vs科学」と言うよりも、人間が神を越える存在となり、新たな秩序を創造する、といった云わば傲岸不遜と言えなくもないテーマが含まれている。

しかし、これは超言語的存在に対する作家の若さ故の挑戦とも言えるだろう。


ラストは、或る程度納得行くようなストーリーになっており、読後感はまぁまぁ満足出来る上、日本SFの特色がよく表れている作品だと思う。

日本SFの中では歴史的に重要な作品なので、マスト感も強く読んで損は無い作品である事は間違いないだろう。









キリンヤガ (ハヤカワ文庫SF)/早川書房
¥886
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あらすじ(裏表紙参照)


絶滅に瀕したアフリカの種族、キクユ族のために設立されたユートピア小惑星、キリンヤガ。

楽園の純潔を護る使命をひとり背負う祈祷師、コリバは今日も孤独な闘いを強いられる……

ヒューゴー賞受賞の表題作ほか、古き良き共同体で暮らすには聡明すぎた少女カマリの悲劇を描くSFマガジン読者賞受賞の名品「空にふれた少女」など、あまたの賞を受賞した粒ぞろいの物語で綴る、著者の最高傑作のほまれ高いオムニバス長編。


引用


「わかっていないな」 わたしは立ちあがった。

「われわれの社会は、雑多な人間と習慣と伝統を寄せ集めたものではない。サバンナの植物と動物たちの関係のように、すべての断片がたがいに依存しあっている複雑な組織体なのだ。もしも草を焼いたら、それを食べるインパラを殺すだけではなく、インパラを食べる肉食獣や、肉食獣にたかるダニや蠅、死んだ獣の肉を食べるハゲワシやハゲコウをも殺すことになる。一部を殺せば全体を殺すことになるのだ」

(P.54)


「わしは大ヘビを、キクユ族やそのほかすべてのものと同じように創造した」 ンガイは、キリンヤガの山頂で黄金の玉座にすわったままこたえた。

「わしが創造したものは、人間でも大ヘビでも木でも観念でも、わしにとっては不快な存在ではない。おまえはまだ若く無知だから、今度だけは助けてやろう。だが、忘れてはならぬ、不快だからといってそれを破壊することはできないのだ - もしも破壊しようとすれば、それは必ずもとの百倍の大きさになってもどってくるだろう」

(P.186)


「キリンヤガはわれわれが望むものをすべてまかなっている。だからわしらはここへ来たのだ」

「キリンヤガはあなたたちが必要とするものをすべてまかなっているのよ」 ムワンゲがいった。

「すこし意味がちがうわ」

(P.197)


「ヨーロッパ人にとっては悪しきものではない。それは彼らの文化の一部なのだから。しかし、われわれがそもそもなんのためにキリンヤガへやってきたのかを忘れてはならない。キクユ族の世界を築き、キクユ族の文化を再建するためではないか」

(P.396)



感想


「キリンヤガ」は、マイク・レズニックの代表作のオムニバス長編で、プロローグとエピローグを含め、合計一〇の短編から成り立っている。


物語は、今から約一〇〇年後のテラフォーム化された小惑星、キリンヤガが舞台である。

キリンヤガで暮らす人々は、伝統的な生活を営むアフリカの部族であり、最先端の技術を使った古来のプリミティブな生活は、何とも眩惑的である。


キリンヤガで、コンピュータを使用する事が出来るのは、キクユ族の祈祷師(ムンドゥムグ)であるコリバ唯一人である。

主に、キリンヤガの木鐸であるコリバがコンピュータを使って<保全局>と連絡を取り合い、天候管理などを行っている。

但し、キクユ族内では、天候の変化は、コリバの呪術によるものだと信じられている。


つまり、キリンヤガ内で暮らすキクユ族は、ムンドゥムグであるコリバを除いて、皆、文明的な知識を持たずに生活している。

そして、コリバには、これらの事が正しいという強い信念があり、それ故にキリンヤガ内では様々な軋轢が生じて来るのだ。


コリバの考え方や信念は、帝国主義によって、土地と伝統的な暮らしを奪われ、奴隷化されたケニア人、若しくはアフリカ人の魂が宿っているように感じられる処がある。

しかし、その精神性自体は素晴らしいのだが、コリバは時に頑迷固陋で、剛直さも目立ち、部族としての純潔さを求め過ぎる傾向があるのだ。


その事が、最も顕著に描かれている短篇は、「空にふれた少女」だろう。

この物語は、偶然にコリバの家から本を見つけてしまった、聡明な少女カマリの話である。

コリバはカマリの頼みで、本の一節を朗読したが、この事が、やがて波乱を起こすきっかけとなる。

カマリは、文字の読み方を教えてくれるように、コリバに希うが、その尤もな要求は却下される。

元来、キクユ族は、読み言葉も書き言葉も持たずに生活していて、また読む事で別の考えを知ると、キリンヤガに不満を抱く事になるだろう、というのがコリバの考えであるからだ。

カマリは、やがて独学で読み書きを学ぶようになるが、その行動によって、この物語の悲しい結末が導き出されるのである。


この話で最も考慮したい処は、知識が如何に人間にとって尊いか、という事だろう。

必要な正しい知識や情報を与えずに、判断力を求める事は酷な事だし、間違いであるように思う。


七章の短編、「ささやかな知識」では、ムンドゥムグの後継者である少年ンデミも、コリバの語る寓話に懐疑的になり、理論的に考えていった結果、ケニアで歴史家になる道を選択する。


コリバは、カマリやンデミだけでなく、キクユ族全体に正しい知識や情報を提供した上で、キリンヤガの生活文化について、皆に考えさせ、そして話し合えば良かったのではないか、とは思う。

実際、アフリカの部族にしても、病気になったら病院にも行くし、食糧が不足したらスーパーマーケットに買い物に行く。

つまり、近代化を取り入れた上で、伝統的な生活を送る方法もあり、多くのキクユ族が望んでいたのは、そういった生活なのだ。


これらの葛藤については、「キリンヤガ」、「マナモウキ」、「ドライ・リバーの歌」、「古き神々の死すとき」、等の短編で描かれている。

特に、「ドライ・リバーの歌」では、コリバの感情的な面が著しく表れているが、ムンドゥムグの立場としては、感情や自尊心は一旦置いておき、人々の意見を幅広く取り入れ、分析的に思考していく必要があったように思う。


コリバがキリンヤガで目指した世界は、植民地化される前の本当の民族的な生活であり、純粋な理想でもあるのだろう。

しかし、キリンヤガも変わっていかなければならないし、コリバも変わっていかなければならなかった。

但し、変化は必ずしも正しいと言えず、悲憤慷慨していたコリバの意見も考慮しなければならない。


恐らく、世界一幸福な国と言われているブータン王国も、近代化の波が押し寄せれば幸福ではなくなってくるだろう。

利便性と幸福は別であり、知識と幸福もまた別だと言える。

しかし、多くの人々にとって、カマリやンデミのように知への渇望が止む事は無いだろう、と思える。

そして、それは人間らしさの一つでもあり、とても大切な権利の一つでもあるだろう。


SFでは、帝国主義批判的な物語も多いと思うが、「キリンヤガ」はトライバリズム(部族中心主義)批判とも言えるような内容も含まれている。

また、ヨーロッパ中心主義にも文化相対主義にも偏らない作者の感性が、この作品を傑作に押し上げているように思える。

アフリカ・ルネサンス運動によって、アフリカ人の自覚・伝統は重視されてきたが、アフリカの歴史自体は、まだまだ知られていない。

しかし、アフリカ民族の視点によって描かれたこの物語を読めば、アフリカ人やアフリカの歴史を、より良く理解する手助けになるかもしれない。


「キリンヤガ」は、SFファン以外の人達には馴染みの薄い作品かもしれないが、SFファンの人達にとっては、数々の賞を受賞した評価の高い作品として、名が知られている。


最後に、「キリンヤガ」が受賞した、SF関連の賞について、今一度整理して、下記に記しておく。


ヒューゴー賞 - 年に一度開かれる世界SF大会で、参加者の投票によって決定されます。


ネビュラ賞 - アメリカSF&ファンタジイ作家協会の会員による投票で選ばれます。ヒューゴー賞をファンの選ぶ賞とすれば、こちらはプロの選ぶ賞といえます。


ローカス賞 - SF情報誌<ローカス>の読者の投票で選ばれます。


SFクロニクル読者賞 - 同じく、SF情報誌<SFクロニクル>の読者の投票で選ばれます。


ホーマー賞 - パソコン通信サービスCompuserveにあるSFフォーラムで、会員の投票によって選ばれる賞です。


SFウィークリー読者賞 - インターネット上のオンラインマガジンで、その年のヒューゴー賞の候補作を対象に、読者の投票によって選ばれたようです。


日本星雲賞 - 日本SF大会の参加者の投票で決定されます。日本版のヒューゴー賞といえるでしょう。


ハヤカワSFマガジン読者賞 - 現在は日本で唯一のSF雑誌の読者が、その年の掲載作を対象に投票で選びます。


ゴールデン・パゴダ賞 - オクラホマSF作家協会が選出する賞です。


アレクサンダー賞 - ベル電話会社の従業員が選出する賞です。


年間SF傑作選 - ガードナー・ドゾワが編者をつとめるアンソロジーで、その年のすぐれた中短篇SFが収録されるほか、巻末に、選外佳作としてそのほかのお勧め作品のリストが載っています。









ユートピア (岩波文庫)/岩波書店
¥713
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あらすじ(表表紙参照)


表題の「ユートピア」とは「どこにも無い」という意味のトマス・モア(1478-1535)の造語である。

モアが描き出したこの理想国は自由と規律をかねそなえた共和国で、国民は人間の自然な姿を愛し「戦争でえられた名誉ほど不名誉なものはない」と考えている。

社会思想史上の第一級の古典であるだけでなく、読みものとしても十分に面白い。


引用


「他でもありません(と私は答えました)、イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大喰いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに喰殺しているとのことです。

おかげで、国内いたるところの田地も家屋も都会も、みな喰い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。

そのわけは、もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない、その土地の貴族や紳士や、その上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害悪を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲ってしまうからです。(以下略)

(P.26)


フランス王国一国だけでも一人の人間では治めきれないくらい大きすぎる。したがってフランス王は領土拡張などに憂身をやつす必要はない。

そして、ユートピア国南東方に面する地点にある、アコーラ人という国民の間に行われている法令をこそ採用すべきである、などといったらどうなることでしょうか。

このアコーラ人という国民はかつてその国王の野心の為に他国を併呑しようとして、戦争を始めたことのある国民なのですが、なんでも、そのアコーラ王は古い姻戚関係からその相手国の王位継承権があると主張し、自分こそ王冠をつぐべき正当な人間であると宣揚大いに努めたのだそうです。

しかし、やっとその国を手に入れてみて始めて分ったことは、その統治の苦労と困難は侵略のそれにも優るとも劣るものではないということでした。

この新付の民は何か機会さえあれば謀反を企み、毎日のように暴動を起こしましたし、そうかと思うと周辺の外敵また絶えず侵攻して来ては暴行掠奪の限りを尽しました。

その為にアコーラ人はこの新付の民を、時には味方とし、時には敵として、常に戦わなければなりませんでした。

(P.48)


そして、プラトンがすべての人が富と便益の平等な分配を享有することを規定する法律を拒否した者たちの為に、法律を作ろうとしなかったことをもっともなことと思います。

プラトンの慧眼はよく、あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道であることをみぬいていたのです。

そして、この平等ということは、すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべくもないと私は考えています。

(P.62)


今さら言うまでもないが、あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。

人間はなくもがなの、玩具のような物を見せびらかして他人をしのげば、それがすばらしい光栄であるかのように思うものなのである。そういう悪徳を知らない国民、それがすなわちユートピア人なのだ。

(P.92)


金というものは元来それ自体としては何の役にもたたないものである。にもかかわらず今日全世界の人々の間において非常に尊重されている、それも、元来なら人間によって、そうだ、人間が用いるからこそ、尊重されていたのに、今では逆に人間自体よりももっと尊重されている。

なぜそうなのか、ユートピア人にはどうしても合点が行かないのである。

(P.107)


この国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国もしくは共栄国の名に値する唯一の国家であろう。いかにも共和国(公共繁栄)という言葉を今でも使っている所は他にいくらもある。

けれども実際にすべての人が追求しているものは個人繁栄にすぎないからだ。

何ものも私有でないこの国では、公共の利益が熱心に追求されるのである。

(P.176)


だから今日いたる所で繁栄をほしいままにしているあらゆる国家のことを深く考える時、神に誓ってもよいが、私はそこに、共和国の名のもとにただ自分たちの利益だけを追求しようとしている金持の或る種の陰謀のほか、何ものも認めることはできない。

金持はまず第一に、どうしたら自分たちが不正な手段でかき集めたものを安全に確保することができるか、次にどうしたら出来るだけ安い賃金で貧乏人の労力を自分たちの都合のよいように利用することができるか、ということを考え、そのためあらゆる手段と術策を見つけようと汲々としている。

そして、そういう方策がみつかると、この金持たちは、国家のために、つまり一般大衆の幸福のためにとかいってこれらの方策が守られるように強制する。

(P.178)


感想


トマス・モア作「ユートピア」は、社会思想の古典というだけでなく、ハクスレ-やオーウェル等の英国伝統SFの源流となる重要な文学である。

「ユートピア」で語られる世界は、云わば共産主義の世界であり、当時の絶対主義、重商主義の欧州に於いては、対蹠的な世界観と言えるだろう。


小説の中身について、まず、ユートピア島の島民がどういった生活を送っているかというと、男女ともに農業を労働の中心として生活している。

そして、島民はその他の技術を習得するのが義務となっており、主な技術的職業は、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、大工職といった処である。

また、輸入に頼る事なく、生活の必需品、文化品等を自給出来る生産力も持っていて、輸出によって金銀財宝を蓄えているが、それは戦争の時に外国人の傭兵を雇う為である。

基本的にユートピア島民は、金銀を本来の価値以上に評価する事は無い。

また、金銀は奴隷を縛る鎖などに使われ、汚く恥ずべきものという概念が島民に植え付けられている。


ユートピア島民は、動物的な快楽よりも心の快楽(徳、愛情)を重要なものと考える。

動物的な快楽というものは大概にして、苦痛からの解放によって感じる刹那的な快楽の事を言う。

一方、心の快楽は半ば永続的に作用し、充実感も大きい。

心の快楽というと何か宗教的な印象を受けるかもしれないが、物質的に飽和状態にある現代人にとって、心をどう満たしていくかは最重要の課題ではないだろうか。

こういったユートピア島民の真面で徳のある気質によって、掣肘を加える必要も少なく、政治や法律がより良く機能している。

また、法律家が一方的に得をするような複雑で難解な法律も、必要の無い状況になっている。


重要だと思う処は、一般的に使用される「ユートピア」という言葉は、現実的では無い空想的国家を意味するが、モアの「ユートピア」では、現実的に近代人が目指すべき理想国家が描かれている、という処である。

そして、五百年前のイギリスやヨーロッパと現代社会が、問題点として符合している事も見逃せない事実だろう。


共産主義は、理念としては労働者の代表が労働者の幸福を最大にするような政治、つまり「プロレタリア独裁」を意味している。

旧ソ連の例で言うと、労働以外の資源を政府が所有し、共産党幹部が計画経済に沿って、最適と思われる資源配分を実施している。

しかし、実際は党幹部が国民の利益よりも自分たちの利益を優先した為、頽唐し、崩壊の道を辿る事になった。


一方、資本主義経済は、資源の最適化を市場に委ねるシステムで、市場で会社や個人が自由に競争する事により最適な資源配分が行われる、という仕組みになっている。

しかし、アメリカの現状を見ると、個人のGDPや平均所得は増えているが、それは極端な金持ちが平均を押し上げているだけで所得の中央値は低い、というのが現状である。


欧州型資本主義は、社会主義と資本主義の良い部分を取り入れて何とかバランスを保っている。

今の日本もこれに近いが、福祉が一定の特権者に過剰に供給されたり、ワーキングプアや貧困層が生じたりと、自由と平等性に欠けた問題点も数多く残されている。


私たちは、政治と直接的にコミュットする事は難しいかもしれないが、理想的社会について考えていかなければならないだろう。

国家が何も変わらないとすれば、個々人がどういう社会が自分に適しているかを考慮し、小さな国家形成を目指す事も悪くない考えかもしれない。

そして、資本主義にしても社会主義にしても社会主義的資本主義にしても、結局は、政治家や国民の人間性に大分に依拠しているし、トマス・モアもヒューマニズム批判で本書の掉尾を飾っている。

批判すべき部分も多々あるかもしれないが、ユートピア島民の人間性は、現代を生きるのに適する見習うべき部分が多いのではなかろうか。


個人的な感想を言うならば、「ユートピア」の内容自体よりも、トマス・モア自身の生き方に感銘している。

トマス・モアの人生と歴史について、簡略したものを以下に記しているので、興味のある人は読んでみるといいだろう。


トマス・モアは、一四七八年にロンドンに生まれ、十二歳の頃、キャンタベリ大司教の屋敷に小姓として見習奉公に行く。

その後、十五歳でオックスフォード大学に入学し、ギリシア語を学び、新しい文化・学問・人間観、総じてヒューマニズムの洗礼を受ける。

その後、法学院で法律を学び、法律家としての力量を認められていく。

そして、平和とヒューマニズムを愛するコズモポリタン、エラスムスと知り合う事になる。


一五〇九年、ヘンリ八世が王位に就く。

その頃、イギリス国内では問題が山積みになっており、例えば、羊毛業が盛んになるにつれ農場はその為に囲われ、農場を追われた者たちは餓死するか泥棒するしかなく、そして、窃盗罪に対する処罰は死刑であった。

囲い込み(エンクロージャー)については、モアも小説内で諷刺している。
モアは、プラトンの「国家」やアウグスティヌスの「神の国」を読み耽り、人間に対しての怒りを内に秘めながら、一つの国家を想像していた。

それは、貧乏人の苦しみや支配階級の搾取や犯罪や陰謀に対して、公憤を覚えていたからだろう。


モアは、一五一〇年、ロンドン市の法律顧問となる。そして、一五一五年に「ユートピア」を書き始める。

モアは、イギリスの悲惨な現状を痛烈に批判し、暴君を呪った。

しかし、「ユートピア」では批判を空想化し、滑稽化しながら、ストーリーテラーのヒスロデイに、現実を暴露させるという手法を取っている。


その後、モアは、一五一七年に宮廷に仕えるようになる。

その年は、ドイツのウィッテンベルクの教会堂の門に、ルターが「九十五箇条の意見書」を貼って免罪符に反対し、「宗教改革」の烽火が上がる事になった年でもある。

モアは、ヘンリの信任も篤く、一五二一年にはナイトの爵位、一五二九年には、大法官の重職に就く。

その頃、国家と宗教の問題は尖鋭化していくが、モアは敬虔なカトリック信者で、ヘンリも「信仰の擁護者」だった。

しかし、ルターの宗教改革によって、ヘンリのローマ教皇に対する信仰も揺らぎ始める。

その後、ルターの福音主義とエラスムスのヒューマニズムが対立したが、妥協点を見出す事は出来なかった。


一五三二年、キャンタベリの宗教会議は、ヘンリを「われわれの唯一の守護者、唯一最高の主権者、しかしてキリストの律法の許し給う限りにおいて、われわれの最高の主」なる事を承認した。

その後、ヘンリは、国王首長令と大逆罪令によって、教皇の権威を否定し侃諤していたモアを、死刑に処す事とした。

これは、「法の名の下に行われたイギリス史上最も暗黒なる犯罪」である。

しかし、秩序を愛する者にとって、モアの名は永遠に刻まれる事になったであろう。
















アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))/早川書房
¥799
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あらすじ(裏表紙参照)


第三次大戦後、放射能灰に汚された地球では、生きている動物を所有することが地位の象徴となっていた。

人工の電気羊しかもっていないリックは、本物の動物を手に入れるため、火星から逃亡してきた<奴隷>アンドロイド8人の首にかけられた莫大な懸賞金を狙って、決死の狩りをはじめた!

現代SFの旗手ディックが、斬新な着想と華麗な筆致をもちいて描きあげためくるめく白昼夢の世界!

[映画化名「ブレードランナー」]


引用


感情移入という現象は、草食動物か、でなければ肉食を断っても生きていける雑食動物にかぎられているのではないか-いちおうそんなふうにリックは考えている。

なぜなら、究極的には、感情移入という天与の能力が、狩人と獲物、成功者と敗北者の境界を薄れさせてしまうからだ。

(P.41)


本能的に、リックは自分の方が正しいと感じた。自分の胸に問いかえしてみた。-これは人工物への感情移入だろうか? 生き物をまねた物体への? しかし、ルーバ・ラフトは、まぎれもない生物に思えた。偽装という感じはまったくしなかった。

(P.181)


火星時代は薬剤師-とリックは読んだ。とにかく、このアンドロイドはそう自称しているということだろう。

実際には、おそらく肉体労働-作男かなにかとして雇われ、よりよい生活への野心を燃やしていたのかもしれない。アンドロイドも夢を見るのだろうか、とリックは自問した。

(P.236)


感想


大分昔に一度購入して読了しているが、表紙が新装によってカッコ良くなったのをきっかけに、買い直して再読する事になった作品。

映画「ブレードランナー」の影響で、フィリップ・K・ディックで最も有名な小説になった訳だが、テーマの深さを考えると、やはり映画よりも小説の方をぜひお薦めしたい。


さて「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」では、人間とは何か?が重要なテーマとなっている。

作中、リック・デッカードは、ネクサス6型アンドロイドのルーバ・ラフトやレイチェル・ローゼンに対して、バウンティハンターとしては有るまじき感情を抱く。

つまり、人間と同じように、アンドロイドに対しても共感を抱いたり、感情移入をしていく。

また、リック・デッカードやフィル・レッシュといったバウンティ・ハンターは、自身が人間なのかアンドロイドなのか、やがて懐疑的になっていく。
面白いのは、読者もこの物語に感情移入する事によって、読者自身も自分が人間かアンドロイドなのか区別がつかなくなるような眩惑感が現われる事である。

但し、重要なのは人間かアンドロイドかといった生物学的区分ではなく、人間とは何なのか?というこの物語のテーマであろう。


人間には、誰しも感情が備わっているが、その感情が0と1で表現出来るものなのかどうか、一考してみると面白い。

科学万能主義的な考え方をする人なら、人間の感情をコンピュータで全て表現する事も可能である、と考えるだろう。

EUのヒューマン・ブレイン・プロジェクトによると、2023年頃には人間の頭の中で起こっている化学反応をコンピュータ上でシミュレーション出来るようになるらしい。

また、遺伝的アルゴリズムとニューラル・ネットワークの研究が進んでいけば、やがてアンドロイドに意識や感情が芽生えるようになるかもしれない。


しかし、感情というものは、慈しみの心や優しさ、憎しみ、憂鬱といった様々な要素を兼ね備えている。

そして、人間がアンドロイドを利用したいと考える時、当然、アンドロイドにも人間にとって不都合な感情が包含されている。

作中、アンドロイドは奴隷から解放される為に、火星から地球へ逃亡を企てるが、それは人間らしい感情を持つアンドロイドなら当然の行動であるだろう。

ここで考えなくてはいけないのは、意識や感情が芽生えたアンドロイドを、人間にとって不都合だという理由で抹殺しようという考え方は、危険なのではないかという事である。


人間の意識や感情は、非合理的で不完全に出来ていて、それらを何とか補おうとする仕組みとして、他者への慈しみや共感能力が人間には備わっている。

恐らくディックは、テクノロジーが進化するに従って人類の感情が冷たく機械化されていく事に対して、警鐘を発せずにはいられなかったと思うのだ。

この物語で登場する重要なガジェットのフォークト=カンプフ検査は、私たち自身の人間性、特に慈しむ心延えをチェックをするように、警鐘する役割を果たしているようにも感じる。
また、ペンフィールド情調オルガンは、感情を合理的に扱いネガティブな感情を否定する事により、自分自身の考えを持てなくなる事に対する警鐘とも考えられる。


現在、私たちは、テクノロジーによる環境の変化によって、感情を失うというよりは、感情の質が変化してきているのではないだろうか。

そして、今の社会を生き抜く為に必要とされる、人間の感情の変遷や進化は、果たして正しい方向へ向かっているのだろうか。

ディックは、そういった人類の内面的な変化と人間性について、物語を通して警告しているのだろう。


人間という生物について考えさせられる重厚なテーマを持った作品であるが、文体もスタイリッシュで、ディック作品にしては読みやすい内容なので、興味がある人は試しに読んでみるといいだろう。





ガリヴァ旅行記 (新潮文庫)/スウィフト
¥637
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あらすじ(裏表紙参照)


スウィフトの諷刺は、一点の感情も交えない骨を刺す体のものであり、直接の対象は当時のイギリス社会の具体的事件や風俗であるが、それらは常に人間性一般への諷刺にまで高められており、そこに彼の作品の永遠性、普遍性がある。

本書は、船員ガリヴァの漂流記に仮託した『小人国』『大人国』『飛島』『馬の国』の四部の物語からなり、古今東西を通じての諷刺文学の傑作である。


引用


内憂というのは、ここ七十ヵ月以上というもの、この国では二つの政党が激しく争っている。

政党の名前は、それぞれトラメクサン党およびスラメクサン党というのだが、これは彼らを区別する標識である、穿いている靴の踵が高いか、低いかから来た名前である。

事実この国古来の憲法からいえば、高い踵の方が好もしいと言われている。

ところが、それにもかかわらず陛下は、貴下もきっとご覧になったろうが、政府のあらゆる施政、あるいは陛下より賜わる諸官職において、もっぱら低い踵ばかりをお用いになる。

ことに陛下御自身用の靴などは宮中のだれよりも、少なくとも一ドラー(ドラーは一インチの約十四分の一にあたる)は踵が低い。

この両党派の反目というものは非常なもので、一緒には飲み食いもしなければ話もしない。数においてはまだトラメクサン、すなわち高踵党が優っているが、しかし権力はまったくわが党の手にある。

ただ心配なことは、皇太子殿下がどうやら高踵党の方に傾いていられるらしい。その証拠には少なくとも殿下のお靴は一方の踵が他の一方の踵よりも高くて、そのためにおかしな歩き方をしていられることは、われわれにもはっきり分る。

ところがこの国内不安の真最中に、われわれはまたブレフスキュ島からの侵略に脅かされているのである。

ブレスフキュというのは、ちょうどこの国と対立する強大国で、国土の大きさからいっても、国力からいっても、ほとんど似たり寄ったりである。

(P.53~P.54)


この二大国はこの三十六カ月間というもの、実に執拗な戦争を続けている。

原因というのはこうだ、どこへ行っても、卵を食べるのに、その大きい方の端を割るというのは原始以来決った習慣である、ところが現皇帝の祖父君というのがまだ幼少におわすころ、卵を召上ろうというので、習慣に従って割られたところが、その拍子に小指に怪我をされた。

そこでそのまた父君であられる、時の皇帝陛下がただちに勅令をもって、以後卵は小さい端を割るべきもの、背くものは厳刑をもって臨むものなりという全国民への厳命があった。

だが、国民はこの法令を非常に非常にいやがって、歴史の伝えるところによると、ために六回の反乱が起り、その結果ある皇帝は命を落とされる、またある皇帝は王位を失われるという有様だった。

(P.54~P.55)


我輩はまず、わが国は二つの島からなり、それは一人の主権者の下に三つの強力な王国を形成している、そしてほかになおアメリカの植民地がある、というような話からはじめた。

次にはその土地の豊饒なこと、気候の温和なことを縷々として述べ、さらに英国議会の組織について詳説した。すなわちその一半を構成しているのは上院と呼ばれる貴族の団体で、これは最も高貴な血統と最も古い世襲財産を享けた人々の集まりである。

この人々の教育については、文武両方面にわたって特別な注意が払われるのが常で、それというのが彼らは生まれながらにして王および王国に対する助言者でなければならず、そのほか立法府に列なり、これ以上上告のない最高の高等法院の一員となり、あるいはまたその勇気と忠誠とをもって、常に真先に国家の防衛者をもって任じなければならないからである。(中略)

なおこの人々のほかに上院には、主教の名で呼ばれている幾人かの聖職者が加わっている。

彼らの仕事は宗教と、および国民に宗教的訓練を施す人々とを監督することである。(中略)

議会の他の一半を構成しているのは下院と呼ばれる集団である。

これはその優れた才能と愛国的精神とによって、人民自身の手で自由に選出された典型的紳士の集まりで、いわば全国民の知恵を代表するものである。

そしてこの二つの団体はヨーロッパで最も権威ある集団であり、国王と協力して、いっさいの立法権を与えられているのだ。

(P.160~P.161)


すなわち、親愛なるグリルドリッグ君よ、君は君の祖国に対して実に立派な称賛の辞を述べた。

時には実に無知と怠惰と悪徳のみが立法者の適性要件であるということ、しかもその法は、ただそれらを歪曲し、混同し、回避することにのみ興味と才能を持っているような人々によってかえって、最もよく説明され、解釈され、適用されるものだということを、君は見事に証明した。

なるほど、君の国の制度にも、本来ならば多少見るべきものもあるようだ、だが、それも腐敗のために、あるものは半ば効果を失い、その他に至っては完全に抹殺されたも同然であるといってもよい。

また君の話から判断すると、君の国ではいかなる位置の獲得にせよ、徳などというものはいっさい必要ないという風に思える。

いわんや人が有徳によって貴族になったり、聖職者が敬虔と学問とにより、軍人が行為と勇気とにより、裁判官がその廉直により、議員がその愛国心により、顧問官がその知恵により、それぞれ昇進するというようなことがあろうとは考えられない。

(P.166~P.167)


また別の室では、我輩たいへん面白く思ったことだが、鋤や家畜や労力によって土地を耕す代りに、豚を使ってやる方法を発見したという企画士がいた。

それはこうだ、たとえば一エーカーの土地があると、六インチおきに八インチの深さで、たくさんの団栗、なつめ、やし、栗、その他豚の大好物な木の実、野菜類を埋めておく、そして六百頭あまりの豚をこれへ追い入れるのだ、すると、二、三日もすれば、豚どもは食物を探して、隅から隅まで完全に掘り起こしてしまうばかりか、同時にその脱糞がうまく肥料になって、もう種子を蒔くばかりになっているというのである。

もっとも実験の結果は費用と労力がかかるばかりで、収穫はほとんど皆無だったそうだが、とにかくこの発明によって非常な改良が期待できるということだけは、誰ひとり疑っていなかった。

(P.231)


とうとう我輩は畑の中になにか動物が五、六匹と、またこれも同じ種類の動物が一、二匹、樹の上に登っているのを見た。その形というのがまたひどく奇妙な醜いもので、さすがに我輩もちょっとギョッとなって、しばらく茂みの蔭に臥せり、あらためて見直してみた。

そのうちに彼らの二、三がたまたま我輩の臥せている方へやって来たので、はっきりと形状を見ることができたのだが、頭と胸はいちめんに濃い毛-縮れたのも、真直なのもあるが-が密生している。

山羊のような髯をはやしているうえに、背中から脚および足首の前部へかけては、長い毛並が深々と生えているが、その他の部分は全部無毛で、黄褐色の皮膚が、裸で見えている。

(P.288)


彼の言うには、其方自身、ならびに其方の本国に関する話は、その後篤と真面目に考えてみた、だがそれによると、其方どもは、どういう風の吹廻しか、偶然にも爪の垢ほどの理性を与えられた一種の動物であるらしい。ところが、其方どもは、ただ生来の背徳を助長するばかりか、自然が与えてもいない、さらに新しい悪徳まで学ぶために、それをただ悪用するばかりである。

せっかく自然の与えてくれたなけなしの能力は、これを捨てて顧みず、もとからの欠陥を、ますます増大することだけは天晴れな腕前だ、そして一生わざわざ骨を折っては、欠点を殖やす工夫発明を凝らしているようなものである。

(P.341)


感想


「ガリヴァ旅行記」は有名な古典作品ではあるが、実際に読んだ事がある人は少ないのではなかろうか。

恐らく、世間一般のこの作品のイメージは、第一篇の「小人国」のイメージに留まっていると思われる。

そして、実際に読んでみた感想を言うなら、厭離穢土と表現すればいいのか、とにかく厭世感に満ち満ちた作品で、特に読者は、第四篇のフウイヌム国渡航記を読み終えた辺りで、暗澹たる気持ちにさせられる事だろう。

しかし、それと同時にアンビバレントである痛快な感情を引き起こすのは、リアルな諷刺とユーモラスな世界観によるものが大きい。


ストーリーは、第一篇リリパット(小人国)渡航記、第二篇ブロブディンナグ(大人国)渡航記、第三篇ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリッブ、ラグナグおよび日本渡航記、フウイヌム国渡航記の全四篇から成立している。

そして、第一篇と第二篇は政治的諷刺、第三篇と第四篇は人間の諷刺に重きを置いている。

全四篇は、それぞれ多様な視点の世界観で描かれており、小人、巨人、天空、馬、等の視点、それも五感を刺激する描写で、人間世界を諷刺している。

我々がこの世界に感じる不条理や違和感は、日常的な視点とは違う角度から考察する事により、更に明確に感受する事が可能になると思える。

そして、この作品の政治や人間の辛辣な諷刺によって、如何に世界が不条理で馬鹿馬鹿しい形態で成立しているか、という事を痛感させられる事だろう。


政治的風刺は、どのような隠喩でもって表現されているかというと、例えば以下のような形式である。

第一篇のリリパット国はイギリス、ブレフスキュ国はフランス、そしてトラメクサン党及びスラメクサン党は、それぞれ政党ホイッグ党とトーリー党を表している。

卵論争については、太端宗派はローマ・カトリック、そして、小端宗派はプロテスタントを表している。

第三篇の企画士養成の学士院は、科学アカデミーを諷刺したものだと思われる。

また恐らくは、スウィフトが私淑する作家トマス=モアが処刑された事により、絶対王政に対しては少なからず思う事があっただろう。

第一篇では、その辺りの示唆を感じ取る事が出来る。

そして、アイルランド人であるスウィフトは、イギリスの祖国に対する植民地支配や政策に対して、相当な慷慨を抱いてたのではなかろうか。

各篇毎にガリヴァが、各国の王様に故国(イギリス)の事をそのままの形で話すシーンでは、故国の政治や法律その他の諸制度の不備を、王様が容赦なく批判する役割を担っている。

我々は、異文化と接する場合、自分達の習慣が正しいと思い込む傾向があるのだが、それが如何に滑稽かという事が巧く表現されている。

その他、政治的風刺は、各篇随所にぎっしりと詰め込まれており、歴史的背景を知っていると、より寓話を楽しめるだろう。

因みに、「ガリヴァ旅行記」は、政治学入門書としての役割を果たしているだけに、専門の解説書も幾つか出版されているようである。


人間諷刺は、どのように表現されているかというと、小人国や巨人国の視点の大小変化による五感を駆使した表現がまず第一にある。

小人国の矮小化された人間の姿は、随分と自信過剰に映るし、巨人国の巨大な人間な姿は浅ましく、そして汚らしく映るのだ。

視点の変化、または五感を活かした表現がユーモアと共に効果的に発揮されているので、諷刺だけでなく、物語としても充分面白いと言えるだろう。

また、第三篇のグラブダブドリッブ(魔法使いの島)では、酋長は魔法によって死人を二十四時間に限り、呼び出す能力を持っている。

そこで、ガリヴァは、アレキサンダー大王、カエサル、ブルトゥス、ソクラテス、ホメロス、アリストテレス、ガッサンディなど歴史上の偉人を呼び出して、各々に会話させるのだが、ここは歴史批判と共に、作者の歴史に関する造詣の深さに感服させられるシーンでもあるだろう。


そして、最も印象に残る人間諷刺といえば第四篇のフウイヌム国で、ここでは馬の姿をした人間と、家畜人であるヤフーが登場する。

つまりは、人間と馬が逆になった世界である。

馬の姿をしたフウイヌムは、理性的、論理的で温厚篤実な種族である。

一方、ヤフーは原始人のような姿をした人間であるが、それは人間本来の原初的な汚らしい風貌と共に、我々人間の身の毛の弥立つような意地汚さを諷刺したものである。

ヤフーは、お互いに憎み合い、必要以上に食物の取り合いをしたり、磨いた石に執着して争いをしたりと、その他、様々な滑稽な行動を繰り返すのだが、それは、我々人間の歴史上変わる事の無い習性でもあるのだ。

我々は、この世界を当然であるとして受け入れて(受け入れざるを得なく)生活しているが、フウイヌムという他種族の視点から観れば、それは有り得ない奇妙奇天烈な世界に映るのである。

あとがきの解説には、「(前略)世界は悪と愚劣と不幸とに充ちている、しかし人間がペルシャ人やフウイヌムのように、理性的で慈悲深くなりさえしたら、どんなに違った世界になることだろう、と、彼らはいう」と、批評家レナード・ウルフの言葉が引用されている。

スウィフトの諷刺や厭世感は、単純明快な人道主義者が唱える世界観とは対称的に、深く考察した上に辿り着いたものであり、それ故に、この物語は時代を越えて語り継がれる普遍性のある作品となっていったのだろう。


「ガリヴァ旅行記」は一七二六年に上梓された作品であるが、最後に時代背景をざっと簡単に説明したいと思う。

政治や歴史に興味のある方は、読んでみるといいだろう。


一五世紀、ルネッサンスによる羅針盤の発明、そして地理学や天文学の発達により、遠洋航海が可能になり大航海時代を迎える。


一六世紀、ドイツではルターによる宗教改革が始まり、教会の圧迫と諸侯の圧制に苦しむ農民によって、ドイツ農民戦争が起こる。

しかし、ルターは支配階級の仲間であった為、農民の反乱を制圧する。

そして、宗教改革はルター派の諸侯(プロテスタント)対教皇・皇帝(カトリック)の争いとして展開される。

一方、フランス人カルビンは、商工業の発展した国々に支持され、市民階級が市民革命の担い手となる。

カルビン派はイギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれる事になる。


イギリスの宗教改革は、絶対王政を築いたヘンリー八世によって行われる。

ヘンリー八世は、熱心なカトリック教徒だったが、王妃キャサリンとの離婚を反対され、教皇と対立する。

そしてヘンリー八世は、国王がイギリス教会の首長である事を宣言し、教皇と絶縁する。

因みに、「ユートピア」の著書トマス=モアは、王の離婚を批判した為に処刑されている。

またヘンリー八世は、全国の修道院を解散させ、その土地、財産を没収し、地主や大商人に売却して王室財政の強化に役立てる。

このように、イギリスの宗教改革は、宗教的動機からではなく、国王の集権化政策の一環として行われ、教義や儀式の面でカトリックと大差は無かった。


カトリック教会側は、宗教会議を開いて、従来の腐敗を認めて教会の改革を断行し、宗教裁判所を設けて異端の審問を強化した。

一五四三年には、ジェスイット教団(イエズス会=ヤソ会)が組織され、信仰に迷う大衆の魂を救う事を目指したが、この組織は、教皇の命令を絶対とする軍隊的規律をもち、相互監視も厳しく行われた。

教団の規約の一節には、「白に見えるものを教団が黒と断定したならば、即座にこれを黒と認めねばならぬ」とあったという。

一方、プロテスタント側も、カルビン派に見られるように、異なる宗派に対して極めて不寛容であった為、この両者は一六~一七世紀にかけて宗教戦争(ドイツの三十年戦争やフランスのユグノー戦争)を展開する事になる。


絶対主義とは、広い意味では時代を問わず君主の専制政治を指す事もあるが、歴史的には一六~一八世紀のヨーロッパで見られた政治形態を指し、典型的なものとしては、フィリップ(フェリペ)二世治下のスペイン、チューダー朝の特にヘンリー八世及びエリザベス一世治下のイギリス、ブルボン朝の特にルイ一四世治下のフランス、フリードリッヒ二世治下のプロシア、マリア=テレジア治下のオーストリアなどが該当する。

絶対主義国家では貨幣の重要性が増大し、かつ国王が官僚と常備軍を保持する上で多くの貨幣を必要とした為、商業及びこれと密接な関係を持つ工業の育成による貨幣の増収がはかられた。これが重商主義である。

イギリスでは、エリザベス一世の時代が絶対主義の全盛期で、エリザベス一世は議会を開かない絶対主義的な統治を行った。

そして、女王は一六〇〇年に東インド会社を設立し、アジア貿易を独占してインドの植民地化に大きな役割を果たす。また、内政では、カトリック教徒やピューリタンを抑圧した。


ドイツでは、三十年戦争(一六一八~四八)により、新・旧両教徒が争う事になり、その結果、ルター派とカルビン派はカトリック教徒と対等の権利を認められる。

三十年戦争で、ドイツは各国の傭兵隊によって略奪され、荒廃が広がり、人口は一六〇〇万から六〇〇万に激減したと言われている。


フランスでは、一六世紀中頃から商工業者・農民・貴族の一部の間にカルビン主義が普及したが、国王は国内の統一をはかる為に、ユグノー(カルビン派)を弾圧した。

その結果、ユグノー戦争(一五六二~九八)が起こり、新・旧両教徒は、外国勢力の援助を受けて激しく争う事になる。

また、ルイ一四世のもとで財務総監となったコルベールは、典型的な重商主義政策を行う。

即ち、国営マニュファクチュアを育成し、自国生産物の積極的な輸出と保護関税政策によって貿易を保護し、財政収入の増大をはかり、また積極的な植民地活動を展開した。


絶対主義の時代には王権の保護のもとに宮廷文化が発達し、美術では絶対王政の力を反映してバロック式が起こった。

バロック式とは、ルネッサンス期の安定・調和を重視する傾向を破り、力強さと流動感に溢れる美術を中心とする芸術の傾向をさす。建造物では、ベルサイユ宮殿がバロック式の代表とされる。

絵画では、スペインのベラスケスの肖像画、南ネーデルランドのルーベンス、オランダのレンブラントなどが代表的なものである。

一八世紀に入って絶対主義の絶頂期が過ぎると、バロック式の特色が薄れていき、代わりにロココ式が発達する。


ロココ式は、繊細優美な技巧を特色とする美術一般をさし、絵画ではフランスのワトー、建築では、サン-スーシー宮殿が代表的なものとされる。

この時代のドイツでは、教会や領邦君主の保護を受けて音楽が盛んになり、バッハやヘンデルがバロック音楽を大成した。

文学では、ルネッサンス時代に芽生えた国民文学が、国家の統一と国民意識の成長を反映してさらに発達した。

一八世紀のイギリスでは海外発展を反映した作品が生まれ、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」や、スウィフトの「ガリバー旅行記」が代表的なものとされる。


自然科学はルネッサンス以来、著しい発達を示し、イギリスで特に盛んとなり、代表的なのは万有引力の法則を発見したニュートンである。

また、化学ではボイルが元素の概念を確立し、医学ではハーベイが血液の循環を発見した。

一七世紀後半は、各国で競って科学アカデミーが設立され、科学や技術が振興される事になる。


イギリスでは、エリザベス一世のもとで海外貿易が進展する。

その後、一六〇三年、エリザベスの死に伴って、スコットランド王ジェームズ一世がイギリス国王となる。

ジェームズ一世は、国王側近や大商人に産業や貿易の独占権を与え、他の商人や産業資本家の営業を制限した為、毛織物工業の経営者などが進出していた議会は、国王との対立を深める事となる。

ジェームズ一世の後を継いだチャールズ一世も、父と同様に議会を無視した政治を行い、議会は一六二八年「権利の請願」を採択して王に抗議する。

そして、国王と議会の対立がエスカレートし、一六四二年遂に内乱に発展する。


議会で最も注目される人物であるオリバー=クロムウェルは、全員がピューリタンによって固められた「鉄騎兵」を率いて、国王軍の側面と背後に襲いかかって主力を打ち破り、五〇〇〇人の捕虜と全ての大砲を奪い大勝する。

国王は議会が任命した一三五名(議員・法律家・軍人など)から成る高等法院で裁かれ、「専制君主」「反逆者」の罪で死刑を判決される。

一六四九年、チャールズ一世は処刑され、議会は同年五月、歴史的な共和制宣言を発する。

この革命は、ピューリタンによって推進された為、ピューリタン革命と呼ばれる事になる。


共和制イギリスは直ちに、アイルランド遠征や航海法の施行、イギリス-オランダ戦争など積極的な対外政策をとって、ブルジョアジーの利益を保護したが、農民の土地要求には応じなかった。

革命軍の左派で農民や手工業者に支持された水平派は、人民主権を主張し、普通選挙権など自由・平等を要求したが、クロムウェルは水平派を弾圧し独裁権を握る事となる。

つまり、ピューリタン革命とは、ブルジョアと地主の利益を擁護した革命だったのである。


クロムウェルは、反カトリック感情を持っており、カトリック教国のアイルランドを快く思っていなかった。

クロムウェルは、政治的・宗教的理由に加えて、兵士の給与の財源確保や議会派の借金返済の為に、アイルランドを収奪する事となる。

そして、一六五二年にアイルランド植民法を制定し、土地の収奪を行い、アイルランドの全耕地の三分の二がイギリス人地主のものとなった。

アイルランド人は、イギリス人地主のもとで働く小作人となるか、イングランドやアメリカ大陸へ移住していかざるを得なくなる。小作人の生活は厳しく、それは「白人奴隷」と呼ばれた程であった。

その後、イギリスで産業革命が起こり、アイルランドはイギリスの市場として重要性を増した為、一八〇一年イギリスに併合される事になる。


クロムウェルは、厳しい軍事的独裁政治を布いて、ピューリタンの禁欲主義を国民に強制した。

国民は、次第にクロムウェルの禁欲的政治を嫌うようになり、王等派や長老派が反政府運動を行った為、クロムウェルの立場は厳しいものとなる。

一六五八年、クロムウェルが死ぬと、長老派は国民の不満に乗じて一六六〇年、王政復古を行い、チャールズ二世を王として迎える事となる。

王政復古のもとで新たに招集された議会は、国教会を奉ずる王党派が多数を占めていた為、ピューリタンを圧迫する事となる。

チャールズ二世は、亡命中にカトリック教に接近していた為、フランスの対オランダ戦争に協力するなどの密約を結んだ。

これは、競争国フランスの従属を意味していた為、イギリス人の不評を買う事となる。

そこで、議会は議員と官吏を国教徒に限り、カトリック教徒を公職から閉め出し、更に王による不当な逮捕や裁判を拒否し、人権を保障する事を定める事とした。


この間、議会の内部では、トーリー党とホイッグ党という二つの党派が生まれる事となる。

両派とも革命によって勢力を強めた地主を基盤にしている点では共通していたが、トーリー党は、国教会を擁護して王の権力を尊重し、貴族や革命を通じて強化された地主の間に勢力を持っており、後の保守党の前身となる。

またホイッグ党は、国王の存在を認めながらも、議会の自由と権利を主張し、商工業に深い関係をもつ貴族や地主を含め、独立自営農民などに支持され、後に自由党に連なっていく事となる。

一方、チャールズ二世は、トーリー党と結んでホイッグ党をおさえ、議会を分断させる事で専制政治を維持しようとする。


チャールズ二世の死後、弟のジェームズ二世が即位した。

カトリック教徒であった王は、専制政治を推し進め、カトリック教の復活をはかり、国教徒を弾圧した。

これには、それまで王を擁護してきたトーリー党も反発し、両党と議会はジェームズ二世の廃位に動く事となる。

一六八八年、両党は共同で王の廃位を決議し、王の長女メアリとその夫でオランダ総督のオラニエ公ウィレムを招いた。

これを受けたウィレムは、軍を率いてイギリスに上陸し、一方、国民の支持を失ったジェームズ二世はフランスに亡命して、無血の革命である名誉革命が達成される。


一六八九年、議会は王位の空席を宣言したのち、「権利の宣言」を議決する。

ウィレムはこれを認め、共同統治者メアリ二世として即位し、「権利の宣言」に若干の修正を加え、「権利の章典」として発布した。

これは、議会の同意なしに王は課税、法律の停止とその執行が出来ない事や、議会内での言論の自由などを定めたもので、これによって国民の自由と議会の伝統的な権利が確認され、議会政治の基礎が定まった。

「権利の章典」は、大憲章や「権利の請願」と並んで、今日までイギリスの憲法としての役割を果たしている。


ウィリアム三世は、初めトーリー・ホイッグ両党から半数ずつの大臣を任命して国政に参加させたが、政争が絶えなかった為、議会で多数を制した政党に内閣を組織させて政治を担当させることにし、ここに政党政治が始まった。