「ガリヴァ旅行記」は有名な古典作品ではあるが、実際に読んだ事がある人は少ないのではなかろうか。
恐らく、世間一般のこの作品のイメージは、第一篇の「小人国」のイメージに留まっていると思われる。
そして、実際に読んでみた感想を言うなら、厭離穢土と表現すればいいのか、とにかく厭世感に満ち満ちた作品で、特に読者は、第四篇のフウイヌム国渡航記を読み終えた辺りで、暗澹たる気持ちにさせられる事だろう。
しかし、それと同時にアンビバレントである痛快な感情を引き起こすのは、リアルな諷刺とユーモラスな世界観によるものが大きい。
ストーリーは、第一篇リリパット(小人国)渡航記、第二篇ブロブディンナグ(大人国)渡航記、第三篇ラピュタ、バルニバービ、グラブダブドリッブ、ラグナグおよび日本渡航記、フウイヌム国渡航記の全四篇から成立している。
そして、第一篇と第二篇は政治的諷刺、第三篇と第四篇は人間の諷刺に重きを置いている。
全四篇は、それぞれ多様な視点の世界観で描かれており、小人、巨人、天空、馬、等の視点、それも五感を刺激する描写で、人間世界を諷刺している。
我々がこの世界に感じる不条理や違和感は、日常的な視点とは違う角度から考察する事により、更に明確に感受する事が可能になると思える。
そして、この作品の政治や人間の辛辣な諷刺によって、如何に世界が不条理で馬鹿馬鹿しい形態で成立しているか、という事を痛感させられる事だろう。
政治的風刺は、どのような隠喩でもって表現されているかというと、例えば以下のような形式である。
第一篇のリリパット国はイギリス、ブレフスキュ国はフランス、そしてトラメクサン党及びスラメクサン党は、それぞれ政党ホイッグ党とトーリー党を表している。
卵論争については、太端宗派はローマ・カトリック、そして、小端宗派はプロテスタントを表している。
第三篇の企画士養成の学士院は、科学アカデミーを諷刺したものだと思われる。
また恐らくは、スウィフトが私淑する作家トマス=モアが処刑された事により、絶対王政に対しては少なからず思う事があっただろう。
第一篇では、その辺りの示唆を感じ取る事が出来る。
そして、アイルランド人であるスウィフトは、イギリスの祖国に対する植民地支配や政策に対して、相当な慷慨を抱いてたのではなかろうか。
各篇毎にガリヴァが、各国の王様に故国(イギリス)の事をそのままの形で話すシーンでは、故国の政治や法律その他の諸制度の不備を、王様が容赦なく批判する役割を担っている。
我々は、異文化と接する場合、自分達の習慣が正しいと思い込む傾向があるのだが、それが如何に滑稽かという事が巧く表現されている。
その他、政治的風刺は、各篇随所にぎっしりと詰め込まれており、歴史的背景を知っていると、より寓話を楽しめるだろう。
因みに、「ガリヴァ旅行記」は、政治学入門書としての役割を果たしているだけに、専門の解説書も幾つか出版されているようである。
人間諷刺は、どのように表現されているかというと、小人国や巨人国の視点の大小変化による五感を駆使した表現がまず第一にある。
小人国の矮小化された人間の姿は、随分と自信過剰に映るし、巨人国の巨大な人間な姿は浅ましく、そして汚らしく映るのだ。
視点の変化、または五感を活かした表現がユーモアと共に効果的に発揮されているので、諷刺だけでなく、物語としても充分面白いと言えるだろう。
また、第三篇のグラブダブドリッブ(魔法使いの島)では、酋長は魔法によって死人を二十四時間に限り、呼び出す能力を持っている。
そこで、ガリヴァは、アレキサンダー大王、カエサル、ブルトゥス、ソクラテス、ホメロス、アリストテレス、ガッサンディなど歴史上の偉人を呼び出して、各々に会話させるのだが、ここは歴史批判と共に、作者の歴史に関する造詣の深さに感服させられるシーンでもあるだろう。
そして、最も印象に残る人間諷刺といえば第四篇のフウイヌム国で、ここでは馬の姿をした人間と、家畜人であるヤフーが登場する。
つまりは、人間と馬が逆になった世界である。
馬の姿をしたフウイヌムは、理性的、論理的で温厚篤実な種族である。
一方、ヤフーは原始人のような姿をした人間であるが、それは人間本来の原初的な汚らしい風貌と共に、我々人間の身の毛の弥立つような意地汚さを諷刺したものである。
ヤフーは、お互いに憎み合い、必要以上に食物の取り合いをしたり、磨いた石に執着して争いをしたりと、その他、様々な滑稽な行動を繰り返すのだが、それは、我々人間の歴史上変わる事の無い習性でもあるのだ。
我々は、この世界を当然であるとして受け入れて(受け入れざるを得なく)生活しているが、フウイヌムという他種族の視点から観れば、それは有り得ない奇妙奇天烈な世界に映るのである。
あとがきの解説には、「(前略)世界は悪と愚劣と不幸とに充ちている、しかし人間がペルシャ人やフウイヌムのように、理性的で慈悲深くなりさえしたら、どんなに違った世界になることだろう、と、彼らはいう」と、批評家レナード・ウルフの言葉が引用されている。
スウィフトの諷刺や厭世感は、単純明快な人道主義者が唱える世界観とは対称的に、深く考察した上に辿り着いたものであり、それ故に、この物語は時代を越えて語り継がれる普遍性のある作品となっていったのだろう。
「ガリヴァ旅行記」は一七二六年に上梓された作品であるが、最後に時代背景をざっと簡単に説明したいと思う。
政治や歴史に興味のある方は、読んでみるといいだろう。
一五世紀、ルネッサンスによる羅針盤の発明、そして地理学や天文学の発達により、遠洋航海が可能になり大航海時代を迎える。
一六世紀、ドイツではルターによる宗教改革が始まり、教会の圧迫と諸侯の圧制に苦しむ農民によって、ドイツ農民戦争が起こる。
しかし、ルターは支配階級の仲間であった為、農民の反乱を制圧する。
そして、宗教改革はルター派の諸侯(プロテスタント)対教皇・皇帝(カトリック)の争いとして展開される。
一方、フランス人カルビンは、商工業の発展した国々に支持され、市民階級が市民革命の担い手となる。
カルビン派はイギリスではピューリタン(清教徒)と呼ばれる事になる。
イギリスの宗教改革は、絶対王政を築いたヘンリー八世によって行われる。
ヘンリー八世は、熱心なカトリック教徒だったが、王妃キャサリンとの離婚を反対され、教皇と対立する。
そしてヘンリー八世は、国王がイギリス教会の首長である事を宣言し、教皇と絶縁する。
因みに、「ユートピア」の著書トマス=モアは、王の離婚を批判した為に処刑されている。
またヘンリー八世は、全国の修道院を解散させ、その土地、財産を没収し、地主や大商人に売却して王室財政の強化に役立てる。
このように、イギリスの宗教改革は、宗教的動機からではなく、国王の集権化政策の一環として行われ、教義や儀式の面でカトリックと大差は無かった。
カトリック教会側は、宗教会議を開いて、従来の腐敗を認めて教会の改革を断行し、宗教裁判所を設けて異端の審問を強化した。
一五四三年には、ジェスイット教団(イエズス会=ヤソ会)が組織され、信仰に迷う大衆の魂を救う事を目指したが、この組織は、教皇の命令を絶対とする軍隊的規律をもち、相互監視も厳しく行われた。
教団の規約の一節には、「白に見えるものを教団が黒と断定したならば、即座にこれを黒と認めねばならぬ」とあったという。
一方、プロテスタント側も、カルビン派に見られるように、異なる宗派に対して極めて不寛容であった為、この両者は一六~一七世紀にかけて宗教戦争(ドイツの三十年戦争やフランスのユグノー戦争)を展開する事になる。
絶対主義とは、広い意味では時代を問わず君主の専制政治を指す事もあるが、歴史的には一六~一八世紀のヨーロッパで見られた政治形態を指し、典型的なものとしては、フィリップ(フェリペ)二世治下のスペイン、チューダー朝の特にヘンリー八世及びエリザベス一世治下のイギリス、ブルボン朝の特にルイ一四世治下のフランス、フリードリッヒ二世治下のプロシア、マリア=テレジア治下のオーストリアなどが該当する。
絶対主義国家では貨幣の重要性が増大し、かつ国王が官僚と常備軍を保持する上で多くの貨幣を必要とした為、商業及びこれと密接な関係を持つ工業の育成による貨幣の増収がはかられた。これが重商主義である。
イギリスでは、エリザベス一世の時代が絶対主義の全盛期で、エリザベス一世は議会を開かない絶対主義的な統治を行った。
そして、女王は一六〇〇年に東インド会社を設立し、アジア貿易を独占してインドの植民地化に大きな役割を果たす。また、内政では、カトリック教徒やピューリタンを抑圧した。
ドイツでは、三十年戦争(一六一八~四八)により、新・旧両教徒が争う事になり、その結果、ルター派とカルビン派はカトリック教徒と対等の権利を認められる。
三十年戦争で、ドイツは各国の傭兵隊によって略奪され、荒廃が広がり、人口は一六〇〇万から六〇〇万に激減したと言われている。
フランスでは、一六世紀中頃から商工業者・農民・貴族の一部の間にカルビン主義が普及したが、国王は国内の統一をはかる為に、ユグノー(カルビン派)を弾圧した。
その結果、ユグノー戦争(一五六二~九八)が起こり、新・旧両教徒は、外国勢力の援助を受けて激しく争う事になる。
また、ルイ一四世のもとで財務総監となったコルベールは、典型的な重商主義政策を行う。
即ち、国営マニュファクチュアを育成し、自国生産物の積極的な輸出と保護関税政策によって貿易を保護し、財政収入の増大をはかり、また積極的な植民地活動を展開した。
絶対主義の時代には王権の保護のもとに宮廷文化が発達し、美術では絶対王政の力を反映してバロック式が起こった。
バロック式とは、ルネッサンス期の安定・調和を重視する傾向を破り、力強さと流動感に溢れる美術を中心とする芸術の傾向をさす。建造物では、ベルサイユ宮殿がバロック式の代表とされる。
絵画では、スペインのベラスケスの肖像画、南ネーデルランドのルーベンス、オランダのレンブラントなどが代表的なものである。
一八世紀に入って絶対主義の絶頂期が過ぎると、バロック式の特色が薄れていき、代わりにロココ式が発達する。
ロココ式は、繊細優美な技巧を特色とする美術一般をさし、絵画ではフランスのワトー、建築では、サン-スーシー宮殿が代表的なものとされる。
この時代のドイツでは、教会や領邦君主の保護を受けて音楽が盛んになり、バッハやヘンデルがバロック音楽を大成した。
文学では、ルネッサンス時代に芽生えた国民文学が、国家の統一と国民意識の成長を反映してさらに発達した。
一八世紀のイギリスでは海外発展を反映した作品が生まれ、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」や、スウィフトの「ガリバー旅行記」が代表的なものとされる。
自然科学はルネッサンス以来、著しい発達を示し、イギリスで特に盛んとなり、代表的なのは万有引力の法則を発見したニュートンである。
また、化学ではボイルが元素の概念を確立し、医学ではハーベイが血液の循環を発見した。
一七世紀後半は、各国で競って科学アカデミーが設立され、科学や技術が振興される事になる。
イギリスでは、エリザベス一世のもとで海外貿易が進展する。
その後、一六〇三年、エリザベスの死に伴って、スコットランド王ジェームズ一世がイギリス国王となる。
ジェームズ一世は、国王側近や大商人に産業や貿易の独占権を与え、他の商人や産業資本家の営業を制限した為、毛織物工業の経営者などが進出していた議会は、国王との対立を深める事となる。
ジェームズ一世の後を継いだチャールズ一世も、父と同様に議会を無視した政治を行い、議会は一六二八年「権利の請願」を採択して王に抗議する。
そして、国王と議会の対立がエスカレートし、一六四二年遂に内乱に発展する。
議会で最も注目される人物であるオリバー=クロムウェルは、全員がピューリタンによって固められた「鉄騎兵」を率いて、国王軍の側面と背後に襲いかかって主力を打ち破り、五〇〇〇人の捕虜と全ての大砲を奪い大勝する。
国王は議会が任命した一三五名(議員・法律家・軍人など)から成る高等法院で裁かれ、「専制君主」「反逆者」の罪で死刑を判決される。
一六四九年、チャールズ一世は処刑され、議会は同年五月、歴史的な共和制宣言を発する。
この革命は、ピューリタンによって推進された為、ピューリタン革命と呼ばれる事になる。
共和制イギリスは直ちに、アイルランド遠征や航海法の施行、イギリス-オランダ戦争など積極的な対外政策をとって、ブルジョアジーの利益を保護したが、農民の土地要求には応じなかった。
革命軍の左派で農民や手工業者に支持された水平派は、人民主権を主張し、普通選挙権など自由・平等を要求したが、クロムウェルは水平派を弾圧し独裁権を握る事となる。
つまり、ピューリタン革命とは、ブルジョアと地主の利益を擁護した革命だったのである。
クロムウェルは、反カトリック感情を持っており、カトリック教国のアイルランドを快く思っていなかった。
クロムウェルは、政治的・宗教的理由に加えて、兵士の給与の財源確保や議会派の借金返済の為に、アイルランドを収奪する事となる。
そして、一六五二年にアイルランド植民法を制定し、土地の収奪を行い、アイルランドの全耕地の三分の二がイギリス人地主のものとなった。
アイルランド人は、イギリス人地主のもとで働く小作人となるか、イングランドやアメリカ大陸へ移住していかざるを得なくなる。小作人の生活は厳しく、それは「白人奴隷」と呼ばれた程であった。
その後、イギリスで産業革命が起こり、アイルランドはイギリスの市場として重要性を増した為、一八〇一年イギリスに併合される事になる。
クロムウェルは、厳しい軍事的独裁政治を布いて、ピューリタンの禁欲主義を国民に強制した。
国民は、次第にクロムウェルの禁欲的政治を嫌うようになり、王等派や長老派が反政府運動を行った為、クロムウェルの立場は厳しいものとなる。
一六五八年、クロムウェルが死ぬと、長老派は国民の不満に乗じて一六六〇年、王政復古を行い、チャールズ二世を王として迎える事となる。
王政復古のもとで新たに招集された議会は、国教会を奉ずる王党派が多数を占めていた為、ピューリタンを圧迫する事となる。
チャールズ二世は、亡命中にカトリック教に接近していた為、フランスの対オランダ戦争に協力するなどの密約を結んだ。
これは、競争国フランスの従属を意味していた為、イギリス人の不評を買う事となる。
そこで、議会は議員と官吏を国教徒に限り、カトリック教徒を公職から閉め出し、更に王による不当な逮捕や裁判を拒否し、人権を保障する事を定める事とした。
この間、議会の内部では、トーリー党とホイッグ党という二つの党派が生まれる事となる。
両派とも革命によって勢力を強めた地主を基盤にしている点では共通していたが、トーリー党は、国教会を擁護して王の権力を尊重し、貴族や革命を通じて強化された地主の間に勢力を持っており、後の保守党の前身となる。
またホイッグ党は、国王の存在を認めながらも、議会の自由と権利を主張し、商工業に深い関係をもつ貴族や地主を含め、独立自営農民などに支持され、後に自由党に連なっていく事となる。
一方、チャールズ二世は、トーリー党と結んでホイッグ党をおさえ、議会を分断させる事で専制政治を維持しようとする。
チャールズ二世の死後、弟のジェームズ二世が即位した。
カトリック教徒であった王は、専制政治を推し進め、カトリック教の復活をはかり、国教徒を弾圧した。
これには、それまで王を擁護してきたトーリー党も反発し、両党と議会はジェームズ二世の廃位に動く事となる。
一六八八年、両党は共同で王の廃位を決議し、王の長女メアリとその夫でオランダ総督のオラニエ公ウィレムを招いた。
これを受けたウィレムは、軍を率いてイギリスに上陸し、一方、国民の支持を失ったジェームズ二世はフランスに亡命して、無血の革命である名誉革命が達成される。
一六八九年、議会は王位の空席を宣言したのち、「権利の宣言」を議決する。
ウィレムはこれを認め、共同統治者メアリ二世として即位し、「権利の宣言」に若干の修正を加え、「権利の章典」として発布した。
これは、議会の同意なしに王は課税、法律の停止とその執行が出来ない事や、議会内での言論の自由などを定めたもので、これによって国民の自由と議会の伝統的な権利が確認され、議会政治の基礎が定まった。
「権利の章典」は、大憲章や「権利の請願」と並んで、今日までイギリスの憲法としての役割を果たしている。
ウィリアム三世は、初めトーリー・ホイッグ両党から半数ずつの大臣を任命して国政に参加させたが、政争が絶えなかった為、議会で多数を制した政党に内閣を組織させて政治を担当させることにし、ここに政党政治が始まった。
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