祈ることへの道

祈ることへの道

教会(プロテスタント)へ通い始めて二年。洗礼は、まだ受けていないので、ノンクリスチャンだ。日々、神様に近づこうと思うのに、あわただしさにまぎれ、ただ「祈る」ということができない。そんな日々を、ここに綴っていきたい。いまはただ「祈る」ことができれば。

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ただ、祈るのみです。


イースター洗礼にむけて、準備をしてきた。牧師先生がおっしゃったことは、意外にも、私の気持ちではなく、主人の気持ちをもう一度聞いてくださいとのことだった。


洗礼を受けたいーーーそれは、以前話したことがあった。それから何も話し合っていなかった。いざ、イースターに洗礼を受けたいと思っている、そう打ち明けると、主人は「少し考えさせいくれ」と。さらに「いまは反対だ」と、きっぱり言われた。ショックだった。やはり、生活をともにする人には、理解してもらえなくても、認めてもらいたかった。あれこれ話したが、待てとのこと。いったん熱くなると、すぐに夢中になる私の性格を知っててこその「まった」だろう・・・。かくして、私のイースター洗礼は、いまは、消えた・・・。


はじめは、どうしてと思った。せっかくここまでやってきたのに「私の計画」は、ここでおしまいかと。しかし、後で思った。これは、「私の計画」ではなく、「神様のご計画」なのかと。まだ時期ではないのだろう。きっと。そう思えた。


今は、ただただ、これからどのように導かれるのか、私はただ祈るのみです。

 4月にはいって、更新がとまってしまっていた。あれこれ考えるのをやめてみた。だけど・・・やっぱり、書き留めておきたいこともある。

 もうじき、イースターだ。イエスさまが復活された日。もしかしたら、クリスマスよりも、もっとうれしい記念日かもしれない。


 さて、イースターに洗礼を受けるのは、いいタイミングらしい。記念の日。イエスさまと一緒に新しい世界へ。

 教会の牧師先生から、毎週、洗礼準備のお話しを伺っている。かなり難しい説明もあったが、聴くと心があたたかくなれるのは、なぜだろう。以前にも、聴いたことあったのに、最近、胸に、しみこむように、言葉がひとつづつ、つきささってくる。

 私は、洗礼は受けていない。ノンクリスチャン。「受けたい。ずっと神様を信じて生きたい」。そう強く思えることがあった。ここには、書けないが。


 気持ちに迷いはない。そう、今日牧師先生にはっきりと、話した。が、その後「でも・・・」が、ついてしまうのだ。気持ちはOK。だけど、身辺整理みたいなもの(?)が、いまひとつ、できていないように思える。この気持ちは、これまた言葉にできない。


このイースターを逃したら、いつ決心するか、タイミングをのがす気がする。一方、イースターといって、あせらなくてもいいようにも思う。はっきりいって、それは、私自身の問題だけ。しかし、私が決めるのではない。そんな気もする。「その時」をただ待てばいいという。


 ただ、「一歩」ふみだせばいい。それからでいい。もろもろのことは・・・。そう、誰かが語ってくれている気もするこの頃である。

 今日は礼拝の日。牧師先生に、いろいろな話を聴いていただけた。クリスチャンのお友達も、支えてくれた。このような時を、今日持つことができたことを感謝していきたい。

 何気なく言った言葉で、友人を傷つけてしまった。なにしろ、とても鈍感なので、まったく傷つけるつもりなく、思ったことをストレートに言った。いつも、言葉に気をつけていたはずなのに、やってしまった。


 時には、思ったことを、あえて発言しないことも大切なのだろうか。それで楽しければいいのだろうか。うーん、私は、もう無理に笑いたくなかっただけだったのだ。


 いままで自分は、「傷だらけ」だと思っていた。傷つきながらも生きていきたいなんて、偉そうに言っていた。しかし、今回、私が相手を傷つけた。傷つくのは辛いが、傷つけてしまうこともまた、辛い。


「傷つけるより傷ついたほうがいい」。そう聞いたことがある。だとしたら、今の私って、最悪だわ。


だけど・・・未だに、ではあの時どうしていたらよかったのか、考えても思いつかない。ひとつあるとすれば、「黙っていればよかった」のかもしれない。でも、素通りできなかった。


「主のご計画はわからない」   神はすみやかに答えてくださることもあるが、しかし、あとになって、ああ、こういうことだったのだ、と、わかるようなこともある、という。


じたばたしてもしかたない。まだ「委ねる」ことがわからない今は、できるだけのことをしたら、あとは「おまかせ」したい。それは「無責任」ということではなく、きっと、信じること、信じ続ける力を備え、それを土台にして「委ねる」ことだと。


今は、彼女の心が平安になることをただ思うのみかもしれない。それで精一杯だ。ただ、今できることだけ、やれればいい。祈りへの道は、まだまだ茨の道に思えてしかたがない。祈れるようになりたい・・・そう祈るのみだ。ううっ、これじゃあ、祈るどころか、「嘆き」だ。嘆きから出発する祈り・・・なんて、あってもいいかもしれない。

時々、いや、よく思うが、もし、神の失敗(?)なんぞあるとしたら・・・私なんぞが創られたことかもしれない。



と、この一文を書いたら、やけに悲しくなった。そんな、自分で自分を否定するなんて、淋しいではないか。きっと、神様はなにかの計画があって、私なんぞも創られたのだろう。なにしろ、神様はすべてに正しいお方であるので、「失敗」など、なさらない。そう、強く信じたい。



ここにいるだけでいいんだよ。


そう、誰かに言ってほしい、そんな日もある。そんな日こそ、私も神様に創られた大切なもののひとつ、と、思いたい。が、難しい時って、あるかも。こういうとき、先日書いた、「すべてを委ねる」ことができたらいい。

ああ、こんなこと書いてること自体、まだまだ「委ねて」いなんのでしょう。すると・・・神さまに沿った生活をしていないってこと???だったら、それは「罪」なのだわ。あらら。

まるで「禅問答」のようで笑える。キリスト教を信じていきたくて書いてるのに禅問答しているなんて。


こんな日は、心が疲れているんだろう・・・。神様が創られたものはすばらしい。今はそれを信じたい。なのに、どっかで、なんかをまた疑ってる。だけど、そんなのもひっくるめて「委ねて」いければいいな、今はできなくても、いつか、いつかできたらいい。変な私でした。

 何週間か前の礼拝で、「主は私の羊飼い」という、有名な箇所の話をきいた。


 なぜ、羊なのかと。「羊は弱い動物です。群れで生活しています。羊は、保護され導かれ生かされています」

 私は狼のようでいたいと思っていた。一匹狼のイメージ。ちと、かっこいいでしょ。群れている人たちと一緒にいるより、ひとりの方が好きだった。でも、一匹狼でいるのには、私はそんなに強い人間ではなかった。それは、いままで、いやというほど味わってきた。もともと、ひとりでなんて生きていけるはずがない。そこからもう、勘違いしていたのかもしれない。実際、私は今まで、大勢の人に助けられ、救われて生きてこられた。自分ではなにもできない、と、つくづく思う。だから・・・・・・今私は、保護されていないとやっていけない。


「パレスチナは岩山だ。草は少ない。私たちのイメージする牧場の羊飼いとは違い、草、水を探すのは大変なことです。だから、パレスチナで羊に、草、水を与えることができるのは、本当によき羊飼いでないとできない。私たちは、まことの主(羊飼い)を選んでいかなければならないのです。」

まことの羊飼いについていけば、ただ、ついていけばいいのだ。私は羊。弱いです。だから、正しい導きが必要なのかなと思った。

 罪は、イエス様が十字架にかかられたことによって、赦される・・・・・・・。



 私の通っている教会の牧師先生の書かれたメッセージに、以下のように、書かれています。(牧師先生には、許可をいただきました。感謝)


「罪深い人間と聖なる神の間は、あまりにも大きな隔たりがあり過ぎます。人間の努力や修行程度で埋めることのできる溝ではありません。人間の範囲や善行やお布施や何かでは、神と和解することなどできないのです。罪深い人間は、100%聖い神の前に滅ぼされるしかありません。」

そこへ、神様は、一人子として、イエス様をおくり、尊い一人子を十字架にかけることによって、私たちが          受けるはずの永遠の滅びから解放された・・・。


≪「キリストによって私の罪の代価はすでに払われたのだ。この方は復活して今も生きて、信じる者を救ってくださるのだ」ということを、素直に信じましょう。信仰とは「信じて仰ぐ」と書きますが、「キリストを信じた時、私は救われた」と確信をもって歩むことです。》 (以下、略)


略させていただくのが申しわけないぐらい、いろいろと書かれてある。


「確信」かぁっ・・・。なんだろうか、「確信」って。この世の中に、確信が持てるものって、あるのだろうか。

それはきっと、ただひとつ「神の愛」かもしれない。イエスさまの尊い命によって、私たちを救って、なおかつ愛してくださる。これぞ、ゆるぎない確信であろう。


しかしながら、肝心の私自身が、「確信」ということをわかっていなくて、悲しい。信じること、信じ続けて生きていく事、それがどんなに大切であるか。反面、それがどんなに、今の私にとって、難しいことか、心は、せめぎあう。


赦されるために信じるのではない。好きだから。このお方に、ついていきたいから、だから、信じていきたい。

今は、そのように思う。まだまだ神様への道は、遠いように感じる。しかし、強く、信じていきたい。その気持ちも、私の心に、少しずつではあるが、芽生えている。枯らさないよう、水を与え、育てていけたら、それでいい。


そうか、「信じて仰ぐ」。この言葉にそって、やっていければいい。すべてを委ねて。


こんな迷いの中の、自分である。こうして、気持ちを文章にできたことを、感謝していきたい。かなり勇気がいる作業だなあ。ああ、続くのだろうか、こんなので・・・。



 昨日、「罪」について考えたが、その「罪」は、一体誰がしょっていくのだろうか。

神様にすべてをゆだねなさいと。私の荷物も、背負ってくださる。私は荷をおろしていいと・・・・・・。


本当に自分では背負えない。背負えると思っても、無理なのかもしれない。そんな時、神様が私たちの分を背負ってくださる。   いつぞやの礼拝で、牧師先生は、スライドを作成されみせてくれた。砂浜に二人の足跡。神様と私、ともに生きていくと。次に、砂浜には一人だけの足跡。えっ、一人で歩きなさい、ということか。そうではない。なんと、神様が私を「おんぶ」して歩いてくださっているのだと。それで足跡は一人ぶん。それは、私のではなく、神様の足跡だと・・・。


このメッセージ、忘れられない。多少、言葉が違っているかもしれないが。そんなことを聞いて、「ああ、それでいいんだなあ・・・」と、ふと、感じた。しかしおんぶしてもらったら、おぶるほうは、重たいだろうなあ。それでもいいのかなあ。ダイエット、すべきかな、それともそのまま、委ねてしまっていいのかな。きっと、「力持ち」なんだ。


そっと、背負いきれない荷物を思い切って降ろしてしまいたい。委ねていきたい。そう、思った。

いきなり重い話題だったり。ある日の礼拝で、「イエスさまが私たちの罪を全部背負ってくださった。だから、安心してイエスさまに罪をおあづけしましょう」。そう聞いた時、涙がとまらなかった。私はその時「自分の罪をイエスさまにしょっていただくなんて、そんなのできない。罪は自分でずっと背負ってやっていくのでしょう」と、言って泣いた。


その時、クリスチャンである友人の日と人が忘れられない。「そんなふうに思ったら、十字架で流したイエスさまの血がむだになってしまうんじゃないの」って。


いまでも、「罪」について考えると、よくわからない。いえいえ、罪といっても犯罪者とかいう罪ではなく、私のいう罪は、過去におかしたあやまちです。たとえば、人を傷つけてしまった、友人を助けてあげられなかった、ずるいこと考えた、ぐうたらしている、わがままを言ってばかりいる、友達をうたがってしまった、などなど、です。


しかし、キリスト教でいう「罪」はひとつ。「神様にそった生活をしないこと」。そう教わった。

ああ、それに関していえば、もう私は、完璧に「罪人」である。


しかしながら、今あの時のことを思い出すと、はずかしい。なぜなら、人間が背負える罪なんて、とってもちっぽけなものだ。イエスさまにしか、イエスさまでこそ、お預けさせていただける唯一のお方だと、最近感じる。私自身なんぞに、背負えるものでない。「罪は自分で背負うべき」などと、なんとおこがましいことを考えていたのだろうと思う。


人間が人間を赦せなくても、イエスさまによって赦される。神様は赦してくださる。


しかし・・・しかし・・・いまだわからない。今私が持っている「罪悪感」。信仰によって、はたして赦されてもいいのだろうか。背負いきれないとしっても、いまだおろせないこの荷物。


昔から私は、なにかうまくいかないことがあると、すべて自分のせいだと思う癖がある。自分を責めてしまう。あの時、私がこうしていたら・・・。私がこんなことさえしなかったら・・・。そんな日々に、おしつぶされろうになっている。


「私は罪深い」といってしまうのは、かえって楽になるのではと感じる。むしろ「自分は清く正しく生きてきた」という人の方が、しっかりと立っているように思えるのだ。私は罪ばっかりで、というのは、甘えているような機がしてしまう。実際、私は甘えん坊。迷ったり困ったり悩んだりすると、すぐ、人を頼りにしたり、ああ、私が悪かったんだわ、と、いつまでもくよくよしたり。それって、ずるいのかな・・・。苦しんでいるようでいて、実は、背負いきれない罪悪感を、形を変えて都合よく合理化しているのではないか。


潔癖に生きてきた人が、「罪」を意識すると、たぶん、もっと辛いと思う。だからあらかじめ、私は罪深いんです、って認めてしまうと楽になる。それが甘えにつながるのではないかと、おそれてしまう。


なんだか、初回からまとまらないものとなってしまった。


自分のおかした「あやまち」は、認めて正していけたらいい。むずかしいが。そして、背負いきれないものは、どうぞ、そっと、手をさしのべてください。私のような者でも、さしのべていただける手は、私が手をだせば、つながれていけるものと信じていたいです。今日こうして言葉で表現できたことを感謝します。つたないつたない言葉ですが。


これって「祈り」??????????




 はじめまして。

 学生時代に訪ねたイタリアで、たくさんのルネッサンスの絵をみて、心に残りました。そして、その場面の内容をしりたくなり、聖書を買い求めました。しかしながら、本棚にしまいっぱなしの日々。

 ふとしたきっかけで友人に誘われ、バイブルスタディのクラスに参加しようと、近所の教会へでかけました。別に、キリスト教に興味があったわけではありませんでした。ただ一人で聖書を読むのは難しく、とてもいい機会だと思っただけにすぎません。

 そんな私が、最近になって、十字架にかかってくださったイエスさまを、心から信じて生きていきたい、そのような気持ちを持ちました。なぜでしょうか。実はまだ、よくわからないのです。ただただ、なにかを求めて教会へ通い続けているうちに、そのようなことを感じるようになりました。

 そんないまの私に、なにができるのでしょうか。なにもできないのです。牧師先生は、「ただ祈る事です」とのアドバイスをくださいました。なのに・・・・・・日々、あれこれあれこれとしているうちに、祈ることをわすれてしまう毎日を過ごしています。聖書通読もはじめたものの、いまだ「創世記」。んん???いつはじめたか、いえません。

 日々、迷ったり悩んだりわからないことばかり。そんな思いを、言葉に表したくなり、こうしてここに書こうとしています。

 これは、自分自身のための日記、覚書にすぎません。これから、思うこと、感じたことを綴っていきたい、そこから、祈りへの道へ・・・もしも・・・はいっていけたなら、世界が変わるでしょうか。


 

 というきっかけでスタートです。

まず今日の話題。これを機に、聖書通読を再開しようかと思っています。ふぇーん、創世記で、人間の原罪をいきなりつきつけられ、ノアの箱舟まではいったものの、そこで留まっている状態です。さあ、続けようか。でもね、もうすぐイースター。だったら、いきなりイエスさまが十字架へむかうところから読んでみたいように思える。そんな、最初から迷ってどうなってしまうのだろうか。さて、これから聖書を開きます。新しい一歩をふみだすぞ。決意だけはりっぱな私。さてさて、これからどうなるか。自分でもわかりません。