「私は罪深い人間なんです」ということ | 祈ることへの道

祈ることへの道

教会(プロテスタント)へ通い始めて二年。洗礼は、まだ受けていないので、ノンクリスチャンだ。日々、神様に近づこうと思うのに、あわただしさにまぎれ、ただ「祈る」ということができない。そんな日々を、ここに綴っていきたい。いまはただ「祈る」ことができれば。

いきなり重い話題だったり。ある日の礼拝で、「イエスさまが私たちの罪を全部背負ってくださった。だから、安心してイエスさまに罪をおあづけしましょう」。そう聞いた時、涙がとまらなかった。私はその時「自分の罪をイエスさまにしょっていただくなんて、そんなのできない。罪は自分でずっと背負ってやっていくのでしょう」と、言って泣いた。


その時、クリスチャンである友人の日と人が忘れられない。「そんなふうに思ったら、十字架で流したイエスさまの血がむだになってしまうんじゃないの」って。


いまでも、「罪」について考えると、よくわからない。いえいえ、罪といっても犯罪者とかいう罪ではなく、私のいう罪は、過去におかしたあやまちです。たとえば、人を傷つけてしまった、友人を助けてあげられなかった、ずるいこと考えた、ぐうたらしている、わがままを言ってばかりいる、友達をうたがってしまった、などなど、です。


しかし、キリスト教でいう「罪」はひとつ。「神様にそった生活をしないこと」。そう教わった。

ああ、それに関していえば、もう私は、完璧に「罪人」である。


しかしながら、今あの時のことを思い出すと、はずかしい。なぜなら、人間が背負える罪なんて、とってもちっぽけなものだ。イエスさまにしか、イエスさまでこそ、お預けさせていただける唯一のお方だと、最近感じる。私自身なんぞに、背負えるものでない。「罪は自分で背負うべき」などと、なんとおこがましいことを考えていたのだろうと思う。


人間が人間を赦せなくても、イエスさまによって赦される。神様は赦してくださる。


しかし・・・しかし・・・いまだわからない。今私が持っている「罪悪感」。信仰によって、はたして赦されてもいいのだろうか。背負いきれないとしっても、いまだおろせないこの荷物。


昔から私は、なにかうまくいかないことがあると、すべて自分のせいだと思う癖がある。自分を責めてしまう。あの時、私がこうしていたら・・・。私がこんなことさえしなかったら・・・。そんな日々に、おしつぶされろうになっている。


「私は罪深い」といってしまうのは、かえって楽になるのではと感じる。むしろ「自分は清く正しく生きてきた」という人の方が、しっかりと立っているように思えるのだ。私は罪ばっかりで、というのは、甘えているような機がしてしまう。実際、私は甘えん坊。迷ったり困ったり悩んだりすると、すぐ、人を頼りにしたり、ああ、私が悪かったんだわ、と、いつまでもくよくよしたり。それって、ずるいのかな・・・。苦しんでいるようでいて、実は、背負いきれない罪悪感を、形を変えて都合よく合理化しているのではないか。


潔癖に生きてきた人が、「罪」を意識すると、たぶん、もっと辛いと思う。だからあらかじめ、私は罪深いんです、って認めてしまうと楽になる。それが甘えにつながるのではないかと、おそれてしまう。


なんだか、初回からまとまらないものとなってしまった。


自分のおかした「あやまち」は、認めて正していけたらいい。むずかしいが。そして、背負いきれないものは、どうぞ、そっと、手をさしのべてください。私のような者でも、さしのべていただける手は、私が手をだせば、つながれていけるものと信じていたいです。今日こうして言葉で表現できたことを感謝します。つたないつたない言葉ですが。


これって「祈り」??????????