赦されること・救い | 祈ることへの道

祈ることへの道

教会(プロテスタント)へ通い始めて二年。洗礼は、まだ受けていないので、ノンクリスチャンだ。日々、神様に近づこうと思うのに、あわただしさにまぎれ、ただ「祈る」ということができない。そんな日々を、ここに綴っていきたい。いまはただ「祈る」ことができれば。

 罪は、イエス様が十字架にかかられたことによって、赦される・・・・・・・。



 私の通っている教会の牧師先生の書かれたメッセージに、以下のように、書かれています。(牧師先生には、許可をいただきました。感謝)


「罪深い人間と聖なる神の間は、あまりにも大きな隔たりがあり過ぎます。人間の努力や修行程度で埋めることのできる溝ではありません。人間の範囲や善行やお布施や何かでは、神と和解することなどできないのです。罪深い人間は、100%聖い神の前に滅ぼされるしかありません。」

そこへ、神様は、一人子として、イエス様をおくり、尊い一人子を十字架にかけることによって、私たちが          受けるはずの永遠の滅びから解放された・・・。


≪「キリストによって私の罪の代価はすでに払われたのだ。この方は復活して今も生きて、信じる者を救ってくださるのだ」ということを、素直に信じましょう。信仰とは「信じて仰ぐ」と書きますが、「キリストを信じた時、私は救われた」と確信をもって歩むことです。》 (以下、略)


略させていただくのが申しわけないぐらい、いろいろと書かれてある。


「確信」かぁっ・・・。なんだろうか、「確信」って。この世の中に、確信が持てるものって、あるのだろうか。

それはきっと、ただひとつ「神の愛」かもしれない。イエスさまの尊い命によって、私たちを救って、なおかつ愛してくださる。これぞ、ゆるぎない確信であろう。


しかしながら、肝心の私自身が、「確信」ということをわかっていなくて、悲しい。信じること、信じ続けて生きていく事、それがどんなに大切であるか。反面、それがどんなに、今の私にとって、難しいことか、心は、せめぎあう。


赦されるために信じるのではない。好きだから。このお方に、ついていきたいから、だから、信じていきたい。

今は、そのように思う。まだまだ神様への道は、遠いように感じる。しかし、強く、信じていきたい。その気持ちも、私の心に、少しずつではあるが、芽生えている。枯らさないよう、水を与え、育てていけたら、それでいい。


そうか、「信じて仰ぐ」。この言葉にそって、やっていければいい。すべてを委ねて。


こんな迷いの中の、自分である。こうして、気持ちを文章にできたことを、感謝していきたい。かなり勇気がいる作業だなあ。ああ、続くのだろうか、こんなので・・・。