Inside-Outの呟き(4)
今朝、 二つのテレビ番組に接し、 一つの啓示を得た。
1)まず、 籠池氏に関わる問題
時事放談に於ける大臣経験者の言。 まず、 藤井裕久元財務大臣曰く、 何事も深い認識なくては、 人を感動させ、 納得させる力は生まれない。(これは私の解釈) 石破茂元防衛大臣曰く、 陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊、統合幕僚監部等、 合計227,339人にも及ぶ大組織を指揮するためには、 必要な見識と誠実さがないと、 まとめられるものではない。(これも私の解釈) 最近の証人喚問や国会審議で明らかになったことは、 国民の税金で人生を送っている方々が一定水準の人格や品性を維持し、 国民に果たして貢献されているのだろうか、 また、 そのような思いをお持ちなのだろうか、 という疑問符ではないかと思う。 発言者の表情を見れば、 本当の事を語っているのかどうかは大体分かる。 そのことを当事者は気付いておられるのであろうか。
2)建築家・安藤忠雄氏について
大阪の下町にある間口2間、奥行き8間の長屋で育ち、 経済的にも恵まれていなかったので、 専門学校にも大学にも行かず(大阪府立城東工業高等学校卒業)、 独学で二級・一級建築士を取得し、 輝かしい建築業界の道を歩んでおられる。
経歴は、 下記の通り。
1941年9月13日- 、大阪府大阪市港区に生まれる。
1965年 - この年より4年間、2度にわたり世界を放浪。キューバの革命家チェ・ゲバラに傾倒し、ガンジス川の河岸でゲリラ的生き方を決意。
1969年 - 安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し、個人住宅を多く手がける。
1976年 - 「住吉の長屋」(大阪市住吉区)が高く評価され、日本建築学会賞を受賞した。以降、コンクリート打ち放しと幾何学的なフォルムによる独自の表現を確立し、世界的な評価を得る。
1980年代 - 関西周辺(特に、神戸・北野町と大阪・心斎橋)での商業施設設計や寺院・教会設計を相次いで建設。
1987年 - イェール大学客員教授。
1988年 - コロンビア大学客員教授。
1989年 - ハーバード大学客員教授。ベネッセの福武總一郎の依頼により、直島国際キャンプ場をオープン。その後、直島プロジェクトに参画、1992年のベネッセハウス、1999年の「家プロジェクト」(南寺)へと続いていく。
1991年 - ニューヨーク近代美術館にて個展開催。
1993年 - ポンピドゥー・センターにて個展開催。
1997年 - 東京大学工学部教授に就任。
1997年 - エリエール美術館を建築(後の、瀬戸内リトリート 青凪)
2000年 - 中坊公平と共に「瀬戸内オリーブ基金」を設立。
2002年 - 南カリフォルニア大学客員教授。
2003年 - 東京大学を定年退官して、東京大学名誉教授となる。
2005年 - 東京大学特別栄誉教授。
2005年 - 安藤忠雄文化財団を設立。
2008年 - 大阪府政策アドバイザー(水都・都市景観分野)
2011年 - 東日本大震災復興構想会議議長代理。
2012年 - 新国立競技場 国際デザイン・コンクール審査委員長。国立競技場将来構想有識者会議委員。
健康面では、 2009年に胆のうがんで摘出手術、 更に2014年にはすい臓がんで膵臓と脾臓を全摘出する手術を受けるなど、 大変な経験をされている。 しかし、 全てを受け入れ、 逞しく生きておられる。
身近に建築学を学んでいる人物がいるので、 安藤忠雄氏の人生や考え方を学ぶようにアドバイスしたところだ。
私は医療の道を歩んでいる者だが、 人生哲学に於いて安藤氏から色々学んでいきたく思っている。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
○本日のメッセージ
幸運に 恵まれ歩む 人の道
肯定思考 成功を生む
成就への道は開かれました。 あなたの幸運を信じて、 運勢を活かしてください。 強い想念と強い決断をもつあなたは強運です。 素晴らしい活躍を念じてください。 そして、 出来る行動を起こしてください。 前向きに、 肯定思考で進んでください。 継続をやめないでください。 目標の達成と成就への道に定まっていきます。 神さまのエネルギーもたくさんいただけます。 努力が結ばれるまで、 成就への道を進み続けてください。
Thackery
Inside-Outの呟き(3)
証人喚問(国会・都議会)。 具体的説明はマスコミ報道に譲る。
しかし、 実体は余りにも国民・都民を納得させるレベルに達していない。 何故か。 一つしか存在しない真実に基づいていないからだ。 信頼に足るリーダーの不在に尽きるのではないだろうか。
そこで思うことがある。 文豪・夏目漱石に登場願い、 現在の日本国の有り様を小説化し、 全日本国民にユーモアを交えて真実を語って欲しい。
1)「坊ちゃん」の風刺
学校の教科書では偉人として語られている山縣有朋(当時、陸軍中将で陸軍大輔兼近衛都督[天皇親衛隊司令官] 1838 - 1922)、 桂太郎(山縣によって首相に推され、日露戦争を起こした。 1848 - 1913)、 西園寺公望(桂の不人気を和らげるため後継内閣を引き受けた。 1849- 1940)を各々「校長の狸」、 「教頭の赤シャツ」、 「図学教師の野太鼓」に当て嵌め、 ユーモラスに風刺している。
「坊ちゃん」は明治39(1906)年3月に一気に書き上げられたが、 それに先立つ半年は、 日露戦争の影響で政治的にも社会的にも大きく揺れに揺れていた。 いつ政府が言論弾圧に乗り出さないとも限らず、 小説家にとって実に危険な状況だった。
予想以上に多くの戦死傷者、 膨大な軍事費を賄うための増税、 生活必需品の値上がり、 生活難に対する庶民の鬱憤、 講和条件についての不満、 それらが引き金となった明治38(1905)年の日比谷焼き討ち事件、 それに対する半月に及ぶ東京区部に於ける戒厳令施行、 更に翌年3月の東京市電値上げ反対事件と、 騒乱が続いた。
人心を鎮静するため、 桂内閣は明治39年1月7日に西園寺内閣と入れ替えられたが、 元老の山縣と原敬(内閣総理大臣[第19代] 1856 - 1922)の仲介によって、 議会の外の談合で進められた。 もっぱら相互の党利党略のための取引だった。 それが可能だったのは、 明治憲法では首相が天皇によって指名されたからだ。 但し天皇を免責にするため、 元老の推薦に基づくとされ、 元老の一存によって首班が選ばれ、 一方的に国家の方針が決定されていった。 民意どころか議会すらも完全に無視された。 こうした背景のもとで、 漱石が何を風刺しようとしたかによって、 その方法と構成は自ずと創造されていった。
※山縣有朋の傲慢さ: 明治11(1878)年の参謀本部設置によって、 軍に対する指揮が、 首相や陸海相ではなく、 参謀長の天皇への上奏のみで決定できる抜け道(統帥権と帷幄上奏[いあくじょうそう])が設けられた。 軍をアンタッチャブルにするこの制度は明治22(1889)年公布の大日本帝国憲法でも温存され、 更に同33(1900)年には軍部の協力なしには組閣できない制度(軍部大臣現役武官制)によって絶対化された。 この憲法の裏をかく三位一体の制度によって、 軍は完全にシビリアン・コントロールから隔離された。 いずれも天皇のためを大義名分として、 驚くべきことに一貫して山縣によって立案され推進された。 首相を推薦する元老として国家を壟断(独占)したその後の山縣の地位と権力は、 この明治憲法特有の「大権」に依拠していた。
→ 上記権力を一手におさめる暗躍ぶりを象徴するのが、 正に無隣庵の「松」だった。 山縣は宮内大臣を通じて京都御所内の松を一本所望し、 手に入れた。 更に御製の表装のため天皇の御衣を乞うてきたのに対しては、 天皇を切ることになるため、 別の衣を与えたと記録されている。 この傲慢さには呆れるばかりである。
さて、 平成の時代も、 小説化できる話題満載のような気がしてならない。
2)教育
今、 正しい全国民教育が望まれている。 社会の乱れは、 望ましい人間教育の不在に起因していること大である。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
○本日のメッセージ
崇高な 想いを胸に 進み行く
自在活動 天に輝く
自在力を高めましょう。 あなた自身の存在価値を確認してください。 あなたには存在感があり必要とされている立場です。 あなたの貴重な体験を活かしてください。 あなたにしかできない使命が存在しています。 その役割を果たし、 あなたの思いを具体的に行動に変えていきましょう。 崇高な思いは言葉に現れ、 具体的に行動に移ります。 今日のあなたは自信にあふれ、 自由闊達で活動的です。 自在に活動できるその姿に天は一層の輝きを与えます。
Thackery
Inside-Outの呟き(2)
原点を探る旅。 最近特に、 全世界を揺るがす波動が大国からやって来ている。 人間の信頼度について、 述べてみたい。
1)人間の原点
まず、 自らが幸せ。 次に、 隣人が幸せ。 その大国は、 皆んなの幸せを第一に重要視していた国であった。
ところが、 最近自らの幸せを強調する余り、 隣人の幸せが崩壊する危険性が出て来た。 具体的な危機については、 報道に譲るとして、 ここでフランス人、 アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル(仏: Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)[フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。]の知恵に耳を傾けてみたい。
「アメリカのデモクラシー」
少なくとも19世紀までの欧米諸国では、 民主主義を「多数者の暴政」をもたらすものと忌避する傾向があった。 ソクラテスやキリストが「多数者の要望に沿って、 合法的な手順で処刑された」ことは、 「モノをよく分かっていない多数者が寄り集まって結論を出すことは危険」とみなされる一因となった。 さらにフランス革命後の混乱は、 ヨーロッパ各国政府による民主主義への警戒を強めた。 多数者が多数者であることをよりどころにして少数者を抑圧する状況を、 フランスの政治哲学者アレクシ・ド・トクヴィルは「多数者の専制」と呼んだ。
ところが、 大西洋の向こうのアメリカでは、 事情が異なった。 1831年、 フランスの判事として独立間もないアメリカ合衆国に赴いたトクヴィルは、 その時の知見を『アメリカのデモクラシー』として著した。 これはいまだに、 アメリカ社会を知る最良の手引書の一つとしての評価を得ている。
トクヴィルの関心は、 「アメリカでは民主主義が発達しているのに、 なぜ革命後のフランスなどヨーロッパ各国のように『多数者の専制』が生まれないのか」であった。 この点においてトクヴィルが注目したのは、 アメリカにおける住民自治の習慣であった。
アメリカというと「自由の国」と思われがちだが、 トクヴィルがまず目を向けたのはアメリカにおける「平等」であった。 イギリスの植民地だったアメリカには封建制や身分制の歴史がなく、 人間が「平等」であることは自明として扱われてきた。 特に、 開拓期のアメリカでは連邦政府の力が弱く、 人々は学校の建設から道路の整備に至るまで、 自分たちのことを自分たちで決めて実施せざるを得なかった。 そのためアメリカでは、 身の回りのことを「平等な」近隣住民同士で話し合って決める地方自治の習慣が根付いた。
平等に基づくこの習慣は、 アメリカで自由が花開く素地となった。 自分たちの町のことを話し合うなかで、 自由に意見を言い合うことは当然としても、 それで相手を人格的に否定したりすることや、 まして意見の違いによって、 相手の生命や尊厳を脅かす争いに発展させてはいけないという配慮をも身に着けさせることになった。 つまり、 トクヴィルの言い方に従うと、 地方自治によって人々は自己決定という「自由」の味を知り、 その平穏な利用に慣れるのであり、 これが「多数者の専制」を防ぐ効果があったのである。
トクヴィルの議論の核心は、 「平等」な人々によって成り立つ民主主義(皆が平等だからこそ、 一人一票で、 なおかつ頭数の多い側に優先権が与えられる)が「多数者の専制」に陥らないようにするためには、 外からの圧力を跳ね返して独立を維持する「自由」の理念を確保する手段や制度が欠かせない、 というものであった。 三権分立や地方自治が、 その典型である。
現代でもアメリカでは、 個人の内面や精神は何があっても脅かされるべきでないという固い信念が普及しており、 だからこそ例え多数派の決定であっても少数派の権利が脅かされることには拒絶反応が強く、 政府命令に対して個人が最高裁に提訴することなどが珍しくないのである。
ヨーロッパと異なり、 封建制や身分制の歴史がないアメリカでは、 「平等」の原則がいち早く実現しただけでなく、 その歴史的経緯もあって「自由」も早くから定着していた。 その意味で、 現代の世界において重視される自由と平等の理念は、 他に先駆けてアメリカで形作られたと言える。 これに鑑みれば、 貴族政が崩壊しつつあった当時のヨーロッパを振り返ったトクヴィルが「私はアメリカにアメリカを超えるものをみた」と記したことは、 決して大げさなものではなかったのである。
隠微な「多数者の専制」
ただし、 さすがにというべきか、 トクヴィルはアメリカにある種の普遍的なものを見出しながらも、 手放しで賞賛したわけではなかった。 むしろ、『アメリカのデモクラシー』の後半は、 革命後のフランスのような剥き出しの「多数者の専制」でなくとも、 一見したところ平和で繁栄した社会における、 真綿で首を絞めるような、 隠微な「多数者の専制」についての洞察にあふれている。
そこでキーになるのが「大衆社会」である。 権利の観点から平等な社会が実現し、 人々が一定の生活水準を手に入れると、 個々人の間の違いが不明確になってくる。 立場が平等であるだけに、 少数派は多数派からの影響を受けざるを得なくなる。 トクヴィルによると、 「民主的な社会において多数者は、 強制もせずに、 個人を説き伏せてしまう」。
アメリカと言えば「個人主義」というイメージがあるかも知れない。 しかし、 アメリカ人ほど「どんな商品が『たくさん』売れているか」、 「どんな映画(あるいは小説)が『より多くの人に』鑑賞されているか」に注意を払う国民も少ない。 それはつまり、 多数派の影響力を自発的に受け入れる素地があるということである。
さらに、 個人主義は「多数者の専制」に拍車をかける。 カースト制があるインドや地主制が残るラテンアメリカのように不平等が当たり前の社会では、 むしろ不平等に対して鈍感になりがちである。 ところが、 アメリカのように「人間はみな平等」という観念が強ければ、 少しの不平等にも我慢できなくなりがちである。 その結果、 少しでも他者より優位に立つために、 経済的な成功などに邁進することになる。 その結果、 確かにアメリカは豊かな国になり、 ヨーロッパに先駆けて中産階級を生んできた。
ところが、 産業化が進み、 中産階級が増加したことは、 生活を守るために大きな政治変動を望まない人が増えたことを意味した一方、 私生活に関心を集中させる状況をも生み出した。 それは住民自治の伝統も徐々にすたれさせ、 人々が協力して行っていたことも政府が行わざるを得なくなっていきた。 こうして、 「自由の味」を忘れた人々の背後から、 「巨大な後見的な権力」が生まれるとトクヴィルは予見した。 1830年代にトクヴィルは、 ヨーロッパほどでないにせよ、 アメリカでも「多数者の専制」が生まれる可能性をかぎとっていたと言える。
さて、 現在のアメリカはどこに向かおうとしているのであろうか。 多国籍企業が存在するように、 様々な国民から構成されている大国、 『自由の女神』が象徴するように「自由が謳歌出来る」国の姿を維持し、 発展することを願いたい。 また、 日本国は独特な歴史に基づき、 人格者を尊敬する国民性を活かして、 大国に働きかけ、 素晴らしい人間世界を創造願いたく思う。
2)友の想い
誠実に生きている友の想いを伝えたい。
「なぜ我々が自給可能な暮らしに深く興味を覚えたかという話をしたいと思います。 近年の政府は、市民の暮らしに必要な事項を供給することがあたかも困難なように見受けられます。 政府は、最低限必要なことしか供給できず、それでさえも通常は一番貧しい人びとへのみです。
コミュニティでの暮らしや活動を通して、我々は地域内にいかに多くの才能や技能を持った人びとが存在するかに気づきました。 そして、我々自身で暮らしに必要なほとんどすべてを供給できることにも気づきました。 また、それが地域内の物資やサービスを増やすことにも気づきました。 同時に、この挑戦をこれまでと違ったとてもクリエィティブな方法で成し遂げられることにも気づきました。
もうひとつ気づいたのが、地域内の人びとは互いの存在には頼っていますが、他の「地域を越えた世界」の人びとには頼っていないということでした。 この世界的に不安な現在、我々はこれらの性質がいかに重要であるかを感じます。
20年以上持続可能なコミュニティとして模索を続けてきた今、我々は互いの信用と、緊急時や困難なときにも敏速に対応できるようなパートナーシップを地域内で確立しました。そして、コミュニティの持続可能性が発展し続けた最後の理由は、それがなによりも大変歓びに溢れることだった、ということです。
失業者が溢れていた。 なすべき仕事は一杯あるのに、お金がないから雇用もできず、仕事もされぬまま放置されていた。 そこに地域通貨という交換手段が登場してモノとサービスが動き出しました。 けれども、そのような形だけを提示してもうまくいくでしょうか。 私は、最終的には、「人」に帰すると思っています。 彼女らが「大変歓びに溢れることだった」というように、魂の琴線にふれ、魂が歓ぶ、そこには人びとの間に信頼とか慈愛とかがなければ成り立たない、そのような奥深い「人」からの出発があったからだと思うのです。
私の紹介すべき中身は終了に近づいております。 これから後、この社会構築へのゴールデンルールをご紹介すれば終わります。 ただ冒頭に述べましたように、これに出会って小躍りしたいほど嬉しかった自分! マレニーの成功が示唆する、日本への適用の可能性についてもっと考察してみたいと思います。 以下、独断と偏見ですので、早く結論を! という声が聞こえたりするのですが…。 書くことをお許しください。 まずは拙著より…。
○ 競争・協力社会の提唱
-悲しみの老婆-
路頭でトマトを売っている老婆がいました。 値段は手頃で一個一〇円。 評判もよく、みな職場からの帰りには買っていきました。 ある日、車に乗った男がトマトを一杯乗せてやってきました。 彼は、七円で売ってもよかったのですが、老婆のことを思ってそこを去りました。 貧しい家庭に生まれた彼は、幼い日、母親が同じように育ててくれたことを、一緒になってトマトをもいだことを思い出したからでした。 次にやってきた男は、これは売れるぞ、と大きな屋台を張ってトマトを売り始めました。 仕入れは資本をかけた大規模農場からなので、単価はぐっと安くなり、八円で売り始めたのです。 老婆は畑の具合や生活のことを考えると、どうしても一〇円より安くはできませんでした。 消費者は老婆のトマトには見向きもせず、老婆は悲しみのうちに立ち去りました。
お米は、アメリカの大規模農法をもってすれば圧倒的に安くできます。 祖先の血と汗の日本の棚田は価格で太刀打ちできる米は作れません。 競争を挑むか立ち去るか。 弱肉強食、自由競争の原理に立つか、慈愛の原理に立つかで結論はまるで異なります。
いつ丸裸になるとも知れぬお金万能の競争社会では、軌を外すと奈落の底。 勝たねばならないために、敗者たる多くの悲しみの老婆を生み出し、かえって全体の不幸を助長しているようです。 経済至上主義文明は、弱肉強食社会、例外なき競争社会を創ってきました。 その人為的環境のもとで最も強烈な作用を受けたのが、その文脈のもとに生まれた「ポスト地域共同体的社会」に生きねばならない無垢な子どもたちでした。
-競争・協力社会-
比喩的表現ですが、社会形態として競争社会、競争・協力社会、協力社会の三つの構造的なタイプが想定されるのではないでしょうか。
競争社会では、社会のミクロな構成員たる個人に至るまで、完全な自由競争に基づく市場経済にさらされます。
そこでは商品化可能なあらゆるモノとサービスが準備され、お金があれば交換可能です。 消費者としてはお金がなければ話にならないので、生まれて間もなくすると、お金獲得競争に勝つための武装に邁進することになります。 まず塾通いの勉強であり、優位な才能を開花させるためのお稽古事。 ヒトは、精神的な価値でなく労働的価値から金銭評価され、競争の道具と化してしまいます。 お金のために、主婦は本来の家事を放棄してでも働く時間を工面します。 そうすると、家庭における必要も、商品対象となるものは可能な限り商品化され、本来地域共同体の中で調達していたモノやサービスが、市場商品に置きかわります。 祖母たちが話してくれた昔話も、一家団らんもテレビが代行し、介護制度にさえも競争原理が侵入します。 子どもの教育費がソロバンではじかれ、収入との関係で子どもを生むかどうかが判定されます。
すべてお金を媒体とする市場が介入します。 市場の商品化能力が高いほど、個人の周りは手作りのモノがなくなり購入品で埋まってしまいます。 弁当はコンビニ調達。 野原で捕まえていた昆虫もデパート調達。 言ってみれば、市場経済という外力が、お金という媒体を通して瞬時に社会構成体のすみずみに伝達される社会です。 そうして個人は裸となりアトム化してしまいます。
協力社会は、市場経済から切り離きれた共同体の社会で、外力が構成体内部にバネのような直接の歪みをもたらしません。 市場が出現していない原始共産体制がそうです。 今や一般には存しませんが、先ほどまで家庭がそうであり、近隣社会がある程度そうでした。そこでは、弱い者も強い者も等しくモノやサービスを享受します。多少なりとも自給自足の部分があって、手作り、ゆずりあい、思いやりの社会です。 貨幣はあっても、それが生活支配の絶対者ではありません。 ヒナは親鳥のつばさの庇護のもと、すくすく育ちます。 その社会は協力の原理で成り立っています。 協力は、制度的な規制、共同体のモラル、関係者のスクラムによって働き、外力はそれらの価値尺度のもとに選別され、内部への無条件の侵入を許しません。 すなわち、市場戦争からも親鳥のつばさが完全にひなを庇護できる社会です。
一八八九(明治二二)年来日した英国公使夫人メアリーフレイザーは翌年、鎌倉海岸で観察した様を次のように述べています。
「子どもばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを小さな鉢や籠を差し出すのです。そして食用にふさわしくとも市場に出すほど良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。(中略) 物乞いの人に対してけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて気持ちの良いものです。 そして物乞いたちも、砂丘の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢や不幸の様相はないのです。 施し物の多少にかかわらず、感謝の言葉があっさり、しかもきちんと言われます。 そしてたとえ施し物がなくとも、けっして不平を言ったり嘆いたりはしないのです。」(「英国公使婦人の見た明治日本」淡交社一八一ページ)獲物を分かち与えるシステムは、縄文時代の狩りの仕組みと同じです。 その社会に、貧乏人は存在しても、貧困なるものは存在していなかったのです。
競争・協力社会は、市場原理が貫徹する社会と、それから切り離され、協力原理が機能する社会の二重構造をしています。 後者は、市場経済の恩恵を、地域共同体として必要な限りにおいて受け入れます。 共同体があたかも一つの生き物のように主体的な価値観をもって不要なものを排除します。 互助の精神にたって弱き者を養いはぐくみ、里山を利用・管理し、野良作業も、道普請もする共同体です。 たしかに拘束的社会ですが、構成員はリンケージされるがゆえにアトム化せず、競争社会にない安心と安全を感じる社会、テレクラも〈出会い系〉も受信したくなければ排除できる社会です。
かつての地域共同体は、家庭という協力社会から外に向かって次第に競争社会に連なる競争・協力社会を実現していました。 内になるほど、お金によらないでモノやサービスを得ることができ、余分な情報や商品はカットされました。 無償の愛とか言わずとも、打算的でもかまいません。 幼児など弱い者は、いずれ強くなって帰ってきます。 お年寄りはかつて共同体社会に尽くしてくれた人びとです。 だから今強い者が助ける番。弱さと強さは巡りあいます。 そういった心情はわが国には満ち満ちていたものです。
その社会に生きる子どもたちは、家庭→近隣社会→学校→身近な自然へと、同心円的な意識の深まりが可能でした。 環境経験と言語コミュニケーションをとおして、彼の内なる価値が育ちます。 日本復興の原動力となった「揺るぎないモラル」はそうして育った一つでした。
けれども、協力原理のシステムは既に失われ、成り行きにまかせては再構築できません。國の立場で考える場合、政治システムと経済システム、社会システムの三者の関係の調整が必要で、その架け橋役が、財政租税システム(「神野直彦」システム改革の政治経済学岩波書店)ということになるようなのですが、マレニーのアプローチはまるで違いました。ボトムからトップを動かすのです。
わが国でも、多くのNPO的な活動に見られるように、その心は雑草のように根強く生きています。 それらの自発的な活動の輪を広げるところから始めるのが現実的ではないでしょうか。 肝要なことは…、結いの心を取りもどすことではないでしょうか。(拙著「魂からの出発」より一部修正)
以上は、今日の子どもを取り巻く環境を憂えて述べた文章ですが、どのようにして協力社会を実現するか、となると、全く分からず、ただ、上述のように抽象的に述べるしかありませんでした。 そこに飛び込んできた実例が、私にとって、マレニーであったというわけです。
『今、書きながらしきりと頭をめぐっていますことは、過疎地域において、そのような思いのある人びとが集まれば、第2、第3のマレニーが可能ではないだろうか、それは国土の均衡ある活用、落ちこぼれたかのごとき人びとの復活、子どもたちの本当に必要な環境の創造、新しいライフスタイルの創造、といった可能性を示唆するものです。大都会の喧騒とホームレスの方々、競争社会の矛盾から少しは静かな落ち着いた日本が帰ってくる手がかりにもなりはしないか…? その実践をどこかでやってみたい、そんなことです。今回は自説を述べて恐縮しておりますが、ご寛恕のほどを。 』
※マレニー: オーストラリアのマレニーという町をご存知でしょうか。 800人程度の死んだような町が25年ほどで町の中心部2,000人、郊外部を入れると5,000ほどの町に生き返っています。 住み着いたたった一人の女性から始まったわけですが、彼女の話を直に聞く機会がありました。
協力社会の模範みたいな町です。 私は、外側は競争社会の現状でも、内側に協力社会がなければいけない、いう持論をもつものですが、聞いたとき、その模範がここにあったと有頂天になるほど嬉しかった。(拙著には、粘弾性社会と変な呼び方をしていますが…)
特に地域通貨がよく機能しています。 資本主義でもない、共産主義でもない、もう一つの可能性。 それを実践してみせています。 日本のいわば過疎地域の再生、自己中心的な社会の変革の可能性を示しています。
ここでは、インドネシアの「プカランガン」を皆様に(ご承知かもしれませんが)紹介しておきたいと思います。
『プカランガンというのはインドネシア語で、「家屋のまわりを囲む樹木」という意味だそうである。 西ジャワの水田地域に、地域によっては50パーセントもこのプカランガンをもつ集落があるということである。 渡辺弘之氏の「東南アジアの森林と暮らし」(人文書院)によれば、典型的なプカランガンは、家屋のまわりに用材薪炭のための高木、その下に果樹・野菜・穀類などの作物、薬用植物、園芸植物などを植え、ヤギの小屋がありニワトリが放し飼いにされている。 中央に5メートル四方くらいの池が掘られ、ここにコイなどを飼っている。 この池の一端には張り出しがつくってあり、タケで編んだ壁で囲ってトイレとしている。 一軒がもつプカランガンの面積は、100から200平方メートルという。 それほど広くないこの土地は、極めて集約的に利用されており、一軒当たり50種くらいの植物が植えられているという。 プカランガンは、高木を含む樹林で、いわば「樹木庭園」というべきもの、極端にいえば、住民は米以外のすべてのものをここで自給自足している。』(岸本 潤「広葉樹と日本人」牧野出版)
ジャカルタの高層ホテルからも、点々とするオレンジ色の屋根と緑があい半ばしているのをごらんになった方も多いでしょう。 庭で、マンゴーなどが手にとって食べられ、家の中ではツタが涼しげな雰囲気を醸しだしています。 緑好きな民族のようです。
1975年ごろ、インドネシアは、国民一人当たりGNPが100ドルにも満たない後発開発途上国(LLDC:Least Less Developed Country)でした。 けれども、実はそうやって統計に乗らない部分で、豊かとはいえないにしても生活の大きな部分を満たしていたわけです。このような自給自足の部分がないと、生活の深みは生まれないのではないでしょうか。
Y=aX+B で、B>0 Yは豊かさ Xは外からの貨幣収入
かつて日本にも似た部分がありました。 家の周りに庭があり、梅、桃、茶、グミ、夏ミカン、柿、栗などが、子どもたちの空腹を満たし、食卓を賑わせてくれたものです。 梅干しの土用干しでは、シソにまぶした梅の実をザルにいれて茶畑の上で干したのが、風もさわやかな初夏らしい風物でした。 山では、ヤマイモを掘ったりムベを採ったり、川ではサワガニを採ったり魚を釣って焼いて食べたものです。 空腹を満たすためでもありましたがそれ以上に楽しかった。 現金収入がなくても、生活の糧とゆとりを与えていました。
資本主義経済では、高く売れるように自らを生産システムの優秀な部品として磨き上げねばなりません。 企業は人を歯車のように極端な分業体制に向かわせます。 そうして、都会はもちろん、田舎でも自給自足的な部分がほとんどなくなってしまいました。 この体制ではリストラが始まって部品の評価が失われると、システムから外されてしまうことになります。 そうなると、国全体はこれほど豊かになったのに、個人としては見入りゼロ(B=0だから)になって極端な話、ホームレスとなってしまいます。
中世時代、日本のふところは深く、山野河海は「公私その利を共にす」という「無主」のもので、だれもが自由に獲物を採り、浩然の気を養うことができたといいます。 森があればかけ込んで命だけは永らえたのです。 今の山野河海は、立ち入るべからずの思想で、ほうり出された人の行き場がありません。 たしか中国地域の川と思いますが、ハヤ(オイカワ)にさえ漁業権を設定したと聞きました。 こうして子どもをも(最高の教育空間たる)川から遠ざけてしまうのです。
ジルの講話を聞く前に、ビデオで、マレニーの家々を紹介してくれましたが、マンゴーやバナナらしい果物がたわわに実って緑色の繁みに覆われていました。 そのこととプカランガンのイメージが重なるのです。 マレニーでは、各自のプカランガンの果実、野菜が溢れて市場に出される、そうも考えられましょう。
競争とか拝金物狂徒の価値観を変えればきっと何かが変わってくる、そんな予感がします。
成功へのゴールデンルールをお話します。
1.小さくスタートせよ
2.その地域で必要な範囲を見極めよ
3.立ち上げるとき、地域に遂行するに足るエネルギーがあるかを確認せよ
4.多様な人びとを結集せよ
5.失敗を含む経験者やモデルを探せ
6.地域に役立っているという自覚、自信を持てるよう
メンバーを応援し、認知し、鼓舞せよ
7.組織への貢献を感謝せよ
8.ともに働き、学ぶよう、競争ではなく、協力し合うことを
9.楽しんで、喜びを感じながら進みなさい」
3)本日は、 マティス米国国防長官が来日予定です。 この方は人格者と心得ています。 素晴らしい会談となることを願っています。
今回は以上です。 ご静聴誠に有り難うございました。
○本日のメッセージ
愛の力(りき) 善意の力 実を結び
明るい未来 幸せ開花
明るい未来を信じていけば、幸せの道は開かれていきます。 心穏やかにして、素晴らしい未来の夢を語りましょう。 今日のあなたの直感は未来を予知しています。 思いを文字に起こし、素晴らしい言霊で書き留めてください。 あなたの信じる道は多くの人の喜びを巻き込み、楽しい集いの中心的な立場になります。 今よりも進化して、不可能を可能にしています。 愛の力、善意の力が大きな実を結び、理想の人間関係が築かれています。 現実は美しく開花します。
Thackery




