宇宙(104)
私の友人の坊やの写真を見ていて、 強烈な生命の輝きを感じ、 村山節(みさお)先生による、 また、 一番弟子の林英臣先生による『文明法則史学』の話をしたくなった。
まず、 短歌が浮かんできた。
生命の 輝く様を 目の当たり
文明史学 伝えたくなる
最近、 文明法則史学という歴史の捉え方を知り、 目の前がパッと明るくなりました。 人間はややもすると、 近視眼的にものを見がちです。 800年周期で歴史を見ると、 色々なものが見えてきます。 紀元前2800年シュメール文明(ペルシャ湾に注ぐチグリス、ユーフラテス河流域の南部に栄えた文明)、 紀元前2000年エーゲ海文明、 紀元前1200年アッシリア・ペルシャ文明、 紀元前400年ギリシャ・ローマ帝国、 紀元400年ササン朝・イスラム帝国、 紀元1200年ヨーロッパ文明、 東西文明が800年周期で見事に交代しております。 そして、 21世紀の今、 これからは東方文明の出番で、 日本が先頭に立ってアジアを、 また世界をリードする順番です。 坊やは正にその中心に立って頂きたい人物です。
では、 村山節(みさお)先生と一番弟子の林英臣先生との出会いについてから始めます。
まず、 2010年5月27日の京都での出来事を短歌で表します。
集い来る 燃える火の玉 仰ぎ見て
変わる確信 刻む魂
[解説]
村山節(みさお)先生の魂に刻まれた「文明法則史学」を、 一番弟子の林英臣先生を通して学び、 京都の五条英徳館に集いし変革を望む学徒は、 綜學社の五誓を胸に納め、 800年ごとの文明交代期に果たすべき日本の役割と己の使命を認識し、 明るい未来建設に向い、 燃え滾る情熱で全てを受け止め、 なすべきひとつ、 ひとつを魂に刻んでいった。
では、 綜學講座で学び、 受け取った叡智を己の魂の中に刻み込み、 咀嚼した内容をお伝えします。
1)800年ごとの文明交代期とこれを裏付ける理論
○CC文明1サイクル(1600年=1文明年)
○1CC = 4SS(1ラセン4波動)
※ CC(Civilization Cycle)
SS(Social System)
冬(DARK AGE:幼年期:No.1 SS)
春(文明の薄明かり:少年期:No.2 SS)
夏(ルネサンス:青年期:No.3 SS)
秋(最高文明・哲学思想宗教:No.4 SS)
[解説]
(1)村山節(みさお)先生は、 1911年~2002年の時代の社会学者です。 実は、 足がご不自由で、 戦争には行かれませんでした。 そのことは、 先生を「文明法則史学」発見へと導いたようです。 戦前の鎌倉で散策されていたとき、 「歴史は直線の分析より始まる」という声が天から降ってくるのを聞かれたそうです。 そして、 世界史年表を目盛りの間隔を一定にとって描くことを思い立たれました。 紙を10m貼り合わせ、 10年1cmで目盛りを刻み、 政治・経済・文化などのジャンル毎に色鉛筆を使い分け、 世界の歴史的な事件を書き込み始めました。 そしてある日、 自ら作成した年表を見てハッとされます。 「800年ごとに文明が崩壊している。 しかも東西交互に。」 これが「文明法則史学」の発見です。 つまり、 人類の歴史に地球の四季に酷似した周期性を発見されたのです。 地球の温帯では1年を周期として春夏秋冬が繰り返されるとともに、 「北半球の夏は南半球の冬」というように二つのグループが互いに半年ずれて展開しています。 これと全く同様、 「人類の歴史には1600年を周期とする“春夏秋冬”(各400年=1600年)があり、 東洋と西洋という二つのグループが互いに800年ずれて展開している。」という規則性の存在が明らかになったのです。
→ 「足がご不自由であることが幸いしたのです。」 我々人間の人生は、 まず、 自らの運命を受け止めるところから出発するようです。
(2)日本の800年サイクル
紀元前3600年~2800年(縄文前期[冬から春])→ 紀元前2800年~2000年(縄文中期[夏から秋])→ 紀元前2000年~1200年(縄文後期[冬から春])→ 紀元前1200年~400年(縄文晩期[夏から秋])→ 紀元前400年~紀元400年(弥生時代[冬から春])→ 紀元400年~1200年(奈良・平安文明[夏から秋])→ 紀元1200年~2000年(鎌倉・室町・戦国・江戸・封建時代・明治維新・平成[冬から春])→ 21世紀はどん底から上昇する時代(夏から秋)となります。
(3)冬(DARK AGE:幼年期:No.1 SS)→ 春(文明の薄明かり:少年期:No.2 SS)→ 夏(ルネサンス:青年期:No.3 SS)→ 秋(最高文明・哲学思想宗教:No.4 SS)の説明
●No.1 SS: 武力だけの暗い時代(400年)
●No.2 SS: 社会の安定、 民族の発達(400年)
○No.3 SS: 美術創造、 学術開花(400年)
○No.4 SS: 活気に満ちた文明、 力強い文明(400年)
※ ●No.1 SS+●No.2 SS = 800年: α期(低調期)
○No.3 SS+○No.4 SS = 800年: β期(高調期)
2)21世紀から800年は日本が先頭に立って東方アジア文明をリードする
そのためには、 1CC = 4SS(1ラセン4波動)の理論に日本の全貌を当てはめ、 村山節(みさお)先生の『10メートルの巨大年表』に相当するACTION PLANを書き上げる必要がある。
まずは、 日本国のトップに位置するシステム作り。
①国民の生き血を吸わせない政治の仕組み作り
→ 物欲にまみれた政治の仕組みを変える
②家族・隣人を愛せる人の輪作り
→ 日本人の魂を揺さ振る教育の実践
③核破壊が起きている社会システムの健全化
→ スーパーコンピューター利用による最良社会システムの構築
と、 ここまで考えてきて、 『21世紀から800年は日本が先頭に立って東方アジア文明をリードする』という認識の下、 具体的ACTION PLANを書き上げることのできる人物選定が最も重要という結論に至った。
一般には、 日本国のトップに立つ人物ということになるが、 未だ見えてこない。 村山節(みさお)先生や林英臣先生のような智恵者がお集まり願い、 日本国の設計図をお書き願うしかないようにも思える。 勿論、 綜學社のような地道な人物教育は継続頂くとして、 日本全体を俯瞰し、 あるべき骨格を示して頂く智恵者の登場ということになるのではないだろうか。 村山節(みさお)先生や林英臣先生が神からの啓示を受けられたように、 次なる人物の登場を望む。
3)むすび
村山節(みさお)先生のメッセージに「座標軸を宇宙に上げよ!」とあるように、 『文明法則史学』を物差しとして、 宇宙船に乗って地球の行く末をじっくり考える必要がある。 また、 日本の政治の方向も壮大なパースペクティブ(PERSPECTIVE)の中で捉えていく必要がある。
○本日のメッセージ
晴れ晴れと 心明るく 弾ませる
言葉発信 縁起を結ぶ
「縁起の良い言霊が運気を向上させます。 縁起の良い言霊をいっぱい発信することで、 自分も幸せ、 周りも幸せの「おもいの共有磁場」をつくりましょう。 相手の心を曇らさない、 晴れ晴れとした言葉を発信しましょう。 言葉はあなたの美しさの表れです。 言葉が未来の運勢を決定します。 平素から縁起の良い、 明るく楽しい言葉を使いまょう。 自ずと同じ波長の人たちが集います。 言葉は結びです。 大切にして、 素晴らしい言葉のご縁を活かしましょう。」
Thackery
― - - つづく
宇宙(103)
久し振りに宇宙のお話をします。
○宇宙の膨張によって太陽系も徐々に大きくなっているのでしょうか。
→ 太陽と惑星の間に働く引力が強いので、 宇宙膨張によって太陽系は大きくなりません。 地球が万有引力で太陽に引き寄せられる力のほうが、 空間の膨張によって地球を太陽から遠ざける力より、 10の22乗倍も大きいそうです。
1)太陽系の場合
上記の如く、 太陽と惑星間で引き合う引力のほうが強いため、 太陽系は大きくならない。
2)銀河系とアンドロメダ銀河の場合
近い距離にある銀河は、 互いに引き合う力のほうが強いため、 近づいている。
3)遠い銀河と銀河団の場合
遠く離れた銀河・銀河団は、 互いの重力の影響よりも膨張させる力のほうが強くなるので、 引き離される。
●膨張する空間、 膨張しない物体
宇宙膨張によって太陽系が大きくなっているというのは誤解です。 「宇宙のあらゆるところで空間が膨張しているのは事実です。 ただし、 その膨張させる力は距離に比例して大きくなるので、 太陽とその惑星程度の短い距離に於いては、 その力は極めて弱いものです。 そのため、 地球と太陽が遠ざかることはありません。」 計算によると、 地球が万有引力で太陽に引き寄せられる力のほうが、 空間の膨張によって地球を太陽から遠ざける力より、 10の22乗倍も大きいそうです。 宇宙が膨張する力は、 当然ながら私たちにも及んでいます。 ところが原子同士が結びつく力のほうが圧倒的に強いので、 日本列島が大きくなったり、 私たちの体がばらばらになったりしないのです。 空間が膨張する効果は、 遠く離れた銀河や銀河団のように、 極めて遠い距離にあるものしか、 目に見えてあらわれてきません。
●数千万光年でようやく効果がみえる
では、 どの程度離れていれば、 効果があらわれてくるのでしょうか。 すでに述べましたように、 太陽系の範囲では効果があらわれません。 更に銀河系(直径10万光年)の範囲でも、 銀河が大きくなることはありません。 私たちのいる銀河系と、 最も近くにあるアンドロメダ銀河の間(距離約250万光年)であっても、 宇宙膨張によって遠ざかることはありません。 この二つの銀河はお互いの引力によって、 秒速300キロメートルで近づいてすらいます。 宇宙膨張の効果が顕著にあらわれるには、 銀河同士であれば数千万光年以上は離れている必要があるそうです。 ここまでの説明は、 あくまでも現在の宇宙の膨張速度での話です。 宇宙の膨張速度はこれまでも変化してきました。 現在の宇宙膨張は加速していることが観測によってわかってきましたが、 これが今後も変化しないとは限りません。 将来、 何らかの理由で加速度が更に増加していくようなことが起これば、 膨張によって引き離す力が増し、 最終的に地球や太陽系がばらばらになる可能性もあることが指摘されています。
○本日のメッセージ
縁起良い 言霊伝え 吉波動
満点笑顔 幸せ満ちる
「縁起の良い言霊の発信源になりましょう。 満点の笑顔で、 素晴らしい言霊を発信しましょう。 今日の素敵な笑顔は全てを改善に導き、 神さまへの感謝に導かれる事象へと変化させます。 何事も善い方向へと進み、 大調和の内に物事が発展します。 また、 今日のあなたの想念は素晴らしい言霊をつくり、 必ず清らかで幸せに満ちたものへと発展していきます。 そして、 縁起の良い言霊を発信していくことで、 一層周りの運勢をも強めることができます。 あなたが「吉」なる波動の発信源となり、 喜びあふれる一日を過ごしましょう。 すべてが調和に満ちた方向に進むことでしょう。」
Thackery
天の声(19) 散歩(19)
信長、 秀吉という2人の天下人に仕え、 茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休について、 少し述べたい。 理由は、 この春、 先祖・和氣出雲守藤衆勝(城主で”和氣権之助豊勝”の父親)のお位牌に接する機会があり、 時代は、 織田信長(死没 天正10年6月2日(1582年6月21日))の時代に遡ることが分かった。 先祖・和氣出雲守藤衆勝は1579年・天正七年己卯に没とその位牌に印されていた。 和氣出雲守藤衆勝の長子・和氣権之助豊勝の墓は、 私の家の墓地に安置され、 帰郷の度にお参りしている。
いつの時代にも、 有名人・為政者達が同時代人として存在する。 しかし、 織田信長、 豊臣秀吉は余りにも歴史上有名な人物である。 しかも、 国作りという観点からも。 先祖も城主であり、 戦国時代にどのような生き様をしていたかは、 興味をそそられるところである。 私のルーツは更に紀元前まで遡り、 歴史上の人物につながっていくのだが、 この事実は今は物語らない。 いつの時点で語られることになるかは定かではない。
それでは、 “茶聖”千利休の話に入ることとする。 本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。 大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。 当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、 京の都に匹敵する文化の発信地。 堺は戦国期にあって大名に支配されず、 商人が自治を行ない、 周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、 いわば小さな独立国となっていた。 そして多くの商人は優れた文化人でもあった。
利休の父は堺で高名な大商人であり、 彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、 16歳で茶の道に入る。 18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。 紹鴎の心の師は、 紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。 珠光はあの一休の弟子で、 人間としての成長を茶の湯の目的とし、 茶会の儀式的な形よりも、 茶と向き合う者の精神を重視した。 大部屋では心が落ちつかないという理由で、 座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、 後の茶室へと発展していく。
紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、 高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、 日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、 精神的充足を追究し、 “侘び”を具体的に表現した。 利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、 茶室の構造やお点前の作法など、 茶会全体の様式にまで拡大した。 また、 当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、 利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、 掛物は禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。 利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省いてイブシ銀の緊張感を生み出し、 村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。
活力に湧く自由都市・堺に目をつけたのが1568年に上洛した信長だった。 彼は圧倒的な武力を背景にして、 堺を直轄地にし、 軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。 そして、新しいモノに目がない信長は、 堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、 武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。 信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、 武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用しまくる。
※現代でも高価な茶碗は重宝されるが、 戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するもので、 その価値は今とは比較にならないものだった。 有名なエピソードでは名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀。 彼は数度にわたって信長を裏切っており、 冷酷な信長なら問答無用で捕らえて斬首するハズなのに、 1577年、 信貴山城に籠もった久秀を2万の兵で包囲した降伏勧告で、 「もし平蜘蛛釜を渡せば命までは奪わぬ」と説得した。 かねてから信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、 「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらん!」と、 なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、 釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばした。 現代では信じられないが、 茶器が人の命を左右する時代が日本にあったのだ。 (利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれている)
信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、 政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、 津田宗及(そうぎゅう)、 利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)に重用した。 利休は1573年(51歳)、 1575年(53歳)と2度、 信長主催の京都の茶会で活躍している。 信長の家臣は茶の湯に励み、 ステータスとなる茶道具を欲しがった。 彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。 必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。 利休60歳の1582年6月1日、 本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。 そしてこの夜、 信長は明智光秀の謀反により、 多数の名茶道具と共に炎に散った。
後継者となった秀吉は、 信長以上に茶の湯に熱心だった。 秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、 後に「利休十哲」と呼ばれる、 細川三斎(ガラシアの夫)、 織田有楽斎(信長の弟)、 高山右近、 古田織部など優れた高弟が生まれた。 1585年(63歳)、 秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、 天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。 翌年に大阪城で秀吉に謁見し、 壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服した大名・大友宗麟は、 「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。
※秀吉は茶会を好んだが、 いかんせん本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。 そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。 天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、 人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。 この過程で利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、 ろくろを使用しない独自の陶法で樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。 武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、 人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、 利休の名声はさらに高まった。
1587年(65歳)、 秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、 内外への権力誇示を目的として、 史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。 公家や武士だけでなく、 百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、 まさに国民的行事。 秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、 利休が総合演出を担当した。 当日の亭主には、 利休、 津田宗及、 今井宗久、 そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。 拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、 会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上となった。 秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。
○利休の美学が垣間見える重要エピソード
・ある初夏の朝、 利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。 秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、 庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。 ガッカリして秀吉が茶室に入ると、 床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。 一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ、 秀吉は利休の美学に脱帽したという。
・秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、 最後に落ち葉をパラパラと撒いた。 「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると、「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。
・弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。 「茶は服の良き様に点(た)て、 炭は湯の沸く様に置き、 冬は暖かに夏は涼しく、 花は野の花の様に生け、 刻限は早めに、 降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、 私はあなたのお弟子になりましょう」。 当たり前のことこそが最も難しいという利休。
・秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、 これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。 利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、 「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。 「是非教えて下さい」と有楽斎。 利休曰く「それは自由と個性なり」。 利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。
・利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、 限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。 彼が考案した入口(にじり口)は、 間口が狭いうえに低位置にあり、 いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。 それは天下人となった秀吉も同じだ。 しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。 つまり、 一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、 茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。 このように、 茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)
利休と秀吉の蜜月は茶の湯の最盛期となった「北野大茶湯」をピークとして、 徐々に歯車が噛み合わなくっていく。 秀吉は貿易の利益を独占する為に、 堺に対し税を重くするなど様々な圧力を加え始め、 独立の象徴だった壕を埋めてしまう。 これは信長でさえやらなかったことだ。 堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく思った。 1590年(68歳)、 秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、 利休の愛弟子・山上宗二が、 秀吉への口の利き方が悪いとされ即日処刑される。 利休ショック。 茶の湯に関しても、 秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、 利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。 秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、 利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。
そして翌1591年1月13日の茶会で、 派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、 「黒は古き心なり」と利休は平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。 他の家臣を前に、 秀吉はメンツが潰れてしまう。 9日後の22日、 温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。 秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、 公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。 利休は最大の後ろ盾をなくした。 それから1ヵ月後の2月23日、 利休は突然秀吉から「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」と命令を受ける。 利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、 門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。 大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、 上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。 秀吉は利休に赦しを請いに来させて、 上下関係をハッキリと分からせようと思っていた。
秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、 秀吉の妻(ねね)か母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。 だが、 利休はこれを断った。 「秘伝の作法」に見られるような、 権力の道具としての茶の湯は、 「侘び茶」の開祖・村田珠光も、 師の武野紹鴎も、 絶対に否定したはずだ。 秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、 茶の湯そのものも侮辱することになる。
利休には多くの門弟がいたが、 秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、 京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、 古田織部と細川三斎の2人だけだった。
利休が謝罪に来ず、 そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達し爆発した。 2月25日、 利休像は山門から引き摺り下ろされ、 京都一条戻橋のたもとで磔にされる。 26日、 秀吉は気が治まらず、 利休を堺から京都に呼び戻す。 27日、 織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。 そして28日。 この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。 利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。 この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。 利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。 使者に最後の茶をたてた後、 利休は一呼吸ついて切腹した。 享年69歳。 利休の首は磔にされた木像の下に晒された。
※利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康(切腹の1ヶ月前)。
利休の死から7年後、 秀吉も病床に就き他界する。 晩年の秀吉は、 短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、 利休と同じ作法で食事をとったり、 利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。 さらに17年後の1615年。 大坂夏の陣の戦火は堺の街を焦土と化し、 豊臣家はここに滅亡した。
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。 秀吉が没すると、 織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南したが、 織部の茶が高い人気を集め始めると、 かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、 大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。(この時代、茶をたてるのも命がけである)
利休、 織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。 徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、 利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、 保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休の子孫は、 大徳寺にいた孫の千宗旦が家を再興し、 宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、 三男・宗佐が『表千家不審庵』を、 四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。 利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、 今や世界各国の千家の茶室で、 多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。
⇒ 上記の如く、 激しい戦国時代に生きた先祖・和氣出雲守藤衆勝及びその長子・和氣権之助豊勝を思い、 子孫である自分自身の生き様をじっくり考えた。 皆様に、 「本日のメセージ」を送ることも、 ひとつの務めかも知れない。 日本国の正念場に来ている平成の時代、 何らかの貢献ができれば幸いである。
○本日のメッセージ
頭下げ 心低いは 基本なり
清い命は そこに生まれる
「頭を下げ・心低くして生かされましょう。 あなたの謙虚さ・素直さに応じて、 あなたに必要な情報が届きます。 神さまの前・人さまの前でも、 謙虚・素直を大切にしましょう。 そんなあなたには、 すでに大切な情報が神さまから届いています。 人は大自然の大きな摂理の元、 活動を許されています。 すべての行いは、 許された中にあるのです。 頭を下げ、 心を低くして活かされていくことで、 清らかな生命の存在をいただけるのです。 有り難い心のありかたを、 謙虚さの中で学習させていただきましょう。」
Thackery

