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南円堂右上隅
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南円堂四天王像


泉武夫の研究 

 平成七年、京都国立博物館は赤外線写真やX線写真を含む本格的な京博本の図版を館蔵品研究図録として出版した。この出版によって、京博本の実物を調査する機会に恵まれない者でも詳細な検証をすることが可能になった。 

 この図録の本文を担当したのは泉武夫氏と伊東史朗氏であるが、このうち泉氏の論文「興福寺曼荼羅の図様と表現」には京博本の景観年代に関する新知見がある。 

 泉氏は論点となっていた南円堂部分、特に藤岡氏が絵絹の欠損があると指摘した右後方部分を改めて精査したが、問題の部分には赤外線写真を通しても壁画祖師像が描かれていた形跡が全く認められず、泉氏はこの箇所には当初から壁画祖師像が描かれていなかったと結論したのである。 
 泉氏の観察によって、南円堂の壁画祖師像は治承の兵火以前の状況を描いているという毛利説に軍配があがった。 

 しかし、東金堂の文珠菩薩像の頭上に梵篋を載せるという特殊な描かれ方、また、南円堂に描かれている四天王像が現存する中金堂の鎌倉復興像と一致する度合いが際立っている所からすると、少なくとも東金堂の文珠と南円堂の四天王像については、治承の兵火以後の状況を写しているということに異論なかろう。

 ある部分では治承の兵火以前の景観を写し、またある部分では鎌倉復興像を忠実に写しているというこの矛盾した状況をどう解釈したらよいのかについて、泉氏は二つの可能性を提示している。 
 一つは鎌倉復興像が治承の兵火以前の像容を忠実に写していると解釈する見方である。しかし、治承の兵火以前の像容がはっきりしないこと、特に特殊な像容である東金堂の文珠菩薩像の異色性が「別尊雑記」等、兵火以前の図像集で全く取り上げられていないことなどから、この解釈の可能性は低いと言わなければならない。 
 もう一つは、治承の兵火以前の景観に一部、鎌倉復興像が混入しているという解釈である。南円堂の壁画祖師像は兵火以前、東金堂の文珠菩薩像と南円堂の四天王像は鎌倉復興像であることが確定的であるのならば、この解釈の方が妥当で京博本は治承の兵火以前の景観を基本として、一部に兵火後の像も混入したとみるべきである。 

 であるならば、そもそも京博本には決定すべき一つの景観年代というものが存在しなかったという事になり、泉氏は景観年代が制作年代に直結しないとの認識をもって、京博本の絵画的表現、春日曼荼羅の成立過程などから制作年代の決定を試みて、十三世紀初め頃の制作であろうと結論した。

 泉氏の功績は、毛利氏以来京博本の最大の論点となっていた景観年代について、景観年代の求め方を転換した点にある。 

 泉氏は京博本が正確な写実でないのは、礼拝用であったため厳密な写実である必要はなく、記録的な意図もなかったためで、礼拝像としては「社会的了解事項としての姿や形」こそが重要であったから、治承の兵火を経験した直後の鎌倉時代初期に、人々の脳裏にきざみこまれていた兵火以前の景観を基本として一部に復興後の景観も取り込みつつ制作されたものと考えている。 
 礼拝用として写実よりも象徴的なイメージが優先されたとの解釈には説得力がある。