次に唐招提寺の西小堂に有った丈六鋳仏についての「古人云」の部分は意味不明な所も有りますが私なりに意訳させてもらいます。 

古人(いにしえびと)が云うのには盗人が来て、この仏像を壊して盗もうとした時の事です。
大声で人殺しと叫ぶのが聞こえ寺の人が驚いて駆け付けたので盗人は逃げ去りましたが辺りに人の姿は見当たらなかったそうです。 

この記事も「古人云」の書き出しで始まっているので、薬師寺の講堂の記事から天禄四年(973)以前に成立した巡礼記あるいは説話集に載せられていたと考えられます。 

最後に法隆寺(東院)勅封廊の迦羅提山地蔵菩薩についての「古人云」を私なりに意訳させてもらいます。 

古人(いにしえびと)が云うのには、この像は(聖徳)太子の御妻、橘大夫人の建立で迦羅提山という寺は元は法隆寺の西山辺りに在って中院堂と名付けられましたが寺が破壊した後この地蔵は、この家屋に置かれました。 
その寺の本仏の薬師如来は講堂の東端壇下におわします。 

法隆寺の講堂は延長三年(925)に焼失し、正暦元年(990)に再建されたと考えられますので「古人云」として唐招提寺西小堂の丈六鋳仏、薬師寺講堂の金銅阿弥陀立像、法隆寺(東院)の迦羅提山地蔵菩薩の事を載せた巡礼記あるいは説話集の成立は延長三年以前と考えられます。 

「七大寺巡礼私記」の唐招提寺講堂の条に引用する寛仁二年(1018)七月或人巡礼記には講堂には金銅の弥勒三尊が安置されていた事と講堂を開けさせて拝見した時の事が書かれています。 

案内僧の話として、この弥勒三尊は元は高田寺の仏像で、その脇侍、大妙相菩薩は昔、盗人のために融解されそうになった時に声をあげて「痛い」と叫び、盗人は捨て去りましたが、右の臂の天衣は木で修理されています。高田寺破壊の後、此の堂に移し奉ったのが、この像ですという事が載せられています。(意訳させてもらいました)

このエピソードから西小堂に安置されていた丈六鋳仏と寛仁二年七月に講堂に安置されていた金銅像の弥勒三尊は同一のものだと考えられます。 

ただ、ここまでで検証したように高田寺の弥勒三尊が唐招提寺の西小堂に移されたのは延長三年以前の事で、その後に講堂に移されたと推測されます。 

前に唐招提寺の謎で推論を書かせてもらいましたが、講堂に当初、安置されていた弥勒三尊菩薩が西大寺に略奪されたとすれば、その時期は承和十三年(846)以降で貞観二年(860)の大火災までに弥勒金堂が再建されたと考えるなら、その間になります。 

一つの推理として西大寺に講堂の本尊を奪われて講堂が空堂になった時、唐招提寺には新しく仏像を造る力が無かったので、西小堂にあった高田寺の丈六鋳仏を講堂に安置して、その代わりにしたのではないかと考えています。

ただ、西大寺に強奪されての講堂本尊の交代は唐招提寺にとっては大きな屈辱だったと考えられ、その事実を隠蔽するため講堂は閉扉し参拝者に観せる事は無かったと思います。 

同じ寛仁二年に唐招提寺を訪れた定心阿闍梨の巡礼記には講堂についての記載は無かったと考えられ、康平七年に唐招提寺を訪れた最朝も講堂は拝観出来なかったようで講堂内部についての記載は有りません。 

親通は嘉承元年の巡礼の時には、定心阿闍梨の巡礼記しか見ておらず勿論、拝観も叶わなかったので講堂についての記載は残していませんが、保延六年の巡礼に際しては「寛仁二年七月或人巡礼記」を入手していたので唐招提寺を訪ねた時に、その真偽を案内僧に確認したと思いますが像の大きさについての記載が無いので実見出来たか、どうかは疑問です。 

このように考えると、通常は拝観出来なかった講堂の扉を開けさせた「寛仁二年七月或人巡礼記」の撰者は唐招提寺が、それを拒む事が出来ない人物であったと想像出来ます。