mixiの「南都七大寺コミュニティ」で「平安後期の南都巡礼記」というトピを立てさせてもらい、その周辺の史料との関連や、内容を推理させてもらいましたが、巡礼時の現状ではなく、参考にした古い巡礼記あるいは説話集の内容をそのまま写した部分が有ると思えるので、その事について述べさせてもらい、唐招提寺の講堂本尊の変遷に触れたいと思います。 

大橋直義氏の著作「転形期の歴史叙述」(慶應義塾大学出版会)に翻刻されている「大和寺集記」に康平七年(1064)に仁和寺の僧、最朝(後の勝定房阿闍梨恵什)が南都を巡礼して著わした「巡礼記」の逸文と考えられる記事が残されている事は、「南都七大寺コミュニティ」で推論を展開させてもらいましたが、その「巡礼記」には、それ以前に成立していた寺院の縁起、南都の巡礼記、寺院関連の説話集からの転載部分が多々有ったと思います。 

興福寺の記事に「山階流記」の祖本からの縁起部分の引用が多々有った事や、西大寺、興福院の記事に寛仁二年(1018)の定心阿闍梨巡礼記を参考にしている事は既に述べさせてもらいましたが、「古人云」という書き出しで紹介されている記事も、康平七年(1064)に巡礼した時の現状では無く、それが載せられていた古い巡礼記あるいは説話集が成立した時のものと考えられます。

「古人云」の書き出しは、唐招提寺西小堂の丈六鋳仏、薬師寺講堂の金銅弥陀立像、法隆寺(東院)勅封廊の迦羅提山地蔵菩薩の説明に使われています。 

薬師寺講堂の記事では壇上に金銅(阿)弥陀立像が有り、古人は行基菩薩が作る所なりと云うと載せています。 

その後に「口伝云」として、文章が続きますが、私なりに意訳すると下記のようになります。

聖武天皇の后の光明皇后には女子一人しかいなかったので他の后が生んだ男子を皇太子にすることになりました。そこで皇后は行基菩薩に「私は深く仏法に帰依している。もし我が子を皇太子に立てれたら仏法を興隆させよう、もし、そうならなければ仏を崇める事を禁止しよう」と仰せになられました。
これを聴いた(行基)菩薩は彼の男子を死なせ女帝が立つ事になりましたが皇后は、その罪を滅するために(阿)育王の例を引き八万塔を造って諸寺に安置されました。
この阿弥陀像は即ち、彼の亡くなった子のためのものです。 


ここで問題になるのが、平安時代の薬師寺の変遷です。 

天禄四年(973)の大火で講堂も焼失し、天元二年(979)に再建されています。
長和四年(1015)に伽藍の復興を記念した「薬師寺縁起」が撰述されますが、それには金色で高さ三尺の釈迦仏像が講堂に安置されていた事は書かれていますが、この金銅阿弥陀立像の記載は有りません。 

大江親通の嘉承元年(1106)の巡礼記録「七大寺日記」にも講堂内の仏像は三尺釈迦立像只一躰これ有りと述べられています。 
親通が保延六年(1140)の再巡礼の後で撰述した「七大寺巡礼私記」には「三尺釈迦立像を安ず。この像は当寺別当、私に之を建立す」と書かれています。 

古人が行基菩薩の作と言い、それにまつわる口伝の有った金銅阿弥陀立像は天禄四年の大火で失われ、再建の際に三尺釈迦立像が造られたと考えられます。 

この事から「古人云」として引用された巡礼記あるいは説話集は天禄四年以前に成立していたと考えられます。