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額安寺本堂

 推古神社を参拝した後、その少し西側にある額安寺(かくあんじ)を初めて訪ねました。 
 この寺は日本最古の虚空蔵菩薩像を有する事で知られていますが、江戸時代後期の興福寺で、興福寺国宝館に現存する釈迦十大弟子像、天龍八部衆像が実は、この額安寺から移座されたものであると伝えられていた事に私は興味が有ります。 

 十大弟子像と八部衆像が奈良時代に西金堂が建立された当時のものか、あるいは平家の焼き討ちで当初の像が失われた後、額安寺から移座されたものかについては研究者の間で論争が有った事と、その経緯は大橋一章氏の編纂された「論争 奈良美術」の中で小泉賢子氏が整理をされています。
 八部衆像については、平安時代の一時期、額安寺の像が西金堂に安置され、西金堂に二組の八部衆像が有った事が「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」で分かりますが、その解釈も、この問題をややこしくしているようです。

 ただ額安寺からの移座を記している江戸時代後期の記録「興福寺濫觴記」には西金堂安置の閻魔王も額安寺古像と記されており、明治の廃仏毀釈の時期の混乱で失われた史料に、それらの事を記録したものが有ったと考えられます。 

 「興福寺濫觴記」は色々な史料に基づいて作成されていて荒唐無稽な記述も有りますが、たとえば西金堂の本尊釈迦如来については「今之本尊者建久時代春日大佛師運慶奉造之」と記されていて最近、鎌倉時代の史料で確認された運慶による造像を正しく伝えている史料で時代が新しいからという事で、その記載を否定するのは、どうかと思っています。 

 十大弟子像や八部衆像が奈良時代の西金堂建立当初のものだと主張するならば平家の焼き討ちの時、これらの像が、どのようにして奇跡的に救い出されたのがを明らかにしないといけないと思いますが、その検証がされずに最近は西金堂の当初像説が、まかり通って歴史が歪められているのは嘆かわしい事だと私は思っています。