テレビやネットのニュースを観たり読んだりしていると
解説とうの論点などや 民草の反応などから 時折
近代の先人たちが組み立てて作った精神を 解体し 中世社会への選択をしているんだなと
感じることがあります。
中世とは どういう社会なのか 想像できない方たちに わかりやすい例を出してみましょう。
あなたの息子が 小学校に入りました。
一年生二年生となり三年生になって 自我もしっかりしてきたころ、
学業成績も いたって普通で 与えられた課題をこなしたにもかかわらず、
先生の裁量によって 他の出来損ないの生徒を進級させているのに、
親や本人も理由が分からず または 想像でようやく納得したりして 留年することになりました。
そして もう一年努力しました。 進級基準は その年も満たしていましたが
また 先生の裁量で留年。
これは 中世ならではの 世界です。
こういったことが 起こりえるのが 中世社会です。
さて、 私たち 普通の人たちは 仕事で 家庭で 仲間内で 相手に利益を与えるように
行動するのが 普通の状態だと思います。
そんな中で 時々 仲間内であっても あかの他人であっても、
不利益処分というか 不利益な状態に追い込む という行動もとることがありえます。
利益を与えるのが 普段のノーマルな 状態ですので、 その点は あまり気にすることもないのですが、
不利益を与えるとなると 法の世界でも 道徳や宗教の世界でも ある程度のルールが
いにしえの昔から 設定されています。
それは 基準 や 平等 といった原則です。
そもそも この世界は そういった秩序によって バランスが保たれていて
また 因果関係によって成り立っています。
原因と結果という力学と 平衡を保とうという力学を 私たちは 運という 漠然とした言葉で
説明しているのです。
この運に うまく乗れている人生を歩んでいるものは、 何も 強いから というのではなく、
適当な選択肢をしているから 力学のなかを 上手に歩んでいる ということもできます。
つまり 弱肉強食ではなく 適者生存という説明が つじつまがある理由でもあります。
さて 中世社会を選択し続けている 私たちは
これから先 こうした力学の中 どう切り抜けていけばいいのでしょうか。
原因結果という力学や 平衡を保という力学の中で 秩序ある環境にいようとするのなら
何も しないことが 一番だということが すぐにわかるのではないでしょうか。
しかしながら、 自分を利さなくてならないし 大切な人を利さなくては この社会では
少しも生活が良くなりませんね。
なので 何もしないことは まず できない。
利する といえば 最近 売り手と買い手の 関係も なにかいびつな形になっていると思います。
どちらも なめんなよ という気持ちがあるのか クレームに発展したり 兵隊アリ気取りの店番が
高圧的な態度な店も あるのです。
よく カネをはらってるんだから 客が偉い と いう理屈を主張する方もいますが、
私は そうは思いません。
それだと サービスをしてやってるんだから 店が偉い という理屈に反転することもあり得るのです。
カネと サービスは 必ず カネの方が大きいので 店が儲かるのです。
当然 イーブンな関係の中で カネの方が大きい分 普通は 店が頭を下げているだけの状態ですよね。
世の中の 原因結果 と 平衡 の力学も こういう意味でも 出現していますね。
で どう せまりくる 中世社会を 切り抜けるかは せっかく民主主義なので 民草が選択肢を
誤らなければ すむ話ですが
もう そういうことは ありえないと思います。
どれだけ 学んでも やはり 民草は 中世の社会を 選んでいます。
先ほど 学校の例で示したことは 個人レベルで 民草は好んで 行っているからです。
不利益処分という意味で 私は 次のことに注意すれば だいぶ悪い方向には進まないと思います。
不利益処分というのは 基準を必ず設定して説明する必要があるものなので、
だれしも 基準をもって不利益処分を行います。
しかし その基準は 特定の人ではなく 普通は 他の人すべてにも適用しなくてはなりませんし
そして それはご自身にも 跳ね返って適用されることになります。
さもなくば、 世間は あなたの不利益処分を認めませんし 世間が認めても
社会は 力学でできているので、 必ず その報いを受けることになるのです。
また ある集団内で 単独の存在だから 例外的な基準をもって処分を下すということも
ありえるかと思います。
しかし 多くの場合、 単独で主張できる権利、 単独で行使できる権利を 侵害することが
民草のレベルでは やってしまうことが多く、 そのため 民草の行う処分の
すべてが この世界のルール違反となり 民草に報いが 跳ね返っていくエネルギーが蓄積されている
ことも見受けられます。
あくまで 今回書いたのは 次世代が苦しい思いをしたときのために 現代に生きる者として
私が免責を得るために 現代の民草に教示した次第です。