実質的値上げのことについて以前書いたが
改めておさらいしたい。
実質的値上げとは最近よくある商品の値段据え置きのまま分量を減らすことだが
原材料を少なくするぶん、 仕入先の売上が減り、仕入れ原料の供給量が減るということは
もっと買ってほしいと仕入先が思い値段を下げ、デフレ効果があるという
最悪の循環をうむ企業の判断ミスだと思われる。
企業の判断が社会を悪くするという、こういう高校の政治経済レベルの知識で
想像がつくことは、以前の中間管理職以上の使用人や支配人レベルなら、
けして犯さないミスをするようになった。
これでは、一流企業の出世争いに残った今の40代あたりの連中は、
無能故に生き残ったと言いたくもなる。
50代以上の連中が使用人支配人だった頃は、まだここまでのミスジャッジはなかったと思う。
個人的見解。
企業は多彩な人材を採用するが、生き残るのは同じような志向の能力の持ち主で、
第一には組織運営に必要な統率力がすぐに思い浮かぶ。ほとんどの会社は、
これしか求めていないのではないかという。
ただ、現状の組織能力を最大限発揮するための統率力は、けして外界や未来に向けての戦闘力には
ならないという。
といっても、社内の競争で、蠱道のごとく、毒虫が共食いしあい、毒の強い人間だけが生き残ってる感が
あり、統率力を求めても、強い組織になっていくわけがない。
大きな組織も小さな組織も、創業から太平の時代になり、守りの時代が続くと、このようにして弱体していく。
歴史は、だいたいこのパターン。
といっても、江戸幕府というのは、転覆するほどの徳の無い幕府だったのかは、
どこを検証すべきか、考える必要があると思う。
政府の要人や大企業が、現代でも民草を裏切る悪魔的悪事を働いたと、
陰謀論やオカルトをはじめ、動画サイトやブログ等で、吹聴している方たちが見受けられる。
そういった記事は多くの人が読んだり観たりしているようで、共感の意を示す、いいねなどが多数
ついている。
また、そういう記事をかく方たちは、よく民草の権利などを主張している正義漢のような感じだし
人権にも言及しているようなところもある。
だが、そういった悪事をバラすという行為は、確たる証拠もありやナシやを問わず、
また事実であろうが嘘八百であろうが、間違いなく業務妨害や名誉毀損という法律違反、
犯罪行為である。
世の中には、いくつかの法則があるが、その一つに、
バチを自ら当てに行くと犯罪やテロになる、というのもある。
これは言い換えると、自力救済の禁止と学問的には現代社会の原則となっている。
人の悪事は、神や国に裁きをお願いなどをすべきというのである。
さて、そういうことができる国というのが必要になってくる。
そういう機能が正常に作動するためには、官僚を始めとした公務員は、
原理原則通りに仕事をしなくてはならない。
文書を適正に管理したり、書式や手順が間違っていない、主権者からの
届出、申請などは、必ず決まりどおりにしなくてはならない、などである。
こういったことができるなら、我々は国を通して理想の社会を目指すことができる。
裏を返せば、このようなことができる時代や政府を、わざわざ代えたり、
転覆する大義が無い。
江戸幕府は、どうだったのだろう…。
江戸幕府を倒すとき、こういった時に、優秀な人間ほど邪魔で邪魔で
仕方がない連中がいて、暗殺が流行ったりしたが、
大義もなく、倒幕した挙げ句、優秀な人材が大量に無駄に死んだとしたら
二度と、そのような歴史的イベントは起きてほしくないなと、強く、
思う。
上の階級も、民草も、今生きる人間たちはよくよく考えてもらいたいものだ。

昔の日本には 油売りという 行商人がいたそうだ。

以前は、美濃の梟雄 斉藤道三さんも、 この油売りから身を興し という人だったと言われていた。
その当時、 油はマスで量ったりして売るわけだが、 ちょろまかす小売商がいたため、
信用を得るために、 油売りたちは、 芸を磨いたというのは 事実らしい…。
道三は 実際に正直かどうかは別として 信用を得るために芸を磨いた者が
芸に溺れて 支配層としての役割を こなせなくなった 主人を追い払うという 図式は
皮肉なものと 昔の人は 感じただろう…。
実体験として思うのは、 正直に生きていないと、 もうろくした時に
家で寝るにも寝れず びくびくして生活しなくてはならなくなる。
高齢者になったときには、 若い頃の 生き方が大いに 情緒に左右することを
覚えておいたほうがいい。
なので 実際に正直でいないと 芸など糞の役にもたたないが、
当面の商売としては 芸は身を助けることになる。
学芸の 芸というのは、 昔の考えから言うと 今の学校で習う学問で 会計も含まれる。
さて… 油売りの話は 昔の話ではあるが、 今も油売りに相当する業種もあるし、
ちょろまかす ということにかけては、 劣化した日本 という話が 事実として現代社会に浸透しているなら
私達も 注意していなくてはならない。
最も安い と いいつつ 商人は どこかで必ずツケを回収していく。
今かもしれないし、 将来かもしれない。
そして不当不正な ツケの回収なら 私達は なにをすべきだろうか。
私達庶民は お上に訴える とか 厳罰や指導を求める ことも 先生方にお願いしてできるだろう。
だが、 一呼吸おいて 考えてみたい。
こういうやり方は 治安強化であり 経済を盛んにさせる行為とは逆である。
公正な社会で かつ 経済を盛んにさせることは できないだろうか…。
コンビニで 物をよく買う人に 私達は、 もっと安い店があるだろうに と思いがちだが、
もっと安い店に いくくらいなら 近くて便利な店で 速攻で買うぶん、
時間も手間も稼げる。
話は跳んだようだが、 実は このことを頭に入れて 次のことを読んで
どうしたら 先の答えがだせるか 各自考えてほしい。
まず 先生方に 手はずを整えてもらい 成敗をお願いするよりも、
わたしたちが、事実はどうなのかを知ることから始めれば良い。
油売りが例ならば、 毎日の取引の中で
1何処で買ったか
2量はどのくらいか
3以前に買ったときと今買ったときの差し引き残高
4値段はいくらだったか
現代は表計算ソフトがあるので、 これを記録することで
しっかりと判断材料を得ることができるだろう。
新たな営業所の支配人に就任したら まずこれをやればいい。
 

 

今の業界の営業に 契約をとってくると その契約が継続される限り

 

手数料が入ってくるというものがある。

 

いわゆる これは権利収入というもの。

 

それは 土地をえれば 延々と果実を得られるのにも似ている。

 

昔の王朝も 功ある民を取り立てて この果実を得られる 権利を与えたんだと思う。

 

この権利収入を得るには 功をあげるわけだが、 一定の権利を得てくると

 

果実を得るための 管理や保存の業務には手が回らなくなる。

 

そういうわけで、 権利収入を得ている人には 従者という 今でいう従業員が必要になる。

 

権利を与えている その業界の王様も より天下(業界)や国(会社)のパイを大きくするために

 

権利収入を得ている諸侯に さらに下位の権利収入を得させる人を抱えることを許す。

 

そして天下や国には 収入の元手になる土地や民草の数は ある程度限られている。

 

後から生れてきた若者は 上の階層の権利収入を得る立場になるは愚か、

 

下位の権利収入さえも得られず 実力があっても、 従者になるしかなくなってくる。

 

悪い諸侯の場合には、 管理保存業務ではなく、 契約を結ぶなどの 開発行為さえも

 

従者に行わせ、 新たな権利収入を ガメていくことになる。

 

この不満にメスを入れるのなら、 王様は 功あるものは之を与え 功なきものからは之を奪う という

 

仕組みを徹底させることだろう。

 

天下の中で 一歩も二歩も抜きんでることができる。

 

寡占状態だった周は 市場からの支持を失っていったことが ことの始りだろう。

 

なぜ このことを書こうと思ったのか。

 

日本最大の集金システムが 非難を一層 あびはじめたことは こういうこともあるんだろうなと。

 

NHKに大義が無いんじゃなく その集金システムが大義を失い始めたんだと思う。

ブラック企業にとってのガン細胞である、ブラックな人材。

 

ただ、 私の思うに、 この手の社員は 適正に評価すれば、普通に戦力でい続けると思う。

 

それができるのが、普通の会社。

 

話をまとめるために、 物語風に書くことにしよう。

 

 

あるブラック企業で 働くA君は 入社三年目で 毎日 他の社員と同じように働いていた 外回りのルートセールスマンであった。

 

彼は 入社一年目こそ 目の色を変えて働いていたが、二年目で 暇そうにしているので、 上司は どんどん仕事を増やしていった。

 

三年目になった今では、 他の人の5割ましくらいの仕事の量を与えていたが、 そこのルートからの売上は

 

過去の実績と ほとんど変わらなかったため、 賃金をそれほど上げることなく、 上司は 成果を出すように言い続けた。

 

A君は 毎日 報告し 上司に連絡相談を欠かさないようにしていたが、 標準社員としか 言いようがなかった。

 

5年経った頃 A君の担当顧客は 相当増やされていたが、 給料はスズメの涙ほどしか上がらなかった。

 

A君は ある日辞めた。

 

そのルートの後釜は、 隣接のルート社員と 新入社員に与えられた。

 

だが、 すぐに問題が発生する。

 

後任の携帯には 次々に 顧客からの要望が入る。 売り上げに直接つながらない 商品の質問やら、

 

在庫管理の調整依頼とうである。

 

後釜の社員は もともとの自分の顧客からは 一日に数本の電話で済んでいたのが、 一気に五倍十倍と増える。

 

さらに、 数か月たったころ、 上司に顧客から クレームが何件も入ってくる。

 

以前の担当は 数日おきに 訪問して 打合せ等をしていて サービスの合理化など 原価の節約や売り上げの増大に

 

貢献したのに、 新しい担当は、一ヵ月に一度も来ない などのクレームである。

 

最初は 平謝りの上司だったが、 そのうち A君が本来の仕事をしていなかったために

 

勝手な行動等で 顧客とわが社に損害を与えた社員という ストーリーを仕立て上げ、

 

顧客に 本来のルートセールスの仕事は もっとスマートなことをするものと 言い含め

 

売上を激減させながら、

 

一方で 後釜の社員には A君が これだけの分量をこなしていたんだから もっと出来るよな と

 

賃金を上げない口実を 大事にして

 

一層のブラックに 磨きをかけたという。

 

 

A君に 適正な賃金を与えて 辞める口実を与えなければ 企業の評判を損なうことなく、 無事だったはず。

 

だが、 ブラック企業は、 そうは考えない。

以前から 日本の競争力を高めるというお題目のもとに 法人税の引き下げが議論されてきた。

 

法人税を下げれば、 外国の企業が 日本に拠点を置いてくれるとかいう。

 

だが 日本に拠点を置くと 法人にとって最大のデメリットは、 厚生年金だろう。

 

厚生年金は 企業と従業員が折半するので 企業には莫大な負担になる。

 

日本に拠点を置きたくない 強い動機になりえる。

 

日本は基礎年金というか 企業の従業員でなくても 国民年金に加入する。

 

どうも 以前から 国民年金が 一番 割が良いということで もらいは それだけでは

 

少ないんだろうが、 加入して 損ということは 無いというのは 間違いがなさそうだ。

 

個人的に思うのは

 

厚生年金というシステムを 廃止したら どうなんだろうと。

 

国民年金も 1人で 三倍掛けくらいできたら どうなんだろうと。

 

今まで 厚生年金で積み立ててきた分は 有無を言わせず 二倍掛けから三倍掛けに換算して

 

国民年金だけしか 積んでこなかった人も、 遡って 三倍掛けまで できるようにしたらどうなんだろうと。

 

一倍掛けを 満期でかけて、 毎月7万弱を保証し 二倍掛けで 毎月14万 三倍掛けで 毎月21万。

 

企業に入社するメリットは 若者にとっては少なくなるだろうが…。

 

そもそも、 市場は 若者向けをターゲットにしたものも 多いので

 

市場を 若者自身が開拓してくれた方が 社会のためだと思うので 企業は

 

人口減少時代なので 常識を逆にして 若者からリストラすればいい。

 

個人的に思うことなので あしからず。

今日、テレビを観ていて、死刑についての意見で、ピンとくるものに出会ったので、

 

考えをまとめるために ブログを書く。

 

刑罰というのは、 国家が 被害者の代わりに 当然の報いとして 与えるもの。

 

また、 加害者に刑罰を与えることで、 加害者自身の再犯と 罪に対する刑罰を

 

公のかたちで 判決を下すことで 社会一般に 同様の犯罪を 起こさせない 警告の意味もある。

 

目には目を という 考え方もあるが、 仮に 社会が そのように考えて実行しているとするならば、

 

腕をへし折った傷害罪なら 加害者に骨折の刑を与えるだろうが、 そうはならない。

 

殺人犯には 死刑しかないとも 考えられなくもない。

 

情状酌量というのもあり、 殺された人の 事情は置き去りにされたまま 情状酌量される加害者に対して

 

納得いかないことも あるだろう。

 

よく 報道で 殺人事件をやってると こんな野郎は 「死んだほうがましだ」 と思ってしまう。

 

そして 今日 ピンときたテレビドラマの意見は

 

殺人犯も 殺した人を 「死んだほうがましだ」 とか 「死んで当然」 と考えていたという。

 

死刑を認めると 私たち自身である社会も 殺人犯と まったく変わらない。

 

応報的な大義が死刑には無いのではないだろうか。

 

予防的に犯人に対してくだす意味も、死刑にしたら無いので、

 

そうなると、 死刑の意義は 社会に対する警告という 意味しかなくなる。

 

警告されている私たちとしては 見くびられたもんだなと 私自身は、こうなってくると思うのだが…。

人生を切り開いた後に話す人の言葉は重いものがあります。

 

一方

 

人生を切り開くために話す人の言葉は鋭いものがあります。

 

後者は 刀筆の吏 とも 揶揄されることもありますので、

 

主権者としては 誰かを選ぶときには 人生を切り開いた人 つまり

 

コトバに重みを感じる人を 絶対に選ぶべきで 人生を切り開くのに必死の人を選んではいけません。

 

コトバの軽い人は 実際には 人生を自分自身で切りひらいた経験に乏しいことを意味しているのかも

 

しれません。

 

津波が 8年前に東日本を襲いました。

 

ときおり耳にする 二度とこのようなことの無いよう というコトバは 非情に重いものを感じます。

 

映像で見る限り 戦場の爪痕のような惨状ですね。

 

津波は 二度と起こさないなどということは 不可能ですので

 

私たちにできることは 戦争をしないこと 戦争に巻き込まれないようにすることでしょう。

 

この8年間 日本は 戦争ができる国に なってしまいましたね。 事実上。

 

そのほかに 誰かを選ぶときの 留意点ですが

 

普通の人ならば 嫌われると 動揺するものです。

 

それが 他の人との共感していくための 素材をもっていることを意味すると思います。

 

仮に 嫌われることが常態化し 嫌われることのダメージが少ない人を 選ぶのも

 

愚の骨頂と言えます。

 

皆さんは ご存じないと思いますが、 選んでいけない人というのは 現実生活での

 

わたし自身なんですね。

 

社会のリーダーに 仮に上記のようなことを 思い当たる人物がいるのなら、

 

一度 正しく改めて みては いかがでしょう。

「あの連中は うちの客になることなんてありっこないんだから 粗末な品を出しとけ」

 

「あの人は 仲間がいない人。 だから 嫌がらせをしてもいいんだよ」

 

会社、 仲間内の飲み会、 クラス。 こういったことを聞いたことがありますよね。

 

特に 21世紀に入ってから 際立ってきました。

 

害を受けた場合 ひょっとしたら人間というものは その報いを与えても

 

バチが当たらないこともあるかもしれません。

 

しかし 上の例の 被害者になる方たちは セリフの通りなら 利害関係から外れた方たちです。

 

人が害を被るというのは いくつかパターンがあります。

 

自然災害による害

 

法律にもとづくサンクション

 

道徳的な社会的制裁

 

また宗教的な精神的苦痛など。

 

悪いことをすれば たいてい報いはあるものですが、 世の中の報いを 個人がコントロールすることは

 

なかなか難しいものです。

 

これを債権債務関係にたとえると なかなか 面白いのですが、

 

私自身振り返ってみると 自力救済を試みると たいてい 足が出ていて やりすぎの部分があったり

 

それがために 話をもっと困難なものにしています。

 

こういったことを なぜ ブログで 訴えているのか。

 

私自身の反省や 社会の人に 少しでも気づいてもらいたいという話だけではないのです。

 

今までも いくつか 同様の話をしてきました。

 

 

 

今 民主主義で 一般市民が 自由を謳歌していて 世の中を変える 自身の人生を変える機会を得ています。

 

もともと 恵まれた地位にある人たちや 民主主義の結果、 恩恵を受けた人たちは

 

この 流動的な社会を 望むのでしょうか。

 

富と名声を得た人たちは どの時代でも 大義名分というものを 大切にし

 

法律にのっとり とか 道義的な理由 とか そういったものを求めています。

 

 

最初に示した 民主主義社会の今の 民くさ は 利害関係に入っていない人を害していること甚だしい。

 

これは じゅうぶん 世の中を変える大義になりえるのではないでしょうか。

最近では 民法や 憲法など ファンダメンタルな 基幹的なものにまで

 

現実との乖離を訴え 現実を修正するよりも 法律を修正するという流れになってきています。

 

最近 気が付いた 現実とのギャップが激しい ある民法について お話ししようと思います。

 

心裡留保 というものです。

 

実際に表明した意思表示と 内心の真意と 裏腹の場合 民法では 意思表示を優先します。

 

つまり 嘘をついて買うつもりも無いのに 買うといって契約した場合 その契約は有効になります。

 

日本では よく 空気を読め という言葉があり 先生などの偉い人まで そのように

 

指導します。

 

これは 建前と本音ともいわれます。 建前は表示 本音は内心 とした場合、

 

日本では 内心を優先せよ と 子供のころから 実は教えているわけです。

 

なので 心裡留保という問題は 本来 原則有効 であるところ、 逆になるわけです。

 

まず 日本では こうした 契約をする際に リスクがあるということになります。

 

また 内心を読み取ることが 重要となるため 内心の自由を侵す必要が

 

日本の実情では 契約履行のために 必要になるわけです。

 

内心の自由 や 表現の自由 というものが 担保されない環境が もともと この国にはあり

 

日本人同士の 生活ならば まだしも この先が 思いやられるという事態なのです。

 

関連した話として もう一つ お話ししましょう。

 

心裡留保というものは 内心よりも言ったことを優先する つまり 言ったことに責任をとらせる

 

という原則があると思われます。

 

これは 内心で どう考えようとも自由であり 仮に表明した場合には 責任をとらせるということでも

 

あります。

 

意思表示や 意思の表明という点では ネットでの言説も 同じではあります。

 

ただ そこには 実際に 自己開示したうえでの表明 の場合と

 

自己開示せずに匿名で表明した場合 があります。

 

後者の場合 仮に法律や情報スキルを使って 個人を特定しても

 

本人が 現実の生活で 正反対の内容を 表明した場合 本来 心裡留保の原則から

 

現実での意思表示を信じ そちらの内容をもとに責任をとらせるべきでしょう。

 

このことは 良いことであれ悪いことであれ 同様と考えられます。

 

将来 日本が この内心の自由を侵し 内心を優先させ 表示ではなく内心をもとに責任をとらせ

 

人を非難し 時には社会的抹殺まで 企ててきた ことを悔やむ日が来ても

 

このような指摘をした私だけは 後世から 免責を受けることになるでしょう。

 

tetsuo shimada

 

 

ストレートに書いていきます。

 

権利として概念化すれば 生来の人が持つ衝動とうを 制御する力を持つと思います。

 

親の懲戒権についてです。

 

権利というものは 濫用してはならないことが前提で 認められたものです。

 

また 子供を保護する大義としての懲戒権とも考えられますので

 

親が 誰よりも優先的に 子供を保護することの権利の裏が、懲戒権が法的に認められることで

 

とれるわけです。

 

子供の教育方針を決めるのは 日本では 戦後 議論、裁判を重ねた結果

 

親 教師 国 の三者が それぞれ 教育を施すこととなっています。

 

仮に 一部の親が 懲戒権を濫用 誤用して 道理をわきまえずに議論していき

 

懲戒権の削除を 民法改正でおこなったとして

 

どのようなことが起きるでしょう。

 

親 教師 国の 勢力均衡が また 崩れるのであって

 

国の力が強くなり 親の つまり 一般市民の力が また そがれるのです。

 

以上