貧しい国で 綱紀粛正をして修身教育をして、 勢い盛んになった国などない。

 

豊かな国は、風紀が乱れやすく、勢いがそがれていく。

 

つまり 修身などは、豊かになった後にやるべきことで、

 

まず礼から始まるというが、 実際のところは、豊かにならなくては、礼などくそくらえという話なのだ。

 

なので、豊かさを享受している今の私たちの世代で、綱紀粛正をしていけばいい。

 

と、いうことを多くの民衆は、思っている節があって、経済よりも長く治安を優先してきた。

 

綱紀粛正というのを、治安強化ということにして、罰をあたえること第一となってきた。

 

おそらく、罰をあたえる人間に、大義がない。 ほとんどの人が風紀が乱れた世界に

 

順応しているにもかかわらず、罰をあたえたがる。

 

なので、綱紀粛正は、治安強化ではなく、豊かになったのなら、礼と法を

 

だれかがわかりやすく、明らかにし、どう体現していけばいいのか具体化し、

 

すべての人が実践していく中で、ようやく、そこから外れた乱すモノを罰する。

 

凪の状態をつくり、乱すものを、矯正する。 その矯正も 区別せず先ず教えてから罰しないと、

 

赤ん坊でさえも罰していいことになる。

 

そういう流れを見込むと、 実体に投資せず、のれんにばかり投資していることも、

 

環境を悪化させ、風紀を乱すもとであると、理解していくだろう。

 

そして、その見込みを、明らかにする・行動を定める・教える・普及する・矯正するという

 

流れにして、ようやく、大人を巻き込んだ大きな流れにしていくことができるだろう。

 

かなり抽象的な話をしたが、

 

なにをするにも、順序と方法があり、それを見つけない限り、デモを闇雲にやっても、

 

のれんに腕押しということになりそうだ。

 

環境問題は、おそらく若者が心配して行動するってのは、正しいと思う。

 

頑張ってほしい。

環境問題を真剣に考えて未来を憂う若者は

 

大人たちから真剣さを疑われている。

 

どこかの国のオジサンがテレビで言っていたことを引用する。

 

「先生に教室のエアコンを切るようにいってくれ」

「登下校は歩きか自転車にしよう」

「電子機器は使わず本を読もう」

「ファーストフードばかりではだめだ、自分で弁当をつくろう」

 

これらは、そういわれてみると確かに なるほど…と思う。

 

だが、大人がつくった環境次第で、子供たちは生活せざるをえない。

 

エアコンは、環境が悪化しているために義務化されたともいえる。

登下校の送り迎えは、治安が悪化しているともいえるし、親の世代にはすでに登下校の環境が

悪かった、つまり勧誘やら変質者や、突然げんこつをしてくるオッサンなどで危険がいっぱいになっていた。

電子機器を使わず本を読みたくても、大人が本を読まなくなったために売れず本屋が近くに無い。

弁当を作れと言われても、お仕着せのユニフォームだけでなく、与えてくるという給食などで作る機会もない。

 

すべて親の世代から原因がはじまっていることが多く、その結果を受け入れざるをえない子供たちに、

 

お前らがこうだからデモなんか説得力ないといっても、かわいそうだなと。

 

生活していくのに、人というのは、こうあらねばならない、こうしていかなければならない そういう

 

修身の教育がされなくなってきてからが おおもとの原因ではないかと私は疑っている。

 

環境問題は、そこから改めていく必要があるかもしれないので、真剣に取り組みたい人は、

 

原因をつきつめていき、文系として原因を探り、改革の道筋を明らかにしていけばいい。

 

若者はデモと並行して、そうやって実践すればいい。

外国の話だと信じたいんだが…

 

かつて私が きいた話では、

 

会社で 邪魔になったからという理由で 席をたった隙にコーヒーに薬を入れるというのを

 

繰り返して

 

精神の調子を狂わせて来ていたところ、

 

非常に芯の強い人だったらしく、 平常の仕事を続けていたので、

 

手をつくして辞めさせるようにしむけ

 

車で体当たりさせてよけた時に 車に手を当てて 後から壊されたと偽証し

 

警察に呼ばれて 大騒ぎして薬物検査を受けさせる算段だったが、 取り乱すこともせず

 

最後は 薬物のせいなのか 死んでしまった 男というのがいるそうだ。

 

いまだに その話をきくと 真実とは思えないのだが、 どこの国にせよ、

 

人心というのは こうまで堕ちているのでしょうかね。

 

彼の汚点を探して いろいろさらしたとしても、 そういう過去があったのなら、

 

どこが恥ずかしいのでしょう。 誰が恥ずかしいのでしょう。

 

わたしに そういう話を伝えた人も 社会の恥の一部なのかもしれませんし、

 

わたしも 平然と暮らしているのも 恥の一部なのかもしれません。

 

ただ、 太古の 真正の書物には 人というのは 許されるべき存在である ということが

 

記されています。 罪を 許さない姿勢の 太古の書物は 偽書だと 原初の宗教ではされていますので。

 

わたしは おおむね 賛成しています。

あらゆる分野の象徴的存在や

 

なんらかの成功をおさめうる力量を見せ始めた人たちは

 

衆の耳目にさらせれている。

 

最近 特に目立つ事象があり 見過ごせないような 社会の損害が発生しているので

 

書いておこうと思うことがある。

 

五輪などで 起きた 任命された著名人が引きずり降ろされる という事件があった。

 

政治家などでも 日本だけでなく 各国で 任命された途端に

 

過去の 汚点 不正 不当な行い 恥ずべき行為 こういったことが

 

蒸し返されて 任命の取り消しや 辞任 ということが 最近では頻繁に起きる。

 

 

私たちは こうしたことが このまま続くのなら

 

来るべき支配層に大義名分を与えて 今からでも

 

衆の将来には 支配層の都合で衆が成長する機会を奪うこと および

 

衆の罪には連座制を復活させること といった 不利益を定めさせるよう誘導することができる。

 

大義名分を与え 利にさとい支配層に 利益誘導するようにしていけば

 

私たちが 暗黙の了解で連携していけば そうしたことは可能である。

 

だが、私は こういったことは 強い自制をしなくてはならないと考えている。

 

というのは、 自身で裁かず 罪に問うといっても 必ず代償はあることと、

 

こうした大義名分をあたえ実施させると、 現状では 善良な人もトバッチリを受けるということ。

 

なので、 今は 道理を明らかにして こうしたことをすることは控える。

 

ただ、国民の統合の象徴が 今回問題にしている 蒸し返しによって

 

過去の行いに対して 一度 バチを適量うけたのに 二度三度と何度もうけるようなことになるのなら、

 

とばっちりではなく 統合の象徴に対して行っている衆の行いであるので、

 

しっかり 私は そういう流れをつくっていく。

 

 

こうした 罪に対して 比例しない 罰の与え方は、

 

多くの衆にとっては すっきりするだろうが

 

ほとんどの場合、 罰を受けている方たちは、 自制しているが、

 

いつか 営業妨害やら 名誉棄損 ということで 裁判を起こす面白い人が出ても不思議ではない。

 

当人の知りえないところで 世間では 多くの人が、 過去の汚点をさらされているが、

 

なぜ 当人の知りえないところで そうするかというのは、

 

そうした刑法にふれる 犯罪を行っていることを自覚しているので

 

そうしたことを 周囲が逆に おとしめる口実を常にえているのである。

 

なので 気に食わないということになったら、 彼らをいつでも 告訴してよいともいえる。

私は学生時代 おちこぼれでしたので、 学校の先生から 一つのことを習い

 

何度も何度も レポートを提出し 科学的思考方法の 基本的な型の一つを覚えました。

 

その型を繰り返し習った以外のことは、 学生時代ほとんど ほかの方法論は教わりませんでした。

 

それは

 

仮説をたて 実験や調査方法を整理し 実験や調査をし 結果を出し 考察し 結論を出す。

 

この一連の流れが 科学的思考方法の 基本的な初歩の一つの型です。

 

ただ 学生時代は先生に下駄をはかしてもらっているので、

 

この方法論を覚えたり、 方法論を伝えて 高等教育を受けていない人に 実践してもらっても、

 

何も役に立ちません。

 

仮説をたて という 最初でつまづくからです。

 

わたしは中年以降になって 大学と同程度の学位を取得しましたが、

 

その時は 独学でしたので、 高等教育を受けていない人が、

 

いかにしたら 型を活かせる 最初の呼吸ができるかを 知ることができました。

 

学問というものは

 

たいてい

 

教科書を読むことから始めると思いますが、

 

そこに書かれていることは

 

原則 および 原則の例外

 

これが書かれています。 まずは、この二つをしっかりと覚えることから始めます。

 

原則と原則の例外 を 類推して 発展させたり 新たな発見をしていくのが、

 

博学な かたたちで 学ぶ人が 頭を下げるべき人たちですが、

 

この人たちが どのように類推したのかを たくさん見ていくことが次の段階になります。

 

原則 および 原則の例外 そして 博学の士たちの類推を多く知ること。

 

教科書を読んで ある程度覚えた後は、 論文をたくさん読めばよいでしょう。

 

そうすることで、 仮説を 自らたてたり、 自分の能力の範囲で 類推を行うことができるようになります。

 

すると、 先ほど書いた

 

一つの型 

 

仮説設定 実験手順設定 実験実施 結果整理 考察 結論

 

ということができるようになります。

 

一つの分野で このことを繰り返し行っていると、

 

他の分野での視野も拡がりますので、

 

高等教育を受けた人たちと 同じ教養ある人間として 社会で 将来は一目置かれる人物となることでしょう。

 

高等教育を受ける人たちは 恵まれていますので、

 

ここに書いてあることを その人たちが読めば さらなるアドバンテージになるかもしれませんが、

 

受ける機会に恵まれない人も 独学で 実力を発揮する人になるはずです。

 

子供たちに 若者に 期待します。  生涯学習ということから 中年からでも 遅くはないと思います。

 

 

人には職分や本分というものがあり、

 

脚や指が、目や口のように、世の行く末を見通し、世間に物を申すことはゆるされないという。

 

脚や指の役割をしている人は、普通なら、そのような能力もないので、なおさら、

 

切り落とされる傾向にある。

 

そのような事態があるのなら、

 

社会が機能していない証拠にもなりえるが、

 

一つ指摘しておきたいのは、脚や指を身体全体が、その部分に意識を集中させていれば、

 

当然のこととして、彼らの意思には関係なく、本分を守るどころではなくなるし、

 

そのほかにも、脚や指の本分を守っていたとしても、その見返りとして、通常のご利益を与えない

 

つまり栄養をいきわたらせないでいることが、永年続くのなら、生存本能から

 

必死で脚や指も、目や口のような働きを差し出がましいことと知りながら、行うようになる。

 

ご利益というのは、カネか権威か家族を与えることである。

 

そして与える側には誠意がなければ内容も相手は満足しない。

 

職分を守らせるのは、このような考えを身体全体、つまり社会全体が共有していれば簡単なこと。

 

指や脚に意識を集中させないことと、働きに報いること。

 

孟子や荀子といった先哲が、聖王ならば天下を数年で一統でくるだろうと

 

予言した。

 

これは、現代なら皆が皆、大ぼら吹きだったなと考えるだろう。

 

だが、両者とも現代の政治体制のレールを敷いてきた人たちの一人で、

 

西洋近代哲学者も、おそらく、この方たちの本をカンニングして、

 

思想を展開したのではないかという気もするほど、先見の明があるので、

 

この大法螺を個人的な見解をもとに検討してみたいと思う。

 

検討の仕方は、単に、ならどうやって一統できるかを想像し思いめぐらせるだけという。

 

まず、

 

一国の宰相以上の存在ならば、相手との外交交渉ができるだろう。

 

この外交交渉は、弁がたつというほかに、どの国に行っても相手にされる、魅力が必要になる。

 

魅力を高めるというのは、普段から周囲に配慮した生活を続けていなくてはならないので、

 

十年程度の修行や改心では、とても外交交渉できる魅力を身に着けることはできない。

 

また、そうした周囲への配慮というのは、思い描いたことを形に表象させることのできる能力でもあるので、

 

趣味などをさせると、とことん、トップレベルに近づくような人間が、魅力をつけることが

 

国運をまかせるには、必要となる。

 

なので、だれしもが、魅力をつける努力をすれば、外交交渉ができるというものでもない。

 

最上の魅力を高められる人を見つけ出し、生活を礼儀にかなったものにさせて教育する。・・・一

 

これは、三年五年でできるものではないので、前段階で聖王の条件ということになる。

 

また魅力があるからといって、相手を説得することはできないので筋道をたてた考え方ができ、

 

どのような問題にあたっても、答えを導き出せる法に通じた人間であることが必要になる。

 

それを身に着ければ、書士弁士と段階をふんで上がっていき、外交交渉ができる弁術の士という

 

外交官になる。

 

外交官の中でも最上の弁術の士といえるほど、法と筋道に通じた人材に育てる。・・・二

 

これも、三年五年でできるものではないので、前段階での聖王の条件ということになる。

 

魅力ある弁術の士とも呼べる者が聖王、一国の宰相以上の存在にならなくてはならない。・・・三

 

多くの国民の中から、こういった逸材を育て上げて一人でも、聖王と呼べるにふさわしい人が

 

出現するには、

 

すくなくとも、教育に力を入れることができる、一定の豊かさが求められる。

 

国に教育に力を入れる程度の豊かさがある。・・・四

 

これも前段階の条件。

 

貧すれば鈍す。

 

食うに困るような国、犯罪の多発する国、上下が逆転し賢人をさげずむ国。

 

こういう国では天下一統に乗り出すことはできない。

 

この先、論をいったん締めくくった際、民の愛国心について、いっさい考慮していないということを

 

あらかじめ断っておく。その考慮は、いったん論をしめくくった後に、まわすので、あしからず。

 

さて、こういうある程度豊かな国に、聖王が宰相以上になったときに、やるべきことは、

 

さらに徹底してさらに国を豊かにすること。

 

それは、よその国が、戦争などで金や人、物を失っているなら、我が国は、

 

自分の国で金や人、物を流通させ、雪だるま式に膨らましていく。・・・五

 

国が豊かになると、風紀が乱れ、綱紀粛正して国の魅力を高めて、また豊かになるという

 

長いサイクルでの雪だるまでは、とても三年五年は間に合わない。

 

なので、そのサイクルも重要だが、すべてにおいて、優先順序をはっきりさせることが

 

国内での雪だるま式の豊かさの膨張に必要となると思う。

 

国の事業は、食う寝る着るが基本の第一優先順位。

 

そして、持続可能な成長にするための事業が第二優先順位。

 

遊びのための事業を優先しすぎてはならない。

 

なので、農業林業漁業を犠牲にして、電力事業を優先させることはしない。

 

また、優先順位は、人にも及ぶ。

 

まずは、長幼の序。賢愚の序。上司部下の序。この三つも優先順位をつける。

 

さらに別途、生存権に関しては、子供優先、例外者優先(皇族貴族・障碍者・マイノリティ)、最後に普通の健常者。

 

国を効果的に成長させる判断の基礎となる優先順位をつける。・・・六

 

こうした優先順位をつけるためには、やはり、それを説得させる聖王の魅力と弁術が必要となる。

 

さて、それができるためには、相当の多くの共感を全国民に抱いている必要があるので、

 

多くの文学にふれている教養が必要となるだろう。

 

また、豊かになると同時に、全世界から聖王の治める国が治安が安定し、生活が楽しそうだと

 

思ってもらわないと、天下一統ののちも続かないので、やはり、相当の文学文芸に通じた人でなくては

 

ならない。

 

そのためにも、漫画などで、世界をリードする日本は、ある程度見込みがある。

 

漫画の世界観にあこがれて訪日する外国人は多い。

 

そういった豊かな国、魅力ある国にしたうえで、外交交渉を行っていく。

 

まず、ほとんどの国には、地方政府というものがある。

 

地方の有力者と地方政府に賄賂や開発投資支援を行い我が国と地域の企業と人が潤うようにする。・・・七

 

また、潤わせることと同時に、我が国の食文化や芸能を楽しんでいただくように文化を輸出する。・・・八

 

この二つを行う。それは同時進行して、あらゆる国で展開する。そして多くの国の地方政府の

 

中枢と人心を我が国の色に染めていく。

 

地方政府の兵権や行政権を実質上手に入れることができたら、気が熟した証。

 

中央政府の議員選挙の時に、その地方からの議員を我が国のシンパを送り出して、中央政府も浸食する。

 

しかる後に中央政府と外交交渉をして、地方政府にしたことと同じように、賄賂開発投資支援を行い

 

親密度を最大限まであげたあとに、被支配国になるような条約を締結する。

 

この条約交渉は、さすがに、強大国であればあるほど、成功率が低いため、

 

被支配条約をもちかける国は、我が国よりも明らかに弱小な国々から始めていく。

 

いくつか弱小国との被支配条約が積み重なっていけば、我が国の威光は大きくなっているので、

 

中堅国にも条約締結を働きかけることができる。

 

そうやってまずは、一統の前段階の覇者になっていく。

 

 

さて、これを妄想空想として、かたづけていいのだろうか。

 

荀子孟子の大言壮語を、実現可能か、考えていたら、なぜか心当たりのある、実際にやっているであろう

 

国のやり方が見えてしまったという。

 

 

これらは、あくまで覇者となるまでだろう。というのも、覇者はすでに世界には存在するからだ。

 

また、国には愛国心を持つ国民があり、我が国とは違い、どの国も国のために命を捨てるほど愛してやまない

 

そういう国民がいまだ多くいる。

 

彼らを無視したこうしたやり方では、天下一統は無理があるので、いずれまた、考えておく。

 

 

日本人がケンカンになってしまったのには、理由がある。

 

相手が意識して、こちらの得意とする物事を、すべて台無しにしていくからだ。

 

そんなことはない、という人は、もういないだろう。

 

言葉として誰も説明できないんで、なんとなく感じていることを口にするなという

 

日本人の美徳が、隣国の我が国に対する破壊行為にストップをかけることができない状態が続く。

 

また、言葉に説明できないんで、ただただ、嫌いになるしかなく、暴言をはく。

 

それで、社会生活にも支障をきたしてしまう。

 

 

 

隣国は、成長のためには、競争意識をもって、相手を凌ごうとする。

 

この一つの視点から、みなが、あぁ、なら、今までのあれも、そういう理由であったのだと説明できる

 

ようになるだろう。

 

人は成長するときに、相対的な評価を目安にするか、絶対的な評価を目安にするかで、

 

行動が変わってくる。

 

テストで昨日より今日、今日より明日と、自分の点数を伸ばそうとするのが、絶対的評価を目安にする

 

という。

 

テストでアイツよりも高い点をとろう、そういうふうに周囲を意識するのが、相対的評価を目安にする

 

という。

 

相対的評価には、最大の欠点がある。

 

それは、必ずしも高い点をとる必要がないということ。

 

つまり、相手の邪魔をすれば、相対的評価を目安にした目標は達成できることになる。

 

こちらとしては、そういう隣国に対しては、ここまでわかっていれば、とるべき対応も自然と出てくるだろう。

 

まず、国内企業を中心に、日本での評価を、絶対的な評価で、消費者、マスコミ、産業界、政府が

 

判断することにする。

 

これは、芸能にいたるまで、そういった目線が必要で、他者との競争ではなく、

 

自分を高め、切磋琢磨し、絶対的な価値を世に認めてもらうような仕組みにしたほうがいい。

 

なので、選挙も、そこに至るまでの過程やら何やらを、改めて見直したほうがいい。

 

そしてもう一つ。

 

この絶対的評価は、おそらく日本のガラパゴス化を促進するという弊害もありえるので、

 

国際基準を日本にあわせてもらおうという野心を、いったん棄てて、

 

かつ、文化的経済的覇者の定める国際基準に従うことで、得点を高めていくことは正しいと思う。

 

だが、自国にあわせた修正を行えるよう、基準の理解と、自国の特性の理解を、

 

論理的にすすめることができるよう、人文系学部では、必ず、必修単位に論理学または、

 

情報分析に必要な、プログラミングを学ぶようにするなどしたほうがいい。

 

ただ、僭越なので、文系出身者や学部生が、自分で学べばいいのだという。

 

このことで、相手が相対的な評価で一喜一憂している間に、こちらは、コツコツ努力を重ね、

 

百年二百年のちには、いつまでたっても、毎回、我が国の真似しかできない三流国家という

 

印象を、世界に知らしめることになる。

世の中を良くしていこう。

 

そういう話を、仏教の僧侶や、信徒が口にするとしたら、

 

間違いなく、 あなたは騙されようとしている。

 

仏教の神髄を理解している人は、

 

まちがいなく、個人の完成を目指す、個人主義者です。

 

つまり、独尊であり、他者をとことん、尊重します。

 

独尊の境地に導くために、教えるのですから、仲間となにかをやっていこうとか、

 

世の中をよくする活動を、いっしょにしようなどという矛盾した行為は、

 

自分自身の独尊の境地に、縛りをかけるので、必ず、本音のはけ口を隠していますし、

 

だましているのです。

 

なぜでしょうね。

 

要するに、利を得るためです。 権力、金力、人を支配する頭数。

 

これが欲しいわけです。

 

出家をするという発想自体、個人、家、国とつながっている社会ですので、

 

出家した時点で、社会をよくするという目的はあきらめているんです。

 

では、なにをよくしたいか。

 

仏教は、改めて書きますが、個人、自分をどうするかという宗教です。

 

なので、かつての統治者は、仏教の僧侶や信徒が、おごって、衆をたのんで、

 

政治に口出しするという愚行をするので、徹底的に弾圧するなどしました。

 

しかし、バチなど当たらないんです。 当然の報いなのですから。

 

逆に、政治に口出しした仏教徒を否定した為政者を、仏教の僧侶や信徒が滅ぼしたら

 

仏教全体が、大義名分が破綻して、衰えていくんです。

 

なので、この先も、仏教の信徒、僧侶が、会社や政治に、衆をはびこらせ、

 

なんらかの操作や介入をしていくのなら、

 

江戸時代のように、政治力の支配下におくか、そのような宗派は、滅ぼしたほうがいいのです。

 

道理では、そうなりますんで、のさばらせるまま、のさばらせば、世の中が末世になります。

 

なので、まずは、みなさんが、仏教を信じるのは自由ですが、仏教やお寺を使って、

 

社会生活との関連を持たせるような、一切の行為をやめることが大事です。

 

具体的には、先祖代々の寺以外の寺から勧誘を受けても、行かない、

 

僧侶との相談は、個人的な内面の悩みか、法要などの仏事の相談にとどめる。

 

法整備なども対応していかないと、世の中、乱世まっしぐらのくらい、

 

お寺関係者は、世の中よくしようとしてる宗派いますね。

 

エリートの方たちに一任しますよ。

政治家さんの理想・国民生活・国家財政・企業運営。

 

この理想とこれらのソロバンが一致するような人に委任したい。

 

以上