鍛冶屋線の廃線跡を歩く(前編)鍛冶屋駅跡 | 鉄道で行く旅

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鍛冶屋(多可町)に着きました。バス停が駅跡の場所でした。

キハ30が鍛冶屋駅の跡地に保存されていました。

 

国鉄時代の1987年に野村駅(現在の西脇市駅)で撮影した鍛冶屋線のキハ30です。

 

鍛冶屋駅跡は多可町の鍛冶屋線記念館になっていました。

 

国鉄時代に購入した鍛冶屋駅と野村駅(現在の西脇市駅)の入場券です。

上側の入場券を買った1986年(昭和61)年4月6日が、ただ一度だけの鍛冶屋駅までの乗車でした。

 

プラットホーム跡に鍛冶屋駅と中村町駅の駅名標が保存されていました。

 

プラットホーム跡です。キハ30形(片運転台の「キハ35系(通称)」の一種で両運転台のタイプがキハ30形です)は、あまり好きな車両ではなかったのですが、こういうところで見ると懐かしいです。

 

多可町の鍛冶屋線記念館を撮影していたら、多可町のコミュニティバス(運行は神姫グリーンバスが受託)の回送車が通過していきました。

このバスは、神姫グリーンバスに乗り遅れたときに乗車する予定だったバスです。この時間は、鍛冶屋までは行きませんが日赤病院かアスパル(多可町健康福祉センター)まで乗車できるので、次善策として計画に入れていた路線です。(西脇からアスパルまでの運賃は多可町民が300円で外来者は590円になっていました)

私は、このバスの愛称を兵庫県花の「のぎくバス」だと誤って覚えていたのですが、実車を見たところ「のぎくバス」でした。この「のぎく」は多可町(広域の町名)に統合される前の中町の「町花」ということです。

『野菊の如き君なりき』

 

鍛冶屋駅を後にして13,2kmの廃線跡へと進んでいきます。迂回しなければばらないところがあるため実際には15kmぐらいを歩くことになります。

 

多可町内の鍛冶屋線廃線跡の一部は「歩っ歩の道」という名の遊歩道になっています。

 

実際に使われていた信号ボックスが保存されていました。

 

今は本社が豊中市に移転し、社名も「(株)てつでん」に変わっている「鉄道電機産業(株)」製の信号ボックスでした。

同社の昔の所在地が、大阪市内の町名変更前の大阪市西淀川区千舟東1丁目58番地になっていました。たまたま私の出身地ですので場所が分かるのですが、この旧所在地はJR御幣島駅(歌島橋交差点)の西側にある「サイクルコンビニてるてる歌島橋本店」の西隣あたりの駐車場になっているところだと思います。

 

「鉄道電機産業(現在の「てつでん」)」製の信号ボックスと紅葉です。

 

まだ、鍛冶屋駅から300mほど歩いただけのところですが、早くも、ここで加古川駅のコンビニで買っておいた昼食をとることにしました。

『う~ん、あと12,9kmもあるのか!』

(つづく)