2024年9月17日に、大阪の中津と「うめきた」を歩きました。
OsakaMetro御堂筋線の中津駅に着いたところです。
豊中の萩の寺として有名な東光院の移転前の跡地です。現在は「ローソン ドラッグミック中津一丁目店」になっています。
元々の東光院は、豊崎の地(現・大阪市北区中津、能勢街道・西国街道分岐点)にあったのですが、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の小林一三に、宅地開発されつつある宝塚線沿いに移転して町の核となってくれるように頼まれたことから、1914年(大正3年)に別院があった現在地(大阪府豊中市南桜塚1丁目12-7)に移転しています。
「元・萩之橋」の石碑がある場所は、現在は豊中市に移転した東光院の山門前に架けられていた橋の跡です。境内の萩が美しく「萩の寺」と呼ばれ、界隈は参拝者でにぎわっていました。妙見山へ続く旧能勢街道の起点であり、池田・能勢や丹波の栗、米、酒、炭、銅といった物産が「大坂」に運び込まれる街道でした。この石碑は1937年(昭和12年)1月に建立されたものです。
2023年9月26日の豊中・東光院の訪問記です。
萩之橋跡から中津の富島神社に向かって歩きました。画像のように、地下線に切り替わって消滅した梅田貨物線跡地の整備工事が行われていました。(2024年9月)
富島神社に着きました。右側に天保11年(1840年)に奉納された石造りの明神鳥居が建っています。
大阪市のマンホール蓋です。1990年に大阪鶴見緑地公園で開催された「国際花と緑の博覧会(花の万博 EXPO'90)」に合わせてデザインされたマンホールです。
大阪市のマンホール蓋です。大阪・関西万博(EXPO2025)のデザインです。
富島神社の社殿です。主祭神は速素盞嗚尊(すさのおのみこと)です。
1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。
富島神社の境内にある石棺です。無造作に置かれているだけで、説明板のようなものは何もありませんでした。
画家の「佐伯祐三(さえき ゆうぞう) 生誕の地」の地図です。
中津学園は光徳寺によって運営されています。
ここにあった光徳寺の境内に、画家の「佐伯祐三生誕の地」の石碑(1988年3月建立)があるはずなのですが、光徳寺が運営する中津学園の建て替え工事が実施されているために、中に立ち入ることができませんでした。
中に立ち入ることができない代わりに、その入口のところにある建物に掲げられている大阪市教育委員会の「佐伯祐三生誕の地 案内板」です。
大阪中之島美術館所蔵の佐伯祐三の作品「郵便配達夫」(1928年)です。大阪中之島美術館では撮影が「可能」でした。
おおさか東線(梅田貨物線)の北側の道に沿って歩きました。289系の「特急くろしお」が通過していきました。
おおさか東線(梅田貨物線)の橋梁の下を通って南側に移動しました。
おおさか東線(梅田貨物線)の南側の道に沿って中津駅方面に向かいました。
281系の「特急はるか」が通過していきました。
若杉ビル(賃貸オフィス)です。この2階に旭屋書店本社事務所が入居しています。
阪急電鉄北野架道橋が見えてきました。
中津駅付近で撮影した阪急神戸線の8000系です。
一旦、阪急電車中津駅の駅舎内を通って「うめきた」に向かいます。
「うめきた」の西側から見た「グラングリーン大阪」の北館と「グランフロント大阪」です。
「うめきた」通路(梅北地下道跡)の西側の入口です。この西側の一部だけが仮設通路の状態でした。
仮設通路を少し歩くと、東側は立派な道路に切り替わっていました。(2024年6月に歩いたときは、画像の道路が、まだ未完成でした)
通路側から横断歩道を渡るだけで、グラングリーン大阪のサウスパークに入ることができました。
開業当初とは異なり、平日のためか、グラングリーン大阪の噴水池で水浴びをする人は皆無でした。
サウスパークの大屋根イベントスパースの「ロートハートスクエアうめきた」です。少しだけですが秋の気配のようなものを感じました。
この日は「ロートハートスクエアうめきた」も解放されていました。
連絡橋を通って、JR大阪駅に帰り着きました。
なかなか掃除できてない場所は?
清掃はしているのですが、それほどピカピカにならないのがトイレです。
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