京阪三条駅付近の今昔(前編) | 鉄道で行く旅

鉄道で行く旅

鉄道旅行を中心としたブログ記事を投稿しています。

今回から京阪電車の三条駅の今昔です。(注:タイトル上は文字数を減らすために省略して「京阪三条」と書いています。ご了承ください)

地上時代の京阪の三条駅の2番線(両側にホームがありました)です。その右側が、主に急行が停まっていた3番線です。

頭端式ホームの先端からの撮影ですが、2番線に特急が停まっているときには、3番線の利用者が、その車内を通り抜けることができるようになっていました。2番線に特急が停まっていないときには、後述する構内踏切を利用できる形になっていました。

LeicaM6 Summilux50mm/f1.4 (1987年2月8日)

 

参考程度ですが、昔の三条駅の配線図です。

上の図は1960年のものです。4両編成以下の車両が主力だった時代の京阪のターミナル駅では「京阪方式」というのか、同じプラットホームの前部と後部を使い分けて、降車専用ホームと乗車専用ホームに分割されていました。淀屋橋延伸までの京阪本線の大阪方ターミナルだった地上時代の天満橋駅や戦前に京阪が出資(運行のための人的資源も投入)していた阪和電気鉄道の阪和天王寺駅(現在のJR阪和線天王寺駅の頭端式ホーム)でも、この方式のホームが設けられていたそうです。私の年齢では、この上側の構内図の方式は記憶にありません。

下の図は、私の記憶から、1971年頃の大まかな線形に訂正したものです。この時代にはプラットホームの分割利用はなくなっていました。

地上時代の三条駅構内では1961年3月1日に土産物の名店街である「のれん街」が、1963年4月8日に食堂街「味のれん」が開業していますので、駅構内の形状については、この下の図と少し違っていたかもしれません。

 

4番線から見た手前の3番線と奥の2番線です。1番線は右奥から左奥に斜めに進むような形になっていました。1番線は元々は京津線と接続する形だったためです。その京津線ホームは突き当たりにある「のれん街」の裏側にありました。

LeicaM6 Summilux50mm/f1.4 (1987年2月8日)

 

1934年から1940年まで三条駅1番線を経由して天満橋と浜大津の間を直通運転していた60型「びわこ号」です。(1969年・ミノルタユニオマットII)

 

中央付近が2番線と3番線の間の構内踏切です。2番線は特急専用(当時は全て2扉車)ホームでしたので、その2扉の間の位置に合わせて構内踏切が設けられていました。

↑2番線と3番線の間の構内踏切部分の拡大画像です。

この駅は駅構内の中央部の真下を琵琶湖疏水の放水路が流れているという最悪な立地の駅構内でしたので、地下通路は最初から作ることができませんし、跨線橋を設置するだけのホーム幅もありませんでした。

ホームで電車を待っているときに、疏水の水が流れる轟轟という音が聞こえていました。ある意味では、たいへん京都らしい「風流な駅」だったように思います。

LeicaM6 Summilux50mm/f1.4 (1987年2月8日)

♪エンジンの音 轟轟と~ (←ちょっと時代が違う ・・・ )

 

日本国内の主要な頭端式駅ではホームの中ほどに階段または跨線橋が設けられている駅が多いと思います。

(あまりにも多いので列挙はしませんでした。画像は一例としての南海難波駅です。 2019年3月撮影)

 

ヨーロッパでは、頭端式の大ターミナル駅であってもホーム下の階段が本当にない駅が多いのですが、設けられている駅もあります。画像はドイツのフランクフルト中央駅です。(2009年)

私が利用した範囲内ではローマ・テルミニ駅にもホーム下に階段がありました。

 

これは、昔のままの駅舎ではなく、地下化工事のために移設された仮駅舎時代だったと思う三条駅の駅舎です。

LeicaM6 Summilux50mm/f1.4 (1987年2月8日)

 

旧三条駅跡の現在です。大部分が川端通とバス停および駐車場に変わっている三条駅跡です。元から京都市の所有地のはずです。

LeicaM10-P Summilux35mm/f1.4ASPH. 6bit (2019年8月31日)

 

思わぬ発見がありました。

 山口誓子の句碑「燃えさかり筆太となる大文字」です。 

今の新しい駐車場から見ると石碑がやけに古いですねえ。

ん?、そういえば、これは地上時代の京阪三条駅の駅構内にあったものだと思います。

 

続いて、1971年に京阪三条駅3番線で撮影したモノクロ画像です。。(1971年の画像はミノルタSRT101で撮影)

デビュー2年後の京阪2400系の姿です。デザインは2000系・2200系のデザインをそのまま踏襲した当時の京阪スタイルです。屋根上の重苦しい冷房装置が特徴でした。(京都方)

たしか、この2400系は「戦前の南海を除く」と、関西地区では戦後初の通勤車両の冷房車でした。

1972年に伏見稲荷駅で撮影した非冷房車時代の2200系です。(ミノルタハイマチックE)

 

その2400系の大阪方です。

『おでこ』が、ちょっとばかり汚れています。

【追加画像】

鴨川が入った京阪電車の写真はほとんど撮っていませんでした。

唯一、見つけ出したのが、七条駅下りホームの旧3000系6両編成の写真でした。

これは七条大橋の歩道から撮影したものです。たぶん「小学生以下を対象とした夏休みの魚捕りのイベント」だと思います。もちろん上流でイベント用の魚類を大量に放流していたはずです。(ニコマートELで撮影  1976年)

(中編につづく