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令和2年2月22日(土)
2並びのこの日、亡くなった父が火葬をされる日。
父が亡くなったのが2月17日(月)でしたから、たったの5日後に父の肉体は焼かれてこの世から無くなってしまうのです。
月曜日と翌火曜日は、とにかく色々とやる事が多すぎて、父が亡くなった実感がありませんでした。
どっと悲しみが襲って来たのが、2月18日の火曜日の晩でした。
この日の晩は、妻とは一言も話さずに、酒を胃に大量に流し込み、ただひたすら父親の事を考え泣き続けました。
それから火葬されるまでの3日間は、時折父親の事を思い出しては、もう施設に行っても、病院に行っても、実家に行っても、地球上のどこに行っても父親は居ないのだと考え、切ない気持ちになりました。
私達は月に一度、父が入居していた施設を訪問していました。
施設を後にする時には必ず、
「又来るよ」
と私は言いました。
「おう!」
と父は必ず返事をしていました。
このいつものパターンに、いつかは終わりが来る事は分かっていましたが、それはずっと先の事だと思っていました。
しかし終わりは思っていたよりも早く、そしてあっけなくやって来ました。
火葬日の2月22日は、全身黒い服にしました。
スウェードの細めのパンツ、フェイクレザーのシャツの上に、レザーのジャケットを羽織りました。ピアスやネックレスの類は、何となく不謹慎な気がして身に付けませんでした。
葬儀社との待ち合わせの時間は9時30分でしたが、一時間程前に着いて待合室で待っていました。
父の死に関しては、他の誰にも伝えていませんでしたから、その場に集ったのは、私と妻そして母の三人だけでした。
9時20分頃、葬儀社の人がやって来ました。
名刺を差し出し自己紹介をされた後、本日の流れを再確認しました。
私は、
「よろしくお願いします」
と言い、葬儀社に支払うお金と火葬代を渡しました。
10時少し前、
「ご遺体が到着されました」
と伝えられ、私達三人は父を玄関に迎えに行きました。
「死んだ後に、なるべくお金をかけたくない」
と言う父の遺言通り、遺体を運ぶ車もド派手な金色の車やリムジンでは無く、普通の乗用車をお願いしました。
※運び込まれる時の実際の写真です。
遺体は、白い荷台に載せられ、室内へと運び込まれました。
「ご家族の方もどうぞ」
と案内の人に促され、私達は棺の後を着いて行きました。
いきなり火葬場に行くのでは無く、一つ手前の薄暗い部屋の真ん中に棺が置かれました。私達が棺の前に揃うと、棺の小窓が開けられ、父と最後のお別れをしました。
父の顔には死に化粧は施されていたものの、遺体の状態はとても綺麗でした。
5分程私達は、父の顔を眺めていました。母と妻は父に一言二言声を掛けていましたが、私は黙ったまま、父の最後の顔を瞼に焼き付けようと、じーっと見つめていました。
「では、そろそろよろしいでしょうか?」
案内の人がそう言ったので、私達は棺から離れました。
父を焼く窯は、5番でした。
窯の蓋が開き、父が入った棺が入れられました。
その後、窯の蓋が閉まった時、これで父の肉体は焼かれてしまうのだなと思いました。
終了までは二時間弱かかるとの事だったので、私達は再び待合室で待機する事にしました。私達三人は、生前の父の話で盛り上がりました。
実はキャッチボールは父とでは無く、主に母としていた事。
父に連れていって貰った映画の事。
父が好きだった食べ物や趣味の事など。
父は甘い物が大好きでした。
肺炎で入院していた時には、看護師に見つからないように、こっそり和菓子屋で購入した豆大福を持って行きました。
他に好きだった食べ物は、ちらし寿司とグリンピースご飯。
父の事が嫌いだった私は、父が好きな物は全て嫌いでした。豆大福もちらし寿司もグリンピースご飯も嫌いでした。
「今日はお父さんの事を想って、夜ご飯にちらし寿司とグリンピースご飯にするんですよ」
と妻が母に言いました。
「あの人、好きだったからね」
と母は遠い目でそう言いました。
「全て終了致しました」
先程案内をしてくれた人が、私達に近づきそう言いました。
彼の案内の元、再び窯の前に行きました。
肉を焼き過ぎた時のような、粉っぽい匂いが立ち込めていました。
父の棺を入れた5番の前に、私達は整列しました。
厳かに窯の蓋が開き、父の棺が引き出されました。むわっとする高熱を肌に感じました。
「大腿骨はしっかりと残っております」
と案内の人が言いました。
「あの人、骨太だったからね」
母がそう言いました。
父の要望により、散骨すらしない「全処分」を選んだので、骨は火葬場の人が処分する為、私達は案内の人に促されそのまま外に出ました。
この日は割と暖かかったとは言え、ひんやりとした空気が頬に当たりました。
私達は車に乗り込み、母を実家に送った後、自宅に帰りました。
「お父さんの好きだった、豆大福を買って行かへん?」
と妻が私に言いました。
「えー、俺嫌だな、桜餅か道明寺が良い」
「じゃあそれも買うて、全部少しづつ食べたらええやん」
「んー、ま、それもそうだな」
と言う事で、近所の和菓子屋に立ち寄りました。
この和菓子屋は、一人の和菓子職人が作っており、出来たらその場でどんどん売れて無くなってしまう店なので、我々が行った時には、桜餅はすでに売り切れ、草餅と豆大福しかありませんでした。(恐らく少し前に草餅と豆大福を作っていたと思われます)
「これ、お父さんが自己主張してるんやろ、俺の好きだった豆大福食えって」
妻が笑いながらそう言いました。
「マジでそうかもね」
私もつられて笑いました。
自宅に帰ってから、私はとっておきの、「腰古井」の大吟醸を開けました。
親父が焼かれる日に飲もうと思って、数日前に買って冷蔵庫で冷やしておいたのです。
「じゃあ、お父さんに乾杯」
妻がそう言いました。
「ああ、乾杯」
私もそう言いました。
その後妻が作った、親父の好物だった「ちらし寿司」「グリンピースご飯」「豆大福」を二人で食べました。
「親父、さよなら」
私は空に向かって、ぐい飲みを掲げました。
※同じような批判コメントを付ける方が多いので、それに答えた各記事があります。
批判をする前に、まずそちらに目を通して下さい。→ 中傷、反論する者に答える。