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親父こぼれ話も、これで一旦終了にしたいと思います。又何か思い出したら書くかも知れませんが。
一緒に遊んでくれない。休みの日にどこにも連れて行ってくれない。学校での出来事にもあまり関心が無い。勉強をしろとも言わない。生き方の指針を与えるわけでも無い。ほとんど何も話さず、柔和な顔で居間にどっかりと座って、テレビを見ているだけの父親。
まだ小学生だった私は、自分は父親には今一愛されていないのだろうと思っていました。もしかしたら捨て子で、本当の両親は他に居るのでは無いか?とも考えるようになりました。
ただ、それを両親に直接聞く勇気も無く、もやっとしたまま日常生活を送っていました。
ある時母親に聞きました。
「お父さんってさ、俺の事あんまり好きじゃ無いのかな?話しかけてもなんも話さないし」
すると母親はこう言いました。
「私にだって何にも話さないよ。だから私さ、あんたとばっか話すじゃない。それなのにさ、エルが居なくなってからお父さんね、「お前らは仲良しで良いな」って言ってたんだよ。じゃあ、お父さんもエルと話せば良いじゃない。って私が言っても、黙って何も言わなかったけどね」
意外でした。
父親は私と仲良く話したかったけど、どう接して良いのか分からなかったようです。
他にもこんな話を聞かせてくれました。
「あんたがまだ小さかった頃さ、3歳か4歳頃かな。外が真っ暗になっても、中々帰ってこなかったんだよ。私はさ、それ程心配して無かったんだけどね、お父さんがオロオロしちゃってさ、エルが帰って来ねえ、エルが帰って来ねえ。ってブツブツ言っててさ、私が「そのうち帰って来るよ」って言ったら、お父さん怒っちゃってさ、「お前今すぐ、その辺探して来い!」って怒鳴られて、探しに行った事あったよ。結局あんたさ、お隣のモト君の所で遊んでたんだけどね」
父親が、まだ幼い頃の私の事を心配していた事があったんだと知って、嬉しかった事を覚えています。
それ以来父を見る目が変わったのは確かです。話しかける努力もしました。しかし、私が父に何か話しかけても、ただにこやかな笑顔で聞いているだけで何も言わず、全く会話になりませんでした。
結局、私が何を言っても父は返事をしないので、その内話しかける事も徐々に少なくなっていきました。
この頃、父が私とどう接して良いのか分からなかったように、私も父とどう接して良いのか分からなかったのだと思います。
時は過ぎ、中学生になった私は、一人前に反抗期に突入しました。
「あ?うるせーばばあ」
とか、平気で母に言っていました。
度々親の金をくすねては、ファミコンのソフトを買ったり、プラモとかを買ったりしました。
毎月1、2万は親の財布から盗んでいたと思います。
万事そんな調子ですから、父親に対しても酷い言葉を投げつけました。
ある日の事。その日も父は白いランニング姿で座椅子に座り、テレビを見ながら食事をしていました。
私は見たい番組があったので、チャンネルを変えるように父に要求しましたが、却下されました。
頭に来た私は、父に毒づきました。
「こんなつまらねえテレビ見たくねえよ。ふざけんなよ!クソが」
私がそう言っても、父親は表情一つ変えず、にこやかにテレビを見ながら、ご飯を食べていました。
「てめー、聞いてんのかよ。クソオヤジが」
と私が言った途端、それまで笑みを浮かべていた父がブチ切れました。
「親に向かって、てめえとは何だ!」
父は顔を真っ赤にし、口から大量のご飯粒を飛ばしながらそう怒鳴りました。
そして座椅子から立ち上がり、座っている私に近づき背中に蹴りを入れました。父親は空手有段者です。私は手で頭を保護し、背中を丸め父の蹴りを耐えました。
父はかなり手加減してくれました。それは中学生の私にも体感として分かりました。しかしいつも笑顔の父親が、突然鬼のような形相で私を襲って来たこの時の恐怖は、私の心に深く刻み込まれ、それ以来反抗期は収束して行きました。
時が流れ、私は30代になっていました。
父は脳梗塞で3度倒れ、杖無しでは歩けない身体障害者になりました。
私は前妻によるマインドコントロールによって、子供を叩く事が躾であり、立派な行動だと信じていました。
ある年の正月、実家に長男と前妻と私の三人で帰省していた時の事。
両親の前で私は、長男に躾と称した暴力を振るったのです。
それを見た父親は怒りました。
「俺の前で子供を叩くんじゃねえ!やるなら自分家でやれ!」
それを聞いた私は、父に対して決して言ってはならない言葉を吐き捨てます。
「うるせえな!身障者は黙ってろよ!」
若い頃の父親だったら、がばっと立ち上がり、私の背中に蹴りを入れている所でしょう。しかし父は杖無しでは歩けない体です。
「何だ!てめえ!この野郎!」
そう怒鳴って、手元にあったテレビのリモコンを私の方に投げました。しかし狙いが定まらなかったのか、リモコンは私の居る所から大きく外れ壁に当たって畳の上に落ちました。
頭に来た私は、そのまま帰宅しました。
以前父に謝罪した事があります。
それは一度目の結婚の時、前妻の父親に土下座させてしまった事、そして前妻のような糞嫁を貰ってしまい迷惑を掛けてしまった事に対して謝罪しました。
しかしこの時の、「身障者は黙ってろよ」と言う酷い言葉に関しては、結局謝罪出来ず仕舞いでした。
父が死んだ今、それが唯一の心残りかも知れません。
父が私とどう接して良いのか分からないように、私もまた父とどう接して良いのか分からなかった46年間でした。
しかし父は私に、勉強しろだの、将来はこうしろだの、結婚はこれこれこうだ。と言った事はありません。ただ、私の好きなようにさせてくれました。
それで私が人生で失敗した事もありましたが、成功した事もあります。
近年、放任主義が見直されているという話しを聞きました。勿論子供によっても、その子に合った教育方針は存在するでしょう。しかし私の性格には、両親の放任主義は性に合っていました。
両親は私を一人の人間として認めてくれ、そして私が生きたいように生きられるように、常に横でサポートし続けてくれました。結果私は満足の行く仕事に出会い、その職に就く事が出来ました。結婚だけは大失敗でしたが、それでも父は私に文句を言ってくる事は決してしませんでした。
「エルが選んだ人だから、俺達は我慢しなくちゃならない」
後に母から、父が常々そう言っていた事を聞かされました。
私が前妻と離婚を決めた時も、母は子供達の為に考え直せないのかしらと泣きながら父に言ったそうです。そうしたら父は、
「エルだって色々あったんだ、あいつがそう決めたんなら好きにさせてやれ!」
と一蹴したそうです。
私はとても良い両親に育てられたのだと言う事を、その時知りました。
2019年1月
父は肺炎を患い、数か月の入院生活を余儀なくされます。
長い入院生活の結果、自力では歩けなくなってしまいました。
父の介護を自宅では診られない為、致し方なく施設に入所させ、それから父は、自宅には一度も戻る事が出来ずに施設生活を余儀なくされました。
施設に母がお見舞いに行った時の話。
「来週は私お見舞いに来れないよ」
と言う母に対し父は、
「エルが来るから良いよ!」
と言ってくれたそうです。
父は私が会いに来る事を、心待ちにしてくれていました。
亡くなる前の僅か2年間でしたが、ギクシャクしていた父と子が、最後にやっとお互い歩み寄れました。私達父子は、やっと本当の親子になれたのです。
※同じような批判コメントを付ける方が多いので、それに答えた各記事があります。
批判をする前に、まずそちらに目を通して下さい。→ 中傷、反論する者に答える。