『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー
年をとると、いろいろ不都合なことが多くなる。
その多くが「生老病死」に関わる苦痛と孤独に括られるが、こればかりはどうしようもない。
しかし、極めて稀に、年をとると良いこともある。
その一つは、若い時には持て余した虚栄や自我が薄れることだ。
例えば、上に掲げたターナーの絵。
明日世界が滅びるとして、最後の一夜を共に過ごすため、どの名画でも一枚進呈すると言われれば、私はこれが欲しい。私の絵画鑑賞能力の限界はほぼ印象派までなので、例え『ゲルニカ』をやると言われても狭い自室に入らないという理由で断るだろう。ダリも今となっては「陳腐なイラスト」にしか見えないし、モンドリアンなど正直「カーテン生地か?」くらいにしか思えない。以降の抽象絵画やモダンアートについてはもはや論外。
若い時は芸術に関する虚栄が邪魔をして、この種の暴言?告白?を口にしなかった。しかし、年をとると良い意味でも悪い意味でも既成の権威・価値観への忖度あるいは敬意が薄れる兆候が現れる。明らかに私もそうらしい。
あるいはまた一つ。実社会の権威・権力に対する過剰な反抗心も、その裏返しの恐怖心もやはり薄れる。
例えば、「ああ、俺も年をとった!」と実感する事象の一つに、メディアに登場する政治家や実業家の多くが自分より年下になってしまったということがある。これが同年輩ともなると、既に派閥の領袖だとか経済団体の重鎮とかのもっともらしい肩書が付いている。こういう時何が困るかと言うと、その重鎮やら領袖やらの主張や振る舞いがなかなか額面通りに取れないことだ。どの御面相を見ても、ついつい、「何を言やがる、しゃらくせ~」とか、「そりゃ何だ、三船敏郎のモノ真似か?
」とか、同時代を生きた者にしか分からない意地の悪いことを思ってしまう。 ----- 無論こういうシニシズムは儒教の弊風に端を発するものであって、私の根性が人並み以上に曲がっているという訳では決してない。
三船敏郎。『天国と地獄』 1963 黒澤明
まるっきり前置きが前置きになっていないが、例によって書き直すのも面倒なのでこのまま本論に入る。
年をとって犯す一番の過ちは、時代や若さに媚びることだ、と私は思う。
皮肉なことに、年齢に比して柔軟な感受性や知的好奇心を持続させている高齢者ほど、この罠に陥りやすい。
それはそうだろう。既にコミュニケーションのピンポン機能を失った(あるいは元からない)老人は、「自分のことを語ってほしい、構って欲しい」という承認欲求競争において、これまたピンポン機能が育っていない青年層や子供じみた時代精神の強力な競合相手だ。端から噛み合う筈がない。
しかし、まだ柔軟な精神と好奇心を保持している高齢者は、往々にして無意識で若さに阿ることがある。
極端な例では、孫に「どう森」を買い与えて共にプレイする、「ドラゴンスレイヤー英雄伝説」の攻略本を読む、TWICEのダンスの振り付けを覚える、「モンスターマスターに俺はなる!」の台詞のパロディを得意げに言ってみる、等々の涙ぐましい努力をして、何とか時代に付いていこうとする。
何かおかしい、と私は感じる。
「何が」は、いちいち特定できない。背景に、1945年の敗戦を境目とした文化の巨大な断絶があって、何がを説明し得る対象が膨大過ぎるからだ。(#4 さすらい ~ またはポップカルチャーの世代的断絶)
けれども、上でちょっと触れた映画を例に採るなら、あなたはまず自身の花の盛りの日々を生きた「戦後昭和」を若い人に語って聞かせるべきだという気がする。
あなたの孫にとって、多分、映画と言えばアニメかも知れない。彼らの古典と言えば、小津安二郎でも溝口健二でも黒澤明でもなく、宮崎駿であろう。確かに、日本の文化史において、アニメほど世界市場に浸透した産業は他にない。定量的に言って、小津、溝口、黒澤を3人足しても、ジブリ1作に遠く及ばない。
では、宮崎駿が小津、溝口、黒澤より優れているか?
誰よりもまず、宮崎本人がそうは言うまい。
司馬遼太郎の一連のベストセラー群と、伊藤静雄のたった3冊の詩集を比べるようなもので、明らかに両者は違うものなのだ。
新しい方が良い、というのは下着と生鮮食料品くらいのもので、内容が難解であっても、あなたの時代が生み出した名作をまず伝えるべきだと私は思う。
それが、本当の意味で若い世代との絆になる。
因みに、娘がまだ小学生の頃、私は黒澤明の『羅生門』を見せた。ついでに原作である芥川龍之介の『藪の中』について解説した。思えば無茶苦茶な児童教育だが、私がそれまでに娘に試みた様々な試行錯誤の中では唯一最善のものと信じて疑わない。
この黒澤作品について娘がどう感じたかは、未だに本人に聞いていない。
(2023.01.10)