ネタの最大供給元だった娘がいなくなったので、いよいよ書くことがなくなってきた。
担当のKさんがメールで 「もっと気楽な気持ちで、日記でも書くように」と親切なアドバイスをくれた。(君が書けよ!)
仕方ないので、また一つ昭和話をしてお茶を濁すことにする。(思いつくままの書き散らかし、乞御容赦)。
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小学生の頃、私は「さすらい」というイメージに憧れていた記憶がある。
ひょっとして、「さすらい者」という職業が本当にあると思っていたのかも知れない。いずれにせよ、直接の原因は間違いなくこれだ。👇
(1960年日活映画『赤い夕陽の渡り鳥』監督:斎藤武市
出演者:小林旭、浅丘ルリ子、宍戸錠)
(因みに、このスチール写真を見ただけで、説明抜きでパッと分かる人は、間違いなく私と同時代を生きた人達だろう。エールを送りたい )
子供の頃にこの「渡り鳥シリーズ」を夢中になって観た、という訳ではないが、いつの間にか「大草原」だの「見知らぬ町」だのを流れ歩く孤影、といった詩的(あるいは昭和歌謡曲的)イメージが心に染みついた。もう少し古典風に気取って言えば、「いづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」といったところか。
ところで、この「さすらい」、「漂泊」、「流浪」、など、孤独や旅愁や詩情をトッピングした伝統的な情念は、恐らく昭和三十年代後半以降に絶滅したものと思われる。絶滅させた犯人は、新幹線、1964東京オリンピック、高度成長時代、バブル時代、情報化時代、PC・スマホ、等々幾らでも挙げることができる。
私見ながら、日本という国がその長い歴史の中で豊かになったのは、たかだかこの50年くらいのもので、古代から昭和前半に至るまで、少なくとも圧倒的多数の庶民は、文字通り貧困の歴史を積み重ねてきたと言える。その貧困を背景とした不安、苦悩、哀感、無常観と言った暗く湿った情念の堆積が、「さすらい」という脱出願望・現実逃避的衝動の母胎となったに違いない。
私は貧乏学生だったが、とにかく大学は出た。しかし大まかな世代論で言うと「集団就職世代」の末尾に属すると思う。この世代についての私の定義はこうだ。
<高度成長時代、都市部の労働力不足を補うために搔き集められ、中学卒業後に夜汽車に詰め込まれ、上野駅で降ろされ、紡績工場や部品工場、またはその辺りの板金屋や飲食店等にばら撒かれた世代>。
一方、例えば私の娘などは <みんなでワイワイ! 旅のプランは○○アプリにお任せね!世代> に属する。両者の抒情・情念の感覚の距離は、地球とアンドロメダ星雲よりも遠い。
従って、娘に次のような曲を聞いてみろとは決して勧めない。
知らぬ他国を 流れ流れて
過ぎてゆくのさ 夜風のように
(作詞:西沢爽 「さすらい」1960年)
聞いたところで、(お経か何か?)とでも言うに違いない。それほどに、1964年東京オリンピック前後を境にしたこの国のポップカルチャーというか、大衆文化の断絶は凄まじい。
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何であれ、私は持病のように「さすらい衝動」を抱えたまま、大学を出てサラリーマンになった。仕事が輸出営業だったので、一応あちこちの国に出張した。
アメリカ、ドイツ、イギリス、フランス、オランダ、ロシア(当時のソ連)、韓国、台湾、香港、上海、シンガポール、タイ、ベトナム、インドネシア、マレーシア。
この話をすると、幼かった娘はいつも(わあ、すごい、国際ビジネスマン!)というような目で見てくれ、私としても父親の虚栄が満たされて鼻が高かったが、実際には「国際ビジネスマン」などという、旅行パンフレットみたいに軽くて薄っぺらな職業は存在しない。企業・事業部の規模によって予算や手当の差こそあれ、職種を輸出部門に絞れば、カタログ、図面、仕様書、見積書などを入れた荷を背負い、英語でセールス行脚する行商人だと思えばよい。
単独行の行商人は辛い。エコノミー席10時間以上の飛行はざらだ。また金が関われば、外国人もくそもない、終始ギスギスした雰囲気で終わることも多い。不快な出来事は日常茶飯事で、ジャカルタ空港では入国早々100米ドルの賄賂を要求され、拒否すると別室に連れ込まれ、やっといやがらせから解放されたと思ったら、タクシーのボッタクリに合った。フランクフルトでは、訪問先が不親切にも仕事以外は一切面倒みてくれず、ホテルを探してかなり危ない夜の街を歩き回った(当時はPCもスマホもないんだぞ!)。ソウルのバーでは、隣の酔漢に日本語を話しているという理由で水をぶっかけられた。(無論、それぞれ数十年も前のことだから、現在はこんなことはない筈だ。そう信じて疑わない、うん! )。
何が言いたいか?
「漂泊の思ひ」などというこぎれいなものがハナから生息できる職場環境ではなかったということだ。物理的移動距離と漂白の思いはまるっきり無関係なことを思い知らされた。
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敢えて「漂泊の思い」に拘れば、それに近い思い出も一つある。
顔見知りのオランダ人の同業者と、デュッセルドルフの見本市で落ち合った時のこと。
広い会場の一角にあるコーヒーショップで、互いにリサーチを放ったらかしたまま、あれこれ個人的な話に花を咲かせた。同年輩で職種も社内的立場も同じで、以前から気が合った。
そのオランダ人が突然、来年早々に会社を辞めてスペインに引っ越すと言った。会社を辞めるということには驚きはなかった。私自身が、円高のために(ここらが潮時か)と常々思っていたからだ。しかし「スペインに引っ越す」には少なからず驚いた。
(それは引っ越すと言うより、移民ではないか?)
そういう意味のことを言うと、相手は(??)という顔をしながらも、「何しろあそこは税金が安い!」と嬉しそうに応えた。私はと言うと、アジアなどと比べ、EU(当時のEC)加盟国間の心理的垣根の低さをしみじみ実感させられた。
1時間ばかり話し込んだ後の別れ際に、その男が 「お前はこの先どうするんだ?」とずばり聞いてきた。同業者なので、円高問題や日本メーカーの輸出の先行きの暗さ、私のポジションの危うさなど、とうに熟知している。
「どうしていいか分からん」と私が正直に答えると、いきなり「中国へ行け!これから、製造業は中国だ」と断言した。結果として彼の予言は的中したが、当時も今も私は中国に「引っ越し」したいとは思わない。
「Keep in touch, OK?」と彼が言い、「Why not?」と私が応じて別れた。しかし、それは通常の別れの儀礼であって、双方ともそうはならないだろう事くらいは分かっていた。互いに雇われの身のサラリーマン、転職すれば大抵の場合縁も切れる。
予想通り、私達は以降数十年、一度も連絡し合ったことはない。にもかかわらず、自分のサラリーマン時代を通じて最も心が通じ合ったと思える人物は、あの赤毛のオランダ人だ。
どこに住もうと、どこで働こうと、結局限りある生を生きるヒトである以上、君も私も日々漂泊しさすらっているのだ ---- と、今なら別れ際にそんな禅問答じみたセリフでも吐いて、煙に巻いてやれたのだが。
(2022年4月14日)