#9 1954年の不安と絶望 ~ 『ゴドーを待ちながら』 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 

 

   先月から割り当て仕事が途切れたので、一念発起してサミュエル・ベケットの『Waiting for Godot(ゴドーを待ちながら)』の英語版を読み返した。
   個人的な思い出を言わせてもらうと、「ゴドー」は学生時代にゼミの原書講読で散々苦労させられた作品だ。特に従者ラッキーによる衒学的なアフォリズム、逆説とメタファー、一見意味深で実は空疎なだけのアナロジー等がごちゃ混ぜになった長台詞は、当時の私の語学力では到底歯が立たなかった。指導教授の指導を真に受けてこんなものを一から克明に調べ挙げていったら、それだけで学生時代が終わってしまうと本気で危惧した程だ。
   とは言え21歳の私は、いわゆる不条理劇の御手本のようなこの戯曲に心底惹かれた。それまで、(カフカの『城』の戯曲版みたいなものだろう)と勝手に決めつけていたものの、参考資料のスチール写真を見て考えが変わった。月と一本の木と二人の浮浪者 -----、その視覚効果、状況の極度の象徴性、無駄を切り削いだ簡素な舞台設定が、能楽の様式美あるいは「幽玄」そのもののように思われ、その一事でこれは「本物」だと信じた。
   その後も二十代半ばまで、時折思い出したように『Waiting for Godot』を読み返した記憶がある。その度に、相変わらず意味の分からない箇所に首を捻りながらも、そのモヤモヤした不安感、シニズムに隠された絶望感に心底共感した。

 

 

             

 


   さて40数年後に改めて『Waiting for Godot』を読み返すと、自分でも驚いた発見が幾つかあった。
   まず、原書の意味の分からない箇所が殆どなくなっていた。当たり前と言えば当たり前の話で、30年以上も翻訳屋をやっていれば自然そうなる。
   次に、作品のモチーフである不安感、絶望感への共感度が薄れた。有体に言えば、殆ど読後の感興が湧かなかった。しかしこれまた当たり前の話で、要は私が老いたということでしかない。

   不安、絶望とは、常に夢や希望の裏返しであり、その夢や希望は、この先、より長く不確実な未来が控えていることを前提とする。従って、不安、絶望は、不確実な未来に向かい合う少・青・壮年世代に特徴的に高く顕れる。

   これに比して、高齢者世代にとっての不安・絶望は、予測可能な、比較的短い期間内に確実に生じる3点のみに起因する。即ち、老・病・死の3つで、生そのものに起因することは当然少ない。その少ない分だけ、不安や絶望は多世代より薄まる。従って、私の読後の感興の薄さは、単なる減算で説明がつく。



       

        サミュエル・ベケット (1906 - 1989年)

 

 

 

   (ゴドーとは誰か?あるいは何か?)というのは、この作品が刊行されて以来ずっと続いている、文学業界定番の古い問いかけだ。解答にはどんなものがあるか。
   言うまでもなくベケットはヨーロッパの知識層に属し、当然キリスト教の「神」に関する論議から無縁ではいられなかった筈だ。従って、GodotとはGodのあからさまなアナロジーであるとか、ニーチェの「神は死んだ」の視覚化であるとか、または、(ゴドーとは「希望」の象徴であり、つまり希望は永遠に来ない。民衆を象徴するヴラジミールとエストラゴンの二人の浮浪者は絶望して首を吊ろうとするが、それにも失敗して、ただあるがままに生き続けるという実存主義風テーマ)等々が散見される。
   その解答は全部後付けながら、全部合っている、と私は思う。
   『ゴドーを待ちながら』の初版が刊行されたのは1954年である。ヨーロッパも時期的にまだ戦後で、ましてや執筆時期まで遡ると戦争直後ということになる (ベケット自身も戦争中はナチスに追われ、さんざん辛酸を嘗めた)。各地に戦火の爪痕が残っていた。大勢の人々が死に、神も死に、希望も消えていた。一方で、第二次大戦ポストシーズンの米ソ冷戦トーナメントが既に始まっていたが、それでも、人々はあるがまま生き続けなければならなかった。
   『ゴドーを待ちながら』は、こういうヨーロッパの荒廃の下、現実逃避せず、真正面から時代の絶望に向き合って書かれた。名作の名作たる所以であろう。

 

   とは言え、観点を変えれば、ベケットは、書き終えた時点より以降の文明や社会の行方を当然知らない。キューバ危機、長い冷戦時代、ベトナム戦争、ソ連崩壊、社会主義国家の衰退、中東戦争、数々の宗教・民族紛争、大小のテロ、・・・ましてやコロナ・パンデミックもウクライナ戦争も知らなかった。
   一方、次世代の読者である私は当然知っている。

   ヴラジミールとエストラゴンの不安と絶望が、そのまま上記の歴史的事実に繋がる正確な予言となったかと言えば、個人的にはそうは感じられない。ベケットのペシミズムやシニシズムは、今となっては哲学的な上品さがあったが、現実の方はもっと散文的にグロテスクで、遥かに滑稽で、田舎オペレッタ風の愚劣さに満ちている。この誤差が、私の読後の感興が薄かったもう一つの理由かと思う。

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何がどうあれ、『ゴドーを待ちながら』は今日の日本にも真っすぐ問いかける。
君達の生きている社会は本当に大丈夫なのか?と。
1954年のヨーロッパの不安と絶望は解消されたのか?と。
忍び寄る社会の荒廃・衰退の危機を知らせる炭鉱のカナリアの悲鳴、つまり詩や戯曲や小説によるアラーム機能はしっかり機能しているのか?と。
問われた我々は、胸を張って答える。
大丈夫!詩も戯曲も小説も、とうの昔に保存伝統芸術になっちゃったけど、代わりに私達には漫画、アニメ、ゲーム、ネットがある。
 ゴドー?何それ、おいしいの?

                                                         (2022年5月11日)

 

 

     吉岡暁 WEBエッセイ① 嗤う老人