とんぼ釣り 今日はどこまで 行ったやら
こんな一句が加賀千代女にある。
すくすくと幸せに育っている子供と、真に賢い母親と、我々が過去に捨ててきた安定したコミュニティの正確なポートレートとでも言おうか。
夏の終わりの夕焼雲、林、法師蝉の合唱、草っ原、青々とした田畑、曲がりくねった野道・・・、子供にとって世界は驚異と美と刺激に満ちていて、日々が心躍る冒険のように過ぎて行く。
因みに千代女は江戸時代の人で、当然のことながら電気などない。日が沈めば真っ暗だ。
今日と比して物質・利便性の多寡を問えば、度し難い原始農耕社会そのものだろうが、「(我が子が)今日はどこまで行ったやら」と長閑に詠う12文字で、江戸時代の千代女の勝だ。「知らない人と口をきいてはいけない」他者恐怖だの、「ペドフィリア」だの、「捜索願」だのと言った、そろそろ内部から腐り始めた社会の禍々しい兆候とは一切無縁の、文字通り隔世の感があるコミュニティの姿がこの五七五に収斂されている。
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時折、子供を対象とした『将来何になりたいか?』という類のアンケートの結果が発表される。
定番的なものとして、男の子ならサッカー・プロ野球選手、新幹線の運転士、パイロット、云々とあり、女の子の場合は、パティシェ、歌手、アイドル、等が出て来る。他に、時代性を表すものとして、医師、公務員、ユーチューバーなどが挙げられている。
面倒くさいので詳細は省くが、子供時代という未成熟・未完成な精神現象が、トンボ釣りのように幸せな条件下にあると前提するなら、子供の夢とはつまるところ夢の中の夢であり、論ずるより詠うべきものだろう。
問題は大きくなった子供、つまりハイティーンの年頃に至った子供が将来の夢とか抱負を問われ、「好きなことをして暮らしていきたい」と語ったときだ。
他に選択肢のない、生まれついてのクリエイター、パーフォーマーの卵を除き、大抵の場合これは防衛機制による退行に過ぎない。要するに、不安に堪えかねた子供の悲鳴だ。
また、かなりの確率でその不安は、彼らの親を含め周囲の人間から写し込まれた虚栄、妬み、嫉み、自己否定、強圧的な価値観、物欲、等に対する順応あるいは反撥の結果であることが多い。
私は以前、ある記事で、「世界に一つだけの花」という歌をこんな風に罵倒したことがある。
(子育ての過程で、私は「世界に一つだけの花」という歌を覚えた。聞くや否や、世界で一番嫌いな歌になった。 --- (中略)---- 「もともと特別なONLY ONE ♪」などという能天気なきれいごとを子供の頭に刷り込んで、幼い自我を徒に肥大させたあげく、そのままあの小汚く、卑しく、狡猾な魑魅魍魎の跋扈する肥溜めのような世間に放り出すのはいかがなものか?)
この意見は今も変わらない。「世界に一つだけの花」などというものは存在しない。
あるとすれば突然変異種で、要するにアダ花だろう。
敢えて凡庸な比喩をすれば、人は無数の名もなき野草の一つとして生まれ、育ち、枯れていく。かと言って、何もこんな仏教的ペシミズムに打ちひしがれたまま生きていく理由はない。
必要なのは、トンボ釣りの夢から覚める覚悟をすることだ。逆に、17、18歳にもなって毎日トンボ釣りをして暮らせと言われたら、それは間違いなく拷問だろう。
つまり、万物がそうであるように、当然「好きなこと」も歳月と共に刻々変わっていく。若者の長い生涯を支え切れるような頼もしい代物ではまるでない。更にまた、ハイティーンの年齢にまで達した若者が、まだユーチューバーとかアイドルになりたいと言うとき、(別にユーチューバーやアイドルに恨みがあるわけではないが)それが本当に自分の「好きなこと」なのか、一度じっくり考えた方が良い。
根本の動機に、「目立ちたい」、「人から憧れの目で見られたい」等々の、子供っぽく痛々しい虚栄が根を張っていることが多いのではないか。裏返せば、過度な自己否定感情がその根底に澱み、知性の栄養分が欠けている気がする。
感性だけに依存して肥大したエゴは、悪性癌と同じだ。知性を投薬しない限り死に至る。万が一僥倖に恵まれて一時的な成功を得たとしても、そんな奇形種が長続きする筈がない。
人生で「本当に好きなこと」は、石ころみたいにそんじょそこらに転がってやしない。
自身を嫌悪する者には、本当に好きなことなどない。
(2022年5月2日)