# 16 高齢者クラブデビュー【隠居入門 その2】~ ガッキー?? | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回


  

   引退宣言した挙句、<することがない、行く所がない、話し相手がいない>の3無状態に陥っていた頃 (#7 引退宣言 【隠居入門 その1】 )、私はある喫茶店へ行った。
   マスターがボランティアで一種の高齢者クラブを設立し、月3回店を集会の場として提供している。ウォーキング、ハイキング、花見、紅葉狩り、寺社参拝の半日旅行、等々、様々なイベントを催していると言う。以前から親切に声をかけてもらっていたので、顔を出すことにしたという経過だ。

 

                            

  

  店は、元気いっぱいの女性高齢者で溢れていた。ガラス窓にひびが入っていないのが不思議なほど、話す声も笑い声もとにかくでかい。
   正直、私は怖気づいた。ボックス席にひとり座ってコーヒーを啜っていると、マスターが来て一人の男性会員を紹介してくれた。
   仮にS氏としておく。
  S氏は温厚そうな人で、ポソポソと息の量の控え目な話し方をする。それも道理で、癌で胃を全摘出してからまだ半年だと言う。術後の経過について、S氏は検査数値を挙げて微に入り細に入りポソポソ、ポソポソと語り続けた。しかも秋の長雨のように、これが一向止まる気配がない。私はしみじみ平均寿命の男女差を実感しながら、その雨音を聞き続けた。
  マスターが気を遣い、女性陣にも紹介してくれた。
   彼女達との会話もうまくいかなかった。ワアワアと盛り上がっていても、私が何か一言口を挟むと、水でも撒いたように静まる。新参だから仕方ないとはいうものの、私は少なからず意気消沈した。何としてでも、<することがない、行く所がない、話し相手がいない> 辛さから脱却したかったので猶更だ。


  しかし、どこでも話し上手の聞き上手はいるもので、一人の白髪の女性が前期高齢者の私を「まだ若い」と上品にからかい、こういう所へ来るのは歩行器を持つようになってからで良い、という自虐ネタで笑わせた。(その時、私は初めて歩行器というものを知った。無論それまでにも見たことはあったが、てっきり老人向けの買物専用キャリーバッグみたいな物だと思っていた。本末転倒の理解をしていたことになる。)
  その聞き上手の婦人は、私を彼女達の盛り上がっていた話題に入れようと配慮してくれたのだろう、<○○○○、△△△△、ガッキーの内で誰が一番好きか?>と聞いてきた。
  せっかくの好意だったが、私は○○○○も△△△△も知らず、従って正確に聞き取れず、辛うじてはっきり耳に残ったのがガッキーという名だった(妙な名前だ、とその時は思った)。

   何であれ、その三人が女優かTVタレントに違いないとは容易に推測がついたし、第一もう彼女たちの会話に冷水を浴びせたくなかったので、私は「ガッキーです」と答えた。

   その後に続いた賑やかな演技比較論や人格好感度論に参加するのは到底不可能だったが、私はピンチを脱して満足だった。  

 

   その夜、私は件のガッキーについて娘に教えを乞うた。娘の一種の憐憫の眼差しに耐えながら、一通りの説明を熱心に聞いた。それで、その日自分が参加したお喋りが、<長澤まさみ、綾瀬はるか、新垣結衣の比較検討セッション> とでも言うべきものであることを知った。

  (何だ、簡単じゃないか) ネットか何かで多少の芸能界の知識を蓄えておけば、所謂茶飲み友達が大勢できることは確実だ、と私はほくそ笑んだ。これで日常の孤独から逃れられる。



                                       
  

  

  そんな筈はなかった。所詮、付け刃の一夜漬けだ。

  翌日、ネットで芸能界トピックスをぱらぱらサーフィンしていると、たちまち眠気に襲われ、そこを我慢してなおも読み続けていると、殆ど厭世観に捕われた。<ゾウリムシのグリセルアルデヒド3リン酸脱水素酵素遺伝子の構造>について学ぶ方がよほど興味深いと思われた。我ながら、デビッド・リースマンの言う「他人指向型」の典型だな ・・・、とつくづく思い知らされた。

 当然、このエッセイも、尻切れトンボの結末となってしまう。

 私は結局仕事に復帰し、あの会合にもすぐに関心を失った。店には定期的に通い、マスターにコーヒーのうまい淹れ方などを教わったりしているが、それだけだ。


  群衆の中に混じっていても、孤独は癒えない。

   たとえ家族と居住空間を共にしていても、心がつながっていなければ孤独は癒えない。

   孤独は、外部環境がトリガーとなって、自身の内側で何かが欠落した痛みから生じる。

  しかし、外部環境と孤独が完全に同期しているかと言うと、実はそうでもない。

  地震と、地震で崩れた構造物の関係に似ていて、外部環境が再現されても(地震が止んでも)、欠落部の痛み(崩壊した構造物)はそのままであることが多い。一度崩れた外部環境は、どれだけ手を尽くしても完璧に再現することはできない。

 同様に、一旦崩壊した構造物も完全な再建はできない。心の中で、何かが永遠に変わってしまうからだ。 

   要するに、心の痛みを止めるには、内なる新しき物を作り上げる以外に方策はない。

  成長、あるいは成熟ということだろう。