# 15  「2・6・2の法則」~ 娘と私の人間論 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 

 

 娘がまだ小学生だった頃、私に極めて根源的な問いかけをしてきたことがある。

  言い回しは忘れたが、要は、「なぜ人間には、良い人と悪い人がいるのか?」という趣旨だったと思う。

 本気で語れば一年はかかるかと思われる命題を問われ、しかも相手は子供だ。

 私は困り、苛立った。当時は何本か大きな翻訳仕事を抱え、進行状況は遅れ気味だった。どんな自営業でも、納期を落とすと命取りになる。

   いっそ、(あっち行け)と追い払おうかと思ったが、子供のいつにない真剣な表情が引っ掛かった。(これは逃げられんな・・・)と親の直観が教えた。

   (ここらで一つ、父親の賢さを見せつけておかねば)という見栄もあった。

   幸い、娘がその頃学校で棒グラフを学んでいたことを思い出し、私はその場で「2・6・2の法則」というものをでっちあげて伝授した。正しく一子相伝ではないか。

 

 

 

                                        

 

 

   「いいか」と私は言った。「日本に100人の人間がいるとする。その内、上の2割の20人は、いつも良いことをする良い人だ。下の2割の20人はいつも悪いことをする悪い人だ。中の6割の60人は、時と場合によって良いことをしたり、悪いことをしたりする人だ」

 我ながらなんと簡潔明快な説明ではないかと思ったが、予想通り娘は納得しなかった。

 「なんで中の6割の60人の人は、良いことをしたり悪いことをしたりするの?」

 (これはまずい・・・) 私は思った。

 娘の声音に、強い反撥心と正義感が混じっている。

 娘は幼女と言われるような年から少林寺拳法を習っていた。

  私としては、苛められて1発叩かれたら2発叩き返す技術を教えてくれさえすれば良い、程度の心づもりだったのに、「正しくあれ!」とか「卑怯な振る舞いはするな!」とかいう精神論も同時に叩き込まれていた。この余計な付録が、「良いことをしたり悪いことをしたり」に俄然反撥したらしい。

  娘はなおも食い下がったが、その時彼女がどんなことを言ったのかはもう忘れた。

  自分が言ったことは、あらかた覚えている。

  何しろ、私には良き父親を演じるにはたくさんのものが欠けていた。忍耐、穏やかさ、教育者的資質・適性、子供でも理解できる表現力・・・。とにかくあの時、私はあまりの面倒くささにブレーキが外れてしまった。

  何と言ったか?

   「所詮、ホモサピエンスは裸の猿だ」と、子供に言ってしまった。

 

 

                            

 

 

<「中の6割」はどっちにでも簡単に転ぶ。足場となる信念、哲学、芸術、持って生まれた良きサマリア人のような人格、つまり真・善・美のどれも備わっていないから、風向き次第でくるくる変わる。多くの人間は、そうやって生き延びてきたんだ。>

 

< 例えば、生存のために強者に阿り、阿ったストレスや屈辱感を晴らすために弱者をいたぶる現象は、猿山の猿の研究でも報告されている、と聞いたことがある。生存不安、他者恐怖、猜疑心、妬み、嫉妬、憎悪、偏愛、紙の表裏である自己愛と自己否定・・・。もし人間の品性が進化するものであれば、今頃は戦争もテロも犯罪も悉く根絶されている筈だが、ゴータマ・シッダールタやナザレのイエスが生まれてから2000年以上、ムハンマドが生まれてからでも1500年近く経っているのに、何も変わらない。寧ろ劣化している。>

 

<唯一の芸当である自然科学を道連れに、この危なっかしい猿回し文明がどこまで続くのか。もう神様でも分からないようだ>

 

 無論、子供がこの種のペシミズムを理解できた筈もないが、娘は最後にこう尋ねた。

 「父さんはどこに入るの?上の2割?」

 間髪を入れずYES!と言うべきだったが、何を思ったか、私はその時娘に対して可能な限り正直になろうとした。

 「若い時は下の2割」と私は正直に答えた。「少しお金ができてからは、中の6割になった」

  娘は何も言わなかった。

  私の記憶もそこで終わっている。

  だが今思うと、私はあの時以来、一挙に娘の尊敬心を失い、「何でも知っている賢い父親」の座から永遠に転落したような気がする。

   正しく、正直者は馬鹿を見るという教訓だろう。