# 17 若者への罵り 【映画ネタ2】~ ただのバカなのか?それとも・・・ | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回


 

           

               2006年、アメリカ映画『26世紀青年』

 

 「最近の若い奴ァ!」という罵りは、4000~3500年前のエジプト中王国時代にも記録されている、というもっともらしい説が昔から語られている。真偽はともかく、いつの時代でも年寄が若者をそう罵倒してきたらしいことは大いに信憑性がある。
   何のことはない、自分達だって若い頃さんざん罵倒されてきたセリフを、そのまま年取ってから繰り返しているに過ぎない。早い話、人類による伝統芸の継承みたいなものだろう。



『26世紀青年』というアメリカ映画における「今時の若い奴ァ!」は、もう少し毒がある。と言うか、散水車のように毒気をまき散らしている。
  そもそも原題は、邦題の『26世紀青年』などというオブラートで三重、四重に包んだような曖昧なものではない。「Idiocracy」---- idiocy (馬鹿さ、アホさ、間抜けぶり、愚鈍)とdemocracy (民主主義)を足した造語だ。従って、翻訳的には「衆愚政治 mobocracy」に近いだろうが、英語のニュアンスとしてはもっと露骨に「バカの集まり」的な響きが強い。



  ストーリーは単純だ。軍隊が秘密の人工冬眠実験をするが、何らかの手違いか事故で500年後に目覚め・・・というありふれたもので、寧ろ「この際ストーリーなんざどうでも良いワイ」的な低予算映画製作者の覚悟と潔さが感じられる。
  とにかく26世紀に目覚めてしまった主人公の軍人は、未来のアメリカを見て驚愕する。そこは、高IQの人間が衰亡し、低IQの人間だけが生き残ったハチャメチャ、でたらめな社会だった・・・。と、ここまで読むと、この映画が製作はされたものの、上映は一年以上延期され、日本では劇場未公開となった理由も容易に推測できる。
   アメリカ本国で最も物議をかもしたのは、「低IQの市民達」の描写だったらしい。アメリカ南部や、中西部のラストベルト地帯の、教育水準の低い階層をカリカチュアしたような演技が問題となった(そりゃ、まあ、なりますわな)。
  もう細部は忘れたが、例えばあくまで普通の知能の主人公が、小学校の理科実験みたいなことをすると、その市民達は大げさな身振りや顔つきで驚いて、
「ワ~オ!」「イエ~~イ!」「クール!」「グレエエエイト!」「オーサム!」「f××in’ ××××」みたいな極めて短い、感覚的・感情的な表現をする。するが、実は何も理解していないというくすぐりがあったと思う。
  ストーリーはその後、アインシュタイン扱いされた主人公が、荒れ果てた大地の改良に乗り出して --- 云々と続いていくが、これまた適当で、演出にもやる気が見られない。本当にストーリーはどうでも良い映画で、描きたかったのは「ワ~オ!」「イエ~~イ!」「クール!」「グレエエエイト!」「オーサム!」「f××in’ ××××」の衆愚像だったに違いない。ただ、「アメリカ人による自国文化の戯画化」という高い視点より、沿岸部の大都市の知識層が内陸部の「無教養な田舎者を冷笑する」という嫌味が残り、下手をするとナチスの優生思想につながってしまう危険もある作品だった。

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   なぜこの映画を取り上げたか?
   この「ワ~オ!」「イエ~~イ!」「クール!」を見て、反射的に日本の「近頃の若い奴」のネットスラング連発の話しぶりを連想したからだ。アメリカと違ってネガティブな感情を表すものが多いように思うが、<極めて短い、感覚的・感情的な表現>と言う点で良く似ている。
   ふと想像してみる。
   昭和後半の生真面目な大学生が、タイムトラベラーとなって現代の若者と知り合ったら、どんな会話になるだろうか?

昭和:君は、日本国憲法の改正論議についてどう思う?
現代:ださ!

昭和:投票には行くべきだ。参政権は、明治維新以降、多くの先達が身命を賭して勝ち取った

        貴重な権利だぞ。
現代:それな

昭和:サミュエル・P・ハンチントンの『文明の衝突』読んだかい?第二次大戦以降の歴史

        のマクロな流れを実に正確に説明していると思うんだが。
現代:オワコンじゃん

昭和:頑張って、努力して、一生懸命に働いていたら、明日はきっと昨日より良くなる!

        努力は必ず報われる!
現代:草!

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  では、「近頃の若い奴」は全員コミュ障なのか、それともただのバカなのか?
 もちろん、そうではない。敢えて独断すれば、昭和後半の学生よりもずっと賢いと私は思っている。何より、前世代よりはるかに垢抜けてスマートな印象を受ける。より豊かな時代に生まれ育ち、より多くの教育投資を享受し、幼い頃からSNSを駆使してきた世代だからだろうか。
  なら、「ひょっとしてただのバカ?」と感じさせるこのコミュ障じみた表現はどこから来るのか?
  他者恐怖・嫌悪の蔓延が原因ではないかと私は思う。

  もっと貧しかった戦後昭和と比して、十分豊かであるにも関わらず、この世代には時代の陽光が少ない。空気が肌寒い。昭和的な 「明日はきっと昨日より良くなる!」などという楽観に満ちた、社会のイケイケ・ドンドン的後押しが一切ない。

 社会の閉塞感や硬直性が甚だしく、若者達は老後の年金破綻を心配している。

 人生の真っ盛りにある二十代の若者が、アントレプレナーシップの代わりに老齢年金の心配をする国など、それこそオワコンとしか言いようがない。

 

   ギスギスした、閉塞感に満ちた社会にあっては、当然、相互不信・警戒、他者恐怖・嫌悪の感情が増大し、小は神経症的トラブルから大は自暴自棄的な凶悪犯罪まで、日々メディアを賑わす。

   言うなら、社会が自家中毒を起こし始めている。

   たとえ仲間内でも、意見の相違、立場の違い、対立が明らかになることを極度に恐れ、立場を明確にした率直な議論をタブーと感じる。

  それでも、若者同士の「仲間内」では最低限のコミュニケーションはとらねばならないので、前述のような暗号的言い回しを、 (攻撃しないで下さい。私はあなた達の仲間です)的証明書、異物排斥の対象にされないパスワードとして使うものと思われる。また、パスワードの通じない外部では、「・・・と思います」と普通に言えばいいものを、「・・・なのではないかな~と思います」というような、非常に回りくどい婉曲法を多用するようになる。

   若者にそういう用心を強いる時代になっている。
 

  例えれば、ライジング・サンの成長時代と違って、今や長い長いセッティング・サンの時代が続いている。既に高齢者である私は、その夕日の時代にそれほど長居はできないが、私の娘やその子供はずっと長く生きていく。それを思えば、心配の種は尽きない。