# 6 歌え、カナリア ~ 若いアーティスト達への応援歌 | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

                  

 

 前に「#2 文学部だけはやめておけ ~ 文学青年の辿る人生 |という記事を書いた。だが、文学部よりはるかに険しい道を往かねばならない若者達がいる。

 美大・芸大の卒業生だ。

 娘の交友関係の中にこの種の若者達が何人もいて、彼・彼女達の動向をときおり耳にすることがある。そのたびに、顔も知らない彼ら若いアーティスト達の未来を思い、社会不適合者だった二十代前半の自分を思い出し、時に胸が騒いだりする。

 

 確か小林秀雄の『ゴッホの手紙』だったと思うが、終生不遇だったゴッホの書いた一通の礼状が載せられている。同時代のモネが経済的にも大成功したのに比べ、当時ゴッホの絵など誰も買わなかった。そんな中、一種の「地方の名士」である富裕者が一枚買ってくれた。常に貧窮に喘いでいたこのオランダ人画家は感激し、涙を流さんばかりの謝辞を饒舌に記した。

 美大・芸大の卒業生の中でも、特に画家、書家、彫刻家、陶芸家をめざす若者達には、こういう試練が待っていると思う。

 何が試練か?芸術のゲの字も知らぬ成金の気まぐれ買いに、涙を流してまで感謝するほどの困窮が待ち構えているということだ。

 

 やはり以前にもこのブログで書いたが、芸術家は社会のカナリアだと私は思う。

しかし、美大・芸大を出た卒業生は全てカナリアかと言うと、当然それも違う。

 敢えて突っ放して言えば、本物のカナリアは、人生のある時期に自分がカナリアであることを自分で悟る。自然に悟る。

                  

 

 ニートだのワナビーだの夢追人だのと冷笑されながらも、「歌うことが楽しくて、他には何も要らない」自分を発見した時から、君はカナリアだ。

 「歌うことは楽しいが、人から誉めそやされ、崇拝され、リッチになれたらもっと嬉しい」という至極尋常かつ当然な虚栄を抱き、ピリピリ痛む肥大した自我を隠し持っているのなら、君はもともとカナリアではない。

 世間知らずなカナリアである君が、生きるために不本意な生計手段を取る時、その周りには、喧しいだけで頭の軽いスズメの群、ガアガアと抜け目なさそうに立ち回るカラス、中華人民共和国国家主席か何かか?と思えるほど尊大にふんぞり返る鷲、「イエッサー!」の一芸だけで権力ハイエラルキーの樹の上部にしがみついている鷹、小太りで欲深な鳩の群を、「もっともっと餌が取れる秘密の方法」てなセミナーで誘き寄せて食い漁るハゲタカ、中には私のような正体不明のコウモリまでウヨウヨと棲息しているだろう。内閣総理大臣、経団連会長、ナントカグループ・ホールディングCEO、カントカ省事務次官・・・、それよりず~っと下にいる君のいけ好かない上司や、隣の煩わしい同僚、等々、いわゆる世間というものの構成員は、少数の清廉な人々を例外として、概ねこの隠喩の範疇に納まる。つまり君のようなアーティストが持って生まれた没我的で創造的な魂から見れば、性根の浅ましい、底の浅いウゾウムゾウがたむろする構造になっている。要するに、世間は殆ど上げ底だ。

 だから、怖れるな。

 人間とは不思議なもので、私を含めこんなウゾウムゾウでも、処世の仮面を脱ぎ捨てれば常に真・善・美に魅せられる。為政者や雇用者の喧しい濁声などに耳も貸さず、君の歌を聞きたがる。自身がスズメ、カラス、ハゲタカ、コウモリだと自覚していない者も、逆に自身の音色の醜さに自覚があって、慢性胃炎のような自己否定の感情を長年隠し持っている者も、最後には君の歌を聞きたがる。

 だから、今ある孤立・孤独を孤高として誇りつつ、一人でも楽しく歌え。

 カナリアとして生まれたら、他に生きる道はない。