#4 娘の就活、私の就活(その2) ~ ガクチカとボブ・ディラン | 吉岡 暁 WEBエッセイ ③ ラストダンス

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WEBエッセイ、第3回

 

                

 

 娘の就活を脇から眺めていると、つくづく時代の違いを痛感させられた。かなりの作業をネット経由で処理している。
 その頃娘がしきりに「イーエス」「イーエス」というので、何かと思ったらエントリー・シートの略だと言う。ESと聞いて即座にEntry Sheetと結びつく英語圏の人間は少ないと思うが、この業界では既に立派な普通名詞らしい。マイナビとかリクナビという社名は聞いていたものの、ここまで就活市場を仕切っているとはこの時初めて知った。

 私が就活生の頃は、せっせと大学の就職課(決してキャリア・センターなんてもんじゃない)に通い、かなりの量の履歴書を手書きした。当たり前の話で、私が就活生だった70年代初めにはPCもスマホもなく、ビル・ゲイツはまだハーバードの学生だった。
 「誤字・脱字厳禁」、「修正液使用不可」はもちろんのこと、「悪筆でも良いから、志望者の意気込みが伝わるように誠意を込めて書け」という職員の指示を聞いた記憶がある。

 悪筆だった私はこのカビの生えたような精神論に、(誠意を込めた悪筆ってどんな字だよ!)と反発したけれど、相手だって給料を貰って毎年同じことを繰り返し言っているだけだ、と推測するくらいの分別は既にあった。

 何であれ、私は「誠意を込めて」せっせと履歴書を書いた。
 しかし、根本的なハンデがあった。
私は文学部文学科を卒業見込みの男子学生で、言わば「俺は本当は就職なんかしたくない!」と大書したプラッカードを首から吊り下げているようなものだし、事実そうだった。

 「#2 文学部だけはやめておけ ~ 文学青年の辿る人生」に書いた通り、シルクロードや中東の国々を放浪してみたかった。つまり、「志望者の意気込み」なんか爪の垢ほどもなかった。
 それでも貧乏学生、働かなければたちまち飢える。これが『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンと一番違う点だ。この厳然たる事実にケツを蹴られて、幾つか面接まで受けた。

 当時も今も、文学部の卒業生が志望する人気業種は、おそらくマスメディアだろう。私も通信社、ラジオ局、出版社の3社を志望し、全部落ちた。実力、資格は言うに及ばす、もともと意気込みも足りないので、それであっさり諦めた。

 結果として、モラトリアムの権化と言うか社会不適合者の見本みたいだった私が、それでもサラリーマンになってしまったのは、ただ時代が良かったからだ。今とは違う。就職口など幾らでもあった。
 ある金属大手の試採用期間中のこと。
 埼玉の某営業所の社員寮に入った初日で、私はもう何もかもが嫌になった。かと言って口頭で採用辞退を告げてもその後処理に数日かかると分かっていたので、その夜、寮の一階の窓を開けて遁走したことがある。警報ベルが鳴るかとヒヤヒヤしたが、鳴らなかった。

 ガラ空きの東武伊勢崎線の電車で東京に戻る途中、私はぐっすり眠った。PCもスマホもネットもない、逃亡者でさえがまだのんきな時代だった。結果として何のお咎めもなかった。求人企業も求職学生も、どっちもどっさりいたからだろう。
 最終的に入社した機械メーカーの最初の勤務先は神田にあった。

 毎朝、ネクタイで首を絞め、中央線の満員電車に揺られながら、「どうせすぐ辞める会社だから」と自分に言い聞かせていた覚えがある。

 その会社に20年近くいた。
 その20年の内に、昔はフルバージョンで歌えたボブ・ディランの「風に吹かれて」も、冒頭の“How many roads must a man walk down ?” の一節しか出なくなり、いつしか平坦な市民生活の具象の海をクラゲのようにふらふら漂い、更に自営業の魑魅魍魎の深海に沈んだまま年月は流れ、遂にはガクチカに代表される浅薄で乾いた管理時代に漂着したという、ある種の因縁話の一席。
 とは言え、感傷混じりの回想に耽るのは、引退してからでも遅くはないだろう。

 現に2021年11月9日現在、ボブ・ディランだって元気に生きている。