栄久庵憲司さんの「道具論」第三章では、
「欲望と道具」の関係性について論じている。
人間の成長、豊かな暮らしは、
人間が持つ欲望の達成に依拠している。
満足度の質が、
欲望の第一次欲求の達成レベルを超えると、
次第に高度化し、マズロー曰く、
自己実現に向かう。
自己実現の世界は、
マスでは捉えられない個人の領域。
欲望が個別化すれば、
モノを提供する側は、伝達の困難さに困惑する。
投資対コストのバランスがとれなくなるのだ。
‥道具世界が、人間世界に欲望を誘い、
その欲望がさらに道具世界を広げる。
氏は言う。
この相乗効果が民族の力、国の力になると。
ここまで大きな話ではなくとも、
新らしい欲望の顕在化に対する、
モノの世界のイノベーションは欠かせない。
だから今は、モノそのものと同時に、
伝達する力、その方法にエネルギーが注がれる。
ネットの世界の活用は必須になったのでしょう。
変革は力である。
そこには、大きなエネルギーが必要で。
そのエネルギーが成長を促進する。
‥欲望は本能と違って、構築されるものである。
文明をすすめ、文化を深める原動力てある。
これが「道具と欲望」の関係性について論じる
最初の言葉であった。
現代の視点からすれば、
さらに関係性を構築するために存在する、
ネット世界がどのように創造を促進するか、
というテーマが加わってくるのでしょう。
栄久庵憲司さんの「道具論」第一章は、
道具寺山門見ゆ、というテーマである。
冒頭に、こんな一文がある。
‥進化とは人と道具の関係の進化、
でなければならない。
道具は、その人の生き様の反映、鏡である。
日本の近代化の道筋は、
戦後の貧窮からの脱出のための、
アメリカの物質主義への憧憬から始まった。
と氏は指摘する。
その後、道具は次々と進化をとげ、
便利なモノの創造は、人の欲望の上限を超えていく。
必要以上の利便性が提供されるようになり、
人が本来持っている肉体の機能そのものを退化させる結果に繋がった。
便利であることは、全ての目的ではない。
道具の過剰な創造により、
道具の遺骸がそここに出現する。
産業廃棄物、粗大ゴミ。
都内のマンションに暮らしていると、
引越しが行われる度に、
ゴミ置き場に遺棄される、
ソファー、食器棚、椅子‥。
それらが使える状態であることが明らかであっても、
使う側の人間が捨て去ることで、
道具の行き場がなくなる。
とても異様な光景だな‥と感じる。
道具とともに、このマンションでの生活全てを遺棄し、
その住人はどこに向かうのか?
道具と人間との関係性の調和。
道具を語る時、その思想がなければ、
日本は精神的に貧窮することは間違いない。
道具寺山門見ゆ、というテーマである。
冒頭に、こんな一文がある。
‥進化とは人と道具の関係の進化、
でなければならない。
道具は、その人の生き様の反映、鏡である。
日本の近代化の道筋は、
戦後の貧窮からの脱出のための、
アメリカの物質主義への憧憬から始まった。
と氏は指摘する。
その後、道具は次々と進化をとげ、
便利なモノの創造は、人の欲望の上限を超えていく。
必要以上の利便性が提供されるようになり、
人が本来持っている肉体の機能そのものを退化させる結果に繋がった。
便利であることは、全ての目的ではない。
道具の過剰な創造により、
道具の遺骸がそここに出現する。
産業廃棄物、粗大ゴミ。
都内のマンションに暮らしていると、
引越しが行われる度に、
ゴミ置き場に遺棄される、
ソファー、食器棚、椅子‥。
それらが使える状態であることが明らかであっても、
使う側の人間が捨て去ることで、
道具の行き場がなくなる。
とても異様な光景だな‥と感じる。
道具とともに、このマンションでの生活全てを遺棄し、
その住人はどこに向かうのか?
道具と人間との関係性の調和。
道具を語る時、その思想がなければ、
日本は精神的に貧窮することは間違いない。
栄久庵憲司さんの「道具論」に触発され、
思考の道具を考えることの試みを、
この道具論では展開したい。
著書「道具論」の序章は、
栄久庵さんの道具との出会いが克明に記述されている。
人間が生み出した創造の産物としての道具。
原爆投下後の故郷ヒロシマの街を彷醒している時に出逢ったモノ達。
特に一瞬にして瓦解し、焼け残された市電の残骸を見て、
氏は、道具を供養せずして、
人間を供養できるのか、道具と人間の関係性に気づきを発見する。
人間世界の裏側にある道具世界。
道具と人間の共生を求めて、
本著は書き込まれている。
‥‥おつきあいの仕方、
お互いの関係をよくしていくには、
ルール、作法、躾がいる。
これを求めていくのが、
人間による道具世界行脚という
フィールドワークの記録報告=
モノグラフとしての道具論なのである。
‥‥道具は人間のつくり出すものである。
だから道具世界は人間世界の映しでもある。
道具論はおのずから、
道具を通して人間を映しみる人間論となる。
これが序章で定義された道具論の論旨である。
思考の道具を考えることの試みを、
この道具論では展開したい。
著書「道具論」の序章は、
栄久庵さんの道具との出会いが克明に記述されている。
人間が生み出した創造の産物としての道具。
原爆投下後の故郷ヒロシマの街を彷醒している時に出逢ったモノ達。
特に一瞬にして瓦解し、焼け残された市電の残骸を見て、
氏は、道具を供養せずして、
人間を供養できるのか、道具と人間の関係性に気づきを発見する。
人間世界の裏側にある道具世界。
道具と人間の共生を求めて、
本著は書き込まれている。
‥‥おつきあいの仕方、
お互いの関係をよくしていくには、
ルール、作法、躾がいる。
これを求めていくのが、
人間による道具世界行脚という
フィールドワークの記録報告=
モノグラフとしての道具論なのである。
‥‥道具は人間のつくり出すものである。
だから道具世界は人間世界の映しでもある。
道具論はおのずから、
道具を通して人間を映しみる人間論となる。
これが序章で定義された道具論の論旨である。
栄久庵憲司氏の「道具論」は、
2000年10月に鹿島出版会から発行された。
栄久庵さんは、日本の工業デザイン界の草分け。
キッコーマンの卓上醤油さしのビンを開発してことでも有名ですね。
私が「道具」という言葉に触発されたのは、
1969年に栄久庵さんが出版した
「道具考」。
そこには具体的な人間世界に対する
道具世界の存在と、その意味する仮説が描かれていた。
この著作から31年後に、
道具論が纏められたわけですね。
仏門の家庭で生まれた栄久庵さんは、
道具との出会いを三つにまとめている。
故郷ヒロシマ。
原爆投下直後のヒロシマ体験。
原爆を戦争の道具として創ったのも人間、
そして使ったものの悲劇と、受けたものの悲劇。
その光景を見て、
‥美への帰依が道具の悲しみを救う。
という直感。
また、道具には生命がある、心がある、
という直感。
だから人間世界に対して、
道具世界があるのではないかという仮説。
道具は自ら道具を作れない。
だから、人間が作った道具は、
常に人間を見つめる。
こんな言葉の数々に、
私は多くの触発を受けたわけです。
考える道具を考えるというタイトルも、
栄久庵さんの「道具」という言葉から来ている。
栄久庵さんの道具はデザインとしての道具。
私の道具は、思考の眼に見えないものを見えるようにするための道具。
双方に共通するものが、人間の心、でしょうか?
栄久庵憲司氏の「道具論」を再読し触発されて、
少し書いていこうと思います。
2000年10月に鹿島出版会から発行された。
栄久庵さんは、日本の工業デザイン界の草分け。
キッコーマンの卓上醤油さしのビンを開発してことでも有名ですね。
私が「道具」という言葉に触発されたのは、
1969年に栄久庵さんが出版した
「道具考」。
そこには具体的な人間世界に対する
道具世界の存在と、その意味する仮説が描かれていた。
この著作から31年後に、
道具論が纏められたわけですね。
仏門の家庭で生まれた栄久庵さんは、
道具との出会いを三つにまとめている。
故郷ヒロシマ。
原爆投下直後のヒロシマ体験。
原爆を戦争の道具として創ったのも人間、
そして使ったものの悲劇と、受けたものの悲劇。
その光景を見て、
‥美への帰依が道具の悲しみを救う。
という直感。
また、道具には生命がある、心がある、
という直感。
だから人間世界に対して、
道具世界があるのではないかという仮説。
道具は自ら道具を作れない。
だから、人間が作った道具は、
常に人間を見つめる。
こんな言葉の数々に、
私は多くの触発を受けたわけです。
考える道具を考えるというタイトルも、
栄久庵さんの「道具」という言葉から来ている。
栄久庵さんの道具はデザインとしての道具。
私の道具は、思考の眼に見えないものを見えるようにするための道具。
双方に共通するものが、人間の心、でしょうか?
栄久庵憲司氏の「道具論」を再読し触発されて、
少し書いていこうと思います。
チリの落盤事故で閉じ込められた工夫33人が、
無事に救出されたニュースは感動でしたね。
この2ヶ月に亙る地中での生活がどのようなものであったか、
想像はできますが、本当のことは分かりません。
しかし、そこに、地上との、
明確な情報の交信が、生きる糧になっていたことは確かですね。
情報こそ力。
今度の事件では、
私はそんなことばかりを考えてニュースを見ていました。
一方、地上の日本。
情報を遮断されることで、
生きる糧を失っている人の何と多いことか。
どこにも閉じ込められていないのに、
閉塞されている日本の状況は、
文字通り穴の中にいるのと同様の状況なのでしょう。
情報の力で、
今の日本を、地中から救い出す方策はないものなのでしょうか?
無事に救出されたニュースは感動でしたね。
この2ヶ月に亙る地中での生活がどのようなものであったか、
想像はできますが、本当のことは分かりません。
しかし、そこに、地上との、
明確な情報の交信が、生きる糧になっていたことは確かですね。
情報こそ力。
今度の事件では、
私はそんなことばかりを考えてニュースを見ていました。
一方、地上の日本。
情報を遮断されることで、
生きる糧を失っている人の何と多いことか。
どこにも閉じ込められていないのに、
閉塞されている日本の状況は、
文字通り穴の中にいるのと同様の状況なのでしょう。
情報の力で、
今の日本を、地中から救い出す方策はないものなのでしょうか?