考える道具を考える -38ページ目

考える道具を考える

The instrument which I think

※内田 樹さんの「日本辺境論」(新潮新書刊)は依然としてベストセラー街道を突っ走っていますね。

※私もこの一冊の新書から啓発されたことが沢山あります。
 その中に日本人の学びについて触れた一節があります。日本人的師弟関係における逆説的な学びの極意とでもいうのでしょうか?

※つまり、師弟関係においては、師は弟子に何も教えない。「教えないこと」をして修業であると言い張る。弟子は、師のその態度に困惑するが、師が師である以上、師がそうするには何か意味があることだと考える。問題は弟子である私が、その「意味」を察知できないだけなのだと考える。

※自分が意味のあることをしているということを立証するために、私は何に意味があるのか良く分かっていないという愚かさを論拠に引っ張り出す。おのれの無知と愚鈍を論拠にして、おのれを超える人間的境位の適法性を基礎付ける。それが師弟関係において追い詰められた弟子が最後に採用する逆説的なソリューションなのだ‥というわけですね。

※学ぶということは、まずその誓言を成すこと。つまり、「私は学ぶのだ!」と宣言すること。
 この誓言を口にした時、人は「学び方」を学んだことになる。ひとたび学び方を学んだものは、その後、何を見ても、誰と会っても、どんな書物を読んでも豊かな知見を引き出すことができる‥‥というわけです。

※これが日本人的な、余りにも日本人的な師弟関係における学びの基本構造なのでしょう。説得力があります。だから、直接、師と仰ぐ人物に師事しなくても、この人が私の師だと宣言して、その学び方を学んでしまうことが、学びの極意なのだと解釈できます。

※辺境人の知の生き残り戦略の極意とでもいうのでしょうか?
 そう考えると、自分の個性に拘る必要もなければ、何か具体的な目標を持てない自分に悲観する必要もなくなりますね。全ては学ぶことに繋がるのですから、結果的に、何かは生まれているのだと信ずることが大切ということでしょうか?


NHKドキュメントの感想の続きです。

新聞やテレビが担ってきた世論形成の役割が、webサイトに移行するのではないかという仮説は、多くの人にとって何となく「そうかな‥」と思わせるだけの市民権を持ってきていることは事実ですね。

しかし、webサイトに掲載される記事が、どの程度信憑性があるか、まだその評価は決まっていない。何故ならwebサイトの規模や空間の広がりが、新聞の購読者やテレビの視聴者のように限定される規模を確定できない概念だからと言えましょうか?個人が自由に発信できるということは、その評価もまた個人がすることであり、世論というには個別過ぎるのかもしれません。


webの魅力は、そのスピード性にあるでしょう。

例えば、都内にいると、様々な場面で「事件」に遭遇することがある。その「事件」は、当事者に近ければ近いほど、「事件」の概要をつかむことができない。爆発事故や何かの大きな事件があっても、現場に近すぎると「何が起きているか分らない」のが実態ですね。

そこで、携帯を使ってネット検索する。しかし、その速報性は、大手の検索サイトに掲載されるまでには時間がかかる。新聞やテレビより早いかもしれないが、それにしても一定のタイムラグがあるのも事実。その時、Twitterや2チャンネルなどで見ると、その「事件」についての概要が既に書き込んである。現場にいてもその情報で何が起きているのかは分る。

これがwebの利点かもしれない。

情報の取得にかかるスピード感は、webサイトの多様な機能が達成してくれる。

しかし、その「事件」の客観的な評価はまた別だ。
それがどんな意味があるのか、どんな背景で発生しているのか、そんな深堀情報は、その後の「調査報道」によって明らかにされる。その発表形態が新聞であるのか、テレビであるのか、webサイトなのかは問わない。

大切なのは、やはり「真相」なのでしょう。
その「真相」に対する人々の関心は、情報に対する「知る権利」に通ずるものがある。

だからニュースの速報性とニュースの分析性は同居しなければならないといえるでしょうね。
webサイトに掲載される分析的信頼性は、専門家とチーム力と時間とお金が必要と指摘した元「調査報道記者」の言葉が記憶に残りました。


記事の信頼性は、それに書けた時間の蓄積の重みに比例する。
私はそう思います。情報は、練りこんでいなければフローされるだけ。
そこをwebが実現できるかが、webジャーナリズムの形成にとって必須のことなのでしょう。



アメリカの地方テレビ局、地方新聞社がバタバタと閉鎖されていく。
それに変わって登場するのは、webメディア。

ニュース番組がテレビの大きな視聴率稼ぎの実態であったものが、この10年間で25%の視聴率の下落。スポンサーが離れて行き、巨大メディアの経営悪化が続く。

さて、わが日本はどうだろう?
状況は変わらない。同じように日本の全国紙は、スポンサー離れが深刻だ。テレビ・ラジオ・新聞の広告で世界的な巨大企業になった大手広告代理店の皆様とお話しをしていても実感として伝わってくる。

評価の基準は、新聞であれば購読者数、テレビであれば視聴率。
読売新聞が1000万部、朝日新聞が850万部。
この数字はとてつもなく巨大な数字だ。

テレビもまた視聴率20%といえば、個人全体の視聴率計算でいけば、対象となる世帯内の4歳以上の家族全員を分母にしているので、4/20、つまり20人のうち4人が見ている計算となる。個人視聴率は1%が40万人だから、20%の視聴率とは、800万人が見たことになるわけです。(逆算は正確ではありませんが‥)

しかし、webの世界は、瞬間的に2000万アクセス以上は平気で超えている。サイトの視聴率計算はアクセスログの解析。広告ではクリック型広告のクリック数で計算される場合もあるので、これまでのテレビや新聞のような評価基準と一律に比較することはできない。

とはいえ、ニュースはwebサイトを見れば済むという感覚が浸透しているのも事実ですね。

NHKスペシャルでは一方で、新聞が持つ世論形成の役割の衰退から、民主主義の危機にまで話を展開していますが、確かに地域メディアは地域の人々の「情報」に対するニーズを埋めていたことも事実です。地域が地域として基盤を確立していく「情報メディア」が何なのか、しっかりと次のメディアの創造を考える必要はありそうです。

そして番組では、米国のある地域での新聞メディアの再生の活動も紹介していました。
しかし興味深いのは、住んでいる人々の個人の意見を集合させても、それは所詮掲示板に過ぎないという感想でしたね。個別の人々の意見を掲載するのと、メディアとしての機能とは明らかに違う。

個人の意見がどんな場所でもメディアに載る時代には、個人の意見の集合体、つまりは世論を集約する個人の知の力が求められるのではないかとも思います。

※新聞のweb化のシーンでは、webニュースの文字数は1400字以内で書くことが原則とか。今日は書き過ぎですね。反省。




多くの方が使っているのでしょうが、ようやく私も携帯で投稿出来る環境を手に入れた,

しかしiphoneが携帯電話であるはずはない。これは携帯PCでしょう。
様々なメール機能、web機能はPCとまったく同じ。しかも、モバイルPCと違って、ポケットに入る大きさと重さ。

今後、ipadが日本語対応で登場すれば、これは完全に電子ブックの流れは大きな転換となる。

思えば、1988年に、マッキントッシュが制作した 「Knowledge Navigator」の映像は衝撃的でしたね。このビデオがその後のIT社会の到来を予測し、未来を描いたのは有名ですが、コンピュータが開く様々なコミュニケーションの姿が具体的な映像で予言されたわけで、このときの記憶はまだ生々しく残っています。

この姿が、今、ようやく実現しようとしているのですね。
わずか20数年での発展。

1990年、インテルのアンディ・グローブが次の時代はモバイルコンピューティングの時代だと、日本のホテルオークラで発表した時のことも忘れられませんね。

ジャストインタイム・ビジネス。
ポータビリティ。

ネットワークの時代は、始まったばかりなのでしょう。


中国雲南省の少数民族の踊りを、
現代の舞踏の世界で再現してみせるヤン・リーピン。

BUNKAMURAでの公演は真っ盛りです。

巨大な月。
月光に照らされた切り絵のようなリーピンのシルエット。

人間の肉体が表現する、神への祈りの舞。
孔雀と化して融合しようとする人と自然と愛の世界。

巨大な太鼓が打ち鳴らされ、
天に向けての人間からの叫び!

優雅さと力強さと少数民族出身の若者達の集団演舞。
肉声の共鳴。

生の迫力は、感動ものです。

‥‥

これを舞踏と呼ぶのだろうか?
私の大好きな田中泯さんの「静の世界」とは違う、
大陸的な躍動で構成された「動の世界」がリーピンの描く舞踏といえるのか?

日本の何処にでもある筈の
土着の舞踏の世界を、
リーピンのように体系的な芸術の世界に止揚することができれば、
それはそれでとても面白いものになるだろうな‥
などという感傷も湧いて来ました。

一見の価値ありです。