※内田 樹さんの「日本辺境論」(新潮新書刊)は依然としてベストセラー街道を突っ走っていますね。
※私もこの一冊の新書から啓発されたことが沢山あります。
その中に日本人の学びについて触れた一節があります。日本人的師弟関係における逆説的な学びの極意とでもいうのでしょうか?
※つまり、師弟関係においては、師は弟子に何も教えない。「教えないこと」をして修業であると言い張る。弟子は、師のその態度に困惑するが、師が師である以上、師がそうするには何か意味があることだと考える。問題は弟子である私が、その「意味」を察知できないだけなのだと考える。
※自分が意味のあることをしているということを立証するために、私は何に意味があるのか良く分かっていないという愚かさを論拠に引っ張り出す。おのれの無知と愚鈍を論拠にして、おのれを超える人間的境位の適法性を基礎付ける。それが師弟関係において追い詰められた弟子が最後に採用する逆説的なソリューションなのだ‥というわけですね。
※学ぶということは、まずその誓言を成すこと。つまり、「私は学ぶのだ!」と宣言すること。
この誓言を口にした時、人は「学び方」を学んだことになる。ひとたび学び方を学んだものは、その後、何を見ても、誰と会っても、どんな書物を読んでも豊かな知見を引き出すことができる‥‥というわけです。
※これが日本人的な、余りにも日本人的な師弟関係における学びの基本構造なのでしょう。説得力があります。だから、直接、師と仰ぐ人物に師事しなくても、この人が私の師だと宣言して、その学び方を学んでしまうことが、学びの極意なのだと解釈できます。
※辺境人の知の生き残り戦略の極意とでもいうのでしょうか?
そう考えると、自分の個性に拘る必要もなければ、何か具体的な目標を持てない自分に悲観する必要もなくなりますね。全ては学ぶことに繋がるのですから、結果的に、何かは生まれているのだと信ずることが大切ということでしょうか?