Vorvadoss / Magic Find - Utterances and Arcana

ダンジョンシンセ、ダークアンビエント系アーティスト二人の過去作をカップリングした2枚組。VorvadossはCMIからのリリースもありかつEmperorのメンバーでもあったMortiisや彼のキチガイシンセプロジェクトFata Morgana,Cintecele Diavolui,及びそれ程キチガイでは無い喜多郎すら頭に浮かぶあの世の様なこの世サウンドのVONDを思わせる形容し難いチープさと広大無辺な音世界が並立する異形の世界観。ノイズ界隈のレーベルからリリースされるダークアンビエント勢とは全く異なったどこか別の世界を描き出してくれる。インダストリアルでは「賑やかし」などと過剰演出を嫌う私だがダークアンビエントに関してはこちらの方が聴いていて、単調に過ぎないので、楽しい。これは子ども期に喜多郎を聴いたせいかも知れぬし、PC黎明期に見ていたやたらと簡素でそれ故に想像力を刺激したロールプレイングゲーム、あるいは更にこれらを遡り童話:メルヒェンの世界にまで辿り着くのかもしれない。(一歩間違えばラウンジミュージックとすら言われそうだが)この辺りの雰囲気が好きな人や上記に書いたMortiis関連が好きな人はきっと気に入ると思う(またこれは暴論かも知れないがポンチャックが好きな人も一部の曲は気にいると思うんだよなあ)。
Magic Findは前者に比べるとはるかにノイズ寄り。漆黒の中を微かな一線の光がどこかの高みを目指して一途にその目的地へ向かっている。遠い遠い記憶の中に埋もれた夢で見た暖かな空気の満ち溢れる不可思議な空間。御伽噺のリズム。恐怖よりも安らぎを感じさせる暗闇。理解できない救いの声。狂った楽器の音が淀みを切り裂き淀みを作る。振動が歪みを生む。何かが執拗に繰り返される。音が流れている静寂。暗闇は実は目に見えぬ光に満ちた救いであり安らぎの場所であったのかもしれないと思えたところで突然に全てが終わる。
オカルトの知識があればもっと知り、楽しむことも出来ようが今まで「現実」にのみ目を向けてきた人間には至難の業だ。


 

ANENZEPHALIA / INADE / OPERATION CLEANSWEEP
 

ついこの間の若者達との交流の中で話題に上がった未だに海外から注文が入り、未だに弊社に在庫のあるロングセラー。2006年に行われた帝都掃討のライブに併せてリリースされたタイトル無しのコンピレーション。記憶は定かではないが社長との間でも「タイトルはいかがいたしましょうか?」という話は出なかったように思う。それは私達の間でこの三者の名前をジャケットに書くこと以上に意味のある言葉は無いという暗黙の了解の様なものがあったからと思う。

話は社内に逸れる。詳しい話し合いがもたれたことは無いが基本的に弊社はこと「ノイズ:インダストリアル」に関しては必要最低限の愛想を振りまけば良いというか愛想なぞ振りまく必要が無いというこれまた暗黙の了解の様なものがあるように思う。そのスタンスで行動しているので最後のGOの単独来日以外では所謂対バンというものは考えなかった。何故なら私達が、例えば最初のイヴェントである帝都制圧では、Genocide OrganとCon-Domだけ見られればあとは何もいらないと考えたからである(必要最低限)し、個人的な意見ではあるがこれ以外のバンドが出ることは過剰であるというよりも無駄:無意味であると私は考えていた。その考えは以降も変わらなかった。こういうスタンスの為、電子雑音誌上で「自分の見たい奴等だけを呼ぶ輩」というようなご意見:ご批判も承ったが個人的見解を述べれば「それの何が悪いのか?」と思っている。少なくない金額を払って海外から人を呼ぶのにそれ以外の何の理由がいるのか?それから出てくるおこぼれの金か?だとしたら弊社は副業可なのでバイトで不足分の生活費を稼ぐことが出来るのでその心配はいらない。シーンの興隆か?であれば私は性格が内向きかつ宜しくないので「シーンを盛り上げよう」などという理想:夢想とは無縁である。そもそも興隆させるのは「表現者」自身であり、私共では無いだろう。

話を作品に戻そう。とまあ上に書いたような早口で言ってそうな事を参加者に早口でメールしたわけでもないのだが計ったように出てきた音群は不愛想かつ必要最低限な物であった。今、改めて聴いて見ると「俺はひょっとして”出来るだけ不愛想な物を作ってくれ”と頼んだのではないか?」と思えるほどに徹頭徹尾無愛想でジャケットそのままのモノクロさなのだ。というか人の声が一切聞こえてこない不愛想極まりない名盤。1945の再発(因みにアプローチをしてきているのはTESCOでは無い。彼らの名誉のために敢えて書いておきます)は絶対に無いので代わりにこちらを聴いていただければ弊社のインダストリアルに対する立ち位置や社名に対するこだわりも感得していただけると思います。

PS
ちょっと愛想を振りまいているのは中に封入された三者の写真を収めたカード三枚か。名刺代わりと洒脱な事を考えて入れたのだとすれば野暮な私ではなく社外を含む他の方のアイディアだろう。

 

Linekraft-Bankrupt of Morals

1997年に廃業した某社を前面に出し、同封されたインタビューにあるように、日本的風土:気質にまで踏み込んで言及する一作。Cover Your AssとBankrupt Fuckersという曲名に挟まれて関係者の名前がずらりとタイトルに並ぶ。「組織に忠節を尽くす」とか言ってる頭のおかしなオッサン、不安を煽るような音の合間、不明瞭極まりない人声、どろどろとした情念を音化したかのような若しくは屍体を埋めた土壌から漂い出るガスの様な汚らしいノイズ、一時期嵌っていたらしいダンジョンシンセっぽい音色。例えば彼の近作「阿修羅」も令和時代に大正:昭和初期の混沌:狂気:陰惨を強烈に引き込んでくるというある意味オカルト的作品であったがこの作も同じく令和に末期昭和:平成の白痴化:停滞感:逼塞を阿修羅よりも更に陰鬱な形で引き込んだものと言えるかもしれない。私にはこちらの方がよりオカルトというか異界めいて聞こえるのはLinekraftにとって阿修羅達よりもここに揃った経済人の方が理解に苦しむエイリアンであるからか。最後は社歌(良く考えると会社の歌があるってのは凄いな。海外の会社にもあるのだろうか)がずたずたに引き裂かれて終了。「ノイズ」というジャンルの中に全ての雑多な雑音群が一緒くたに放り込まれていた90年初期(あるいはそれよりももっと前)の雰囲気が充満する名盤。作品を聴きとおして「誰かを思い出させる」と思っていた。その誰かとは今は亡きCriminal Party。あの時代をリアル体験した人にとってこの音群はある懐かしさを呼び起こすのではないだろうか、だからCPを連想したのかもしれない。

Atrax Morgue - Alive and Dead

2006年12月3日、URGAでのライブとあるから今から16年も前の事になる。その頃、私とMarcoのネットを通じての付き合いは約10年位だったろうか。

会場の扉を開けると何かを飲むでもなく彼は椅子に座っていた。始まったライブは意外にもアグレッシブなもので人を楽しませようとするギミックもあった(英単語の書かれたトランプを会場に投げ込んでいく。私が拾ったのはBLOOD)。いったん終演となった後、誰かが(私は今でも彼に感謝している)アンコールをせがみ、Marcoはそれに応じた。「永遠の夜が来る」と絶叫しながら床を転げまわるそのパフォーマンスはAtrax Morgueとして意外な物でもあり、また妥当な物でもあった。ライブが終わって少し話をした。「どちらかと言えば俺のライブはMorder Machineっぽいんだよね。その方がやり易いから」とのことだった。結局、彼とはライブ前もライブ後もそんなに多くを語らずにDeath-Orgasm Connectorにサイン(M.Nothing)を貰って一緒に写真を撮って、「ま、Marco相手ならこんなもんだよな」と思いつつ電子雑音にたまにレビューを書いていたUZIさんと一緒に新宿駅へ向かった。途中に通る歌舞伎町ではネオンの光を感知することが出来ず私の周りは全て白黒であった(強いストレスに晒されるとこうなるときがあるらしい)。

このカセットは購入以来一度も聞いていない。自己陶酔的な問いかけと思われると困ってしまうが、貴方・貴女は死んだ友人の創作物を鑑賞することが出来ますか?

 

V.A.- Men among Mice

「ノイズミュージック」から少し離れた辺りににあっち系の連中が集う場所があると私が気付いたのがいつ頃であるかもはやはっきりと思いだすことはできない。しかし入手経路すら忘れてしまった(RRR?)このCDがその「気付き」(アルバイト先で使われると鳥肌が立つ、なぜ資本主義語はこうも気持ち悪いのか)の一歩がこの作品であった可能性はある。恐らくはその不遜なタイトルに引かれて購入したのだろう。WARCOM MEDIAとそのリリース作品、またこの作品の参加者をdiscogs経由で少し調べただけでも今ならば「ああ、あの人か」と思える部分もあるが購入当時はノイズ至上主義者だった私は儀式ばったチープに荘厳な曲も含む当作品にはイマイチ魅力を感じることが出来なかった。

久しぶりに聴いてみて印象に残ったのは全て聞き取ることは出来ないながらもかなり不穏なことを話しているであろうJames Mason、如何にも当時のアメリカのパワエレもどきっぽいControl Resistance、アメ横の魚屋ほどではないが例のだみ声でHatefuck Bloodoathと分かるような分からないようなことを唸り続けるStreicher、日本以外ではMichael Moynihanがコンタクトする位だからたぶん私の認識が間違っているのだろうが、どうしても日本のメディアの只中にいる私からはサブカルおもちゃと見えてしまって好きになれないというか嫌いなんだが矢張り歌は良いCharles Manson、STATEARTのコンピでおなじみRobert X. Patriot(なぜこの人の曲は、その思想的バックグラウンドにも拘らず、こんなにヘンテコなのか)、そして前述のM.Moynihanが15歳の時に作ったCoup De Graceの早熟にもほどがあるトラックあたり。

繰り返しになるがお暇な時にそれぞれの系譜やリリース作を見ると意外な発見があったりして面白いです。

Primary

Anenzephalia -  MAGENTA

 

私が唯一全作品を全フォーマットで持ちそしてこれからも持ち続けるであろう男、Anenzephalia=無脳症。その魅力ついては2022年1月15日に持田保さんが主宰してくれたイヴェント、また彼の情報誌Fringe23の2号でも触れた。当作品は廃盤となっていた2018年作のCD再発。これはLinekraftの大久保さんの言だが「これだけ作曲の年が違うのにやっていることが全くぶれていない」のが彼の態度、思想の普遍性を思わせる。1992年から2013年にかけて生み出された群体は全て寡黙であり熱情に乏しく無表情にただ目の前をじっと見続けている。身近で音が鳴っているという感覚をもたらしてくれる群体は殆どなく全てがどこか遠くの方で我々の思惑とは一切関係なく鳴り響いているようだ(再び、大久保さんの言。「毎年、大みそかにこのアルバムを聴いている」。たしかにこの遠くで鳴り響いている感じは除夜の鐘の代替品となり得るかもしれない)。このどことも知れぬ世界から鳴り響いてくる不愛想極まりない音は現代社会に蔓延る無自覚症状の無脳症患者達の空洞の頭蓋から発信されるニヒリズムですらないニヒルなのか、または覚醒を促す別世界からの福音なのか。

私との会話で「神がいるとしたなら俺たちは蟻みたいなもんだ」と言った彼。
「俺は30年近く活動を続けてきたが世の中は何も変わらなかった。だから俺は活動を止めたんだ」と言った彼。
ふがいなくも私はその言葉に返答することが出来なかった。
私もまた「変わらなかった」一員であろうと思ったから。
その「世界は馬鹿らしさの中に窒息した」とも言った彼に正にいかにも「神的」な嫌がらせを行った「神」。
何かに突き動かされ活動を再開した彼。
思えば表現者とは自分が「蟻」であることを許せない「人」なのであろう。
私は音楽が社会を変えるとは全く思っていないが音楽を聴いて人の思想が変わり、結果として
何かが起こることはあり得ると思う(その殆どは個人的な物であろうが)。
その数少ない音楽を生み出せるのがこのAnenzephaliaだろう。

PS
アルバムが面毎に MAGENTA - GEN AM AT - AM AGENT - TAN MAGEと奇形化していくのが不気味。
baostaene(恐らく積木bausteinの奇形化?)という題名が妙に目を引く

昨夜、虫の音と合わせて当作品を聞いたが中々マッチして素敵な物だった
 

Forseti - Jenzig,Korn,Windzeit

20代後半の人から「自分が最後の日本人だと思っている」と聞いた。彼の年齢と今の時代の流れから言ってまあそれはほぼ間違いあるまいと私は思っている。一方ドイツに住む彼より25歳ほど年上の人からは「ドイツ最後の要塞より」と文末に書かれたメールが来た。既にドイツではドイツが滅亡の危機に晒されていると彼は感じているようだ。
Forsetiは1997年から2005年まで活動を続けたドイツのネオフォークグループである。活動中にJenzig,Korn,Windzeitとアルバム3枚を発表した後に中心人物であるアンドレアス・リッターの病気の為に活動を停止した。
ドイツの文化や風土、気候には当然色々な面がある。その中でドイツの牧歌的で穏やかな面を一番鮮やかに音で表現したのが、私の知るネオフォークグループの中では、Forsetiであると思う。これ見よがしに何かを誇示することもなく家にある楽器を友人達が持ち寄り、歌が上手いと言われる女性が時にアンドレアスと共に歌っている様な穏やかな作品。題材となるのは身近な自然やそれがもたらす身の回りの空間に対する繊細な感受性。それを通じて知る生の喜びと微かな寂寥感やからりとした諦念。そして自分がこの自然の中で何者であるのかを知りたいという願い。
たったこれだけの事を「ギターを手にし、ドイツ語で歌う」だけで「自称自由の戦士が”お前はファシストである”と責めたてる」状況に立ち向かわなくてはいけなくなるとかつてのインタビューで彼は言う。自分の故郷がドイツ、更に言うなら白人の国家であるだけでその国の自然、文化、そしてそれらが下支えをしてくれた上で「人」が持つ更なる高みに向かって飛翔して行きたいという願い、憧憬を歌うことは今の世では(と言ってもこの発言がなされたのは20年近く前なのだが)「ファシスト」の所業であるのか。それを歌うのを禁じるものは何か。目の前のことを処理する事のみに人間が特化されている資本主義の只中にある国の人間にはもうそれは許されないのか。その企みを覆い隠すためにpolitical correctnessはあるのか。経済的成功の為にそれを求めるものが放逐されるのが「国」であるならばやがてドイツにはドイツ人はいなくなり、日本には日本人がいなくなり、全てがGleichschaltung(ナチ用語、強制同一化)される日が来るのだろう。

 

 

V.A-Neuengamme

ドイツ北部ハンブルク近郊にあるNeuengamme強制収容所は私が成人後始めて行った思い出深いKZである。その近くのBullenhuser Dammにある学校内には当時を偲ぶ為に保存された地下室がある。最寄りの駅を降りてその学校に向かう途中、誰ともすれ違うことなく歩いた時間の止まった様な殺伐とした郊外の通りや恐ろしいほどに静かな光景を作り出していた運河を思い出す。天気は良いのに気は塞ぐ一方で漸く辿り着いた学校で「トイレにでも行きたいのか」という管理人達にある本の著者から貰った手紙を見せ、漸く地下室に案内してもらった。とても写真を撮る気にならないような重苦しい空間。そこからやっと解放され近くの薔薇園を散策するもそこにある犠牲者の写真を見て私はまた嫌な気分になるのだった。そのある本、「子どもたちは泣いたか―ナチズムと医学」(原題 Kinder von Bullenhuser Damm)に書いていることを何らかのソースでBF関係者が知ったのだろう。そして、悪趣味以外何の意図も無いだろうが、このコンピを作ったのだと邪推している。悪趣味さはさておき名作である。矢張り時代の暗さを反映しているからだろうか。1982年であればWW2は未だ生々しい記憶であり、恐らく戦後生まれであろう参加者達もそこから距離を取ろうとしても取れない時代であったろうと思う。結果として作品は時代の陰惨さから抜け出しきれずに、その意図の無さにもかかわらず、同様に陰惨なものとなり「ノイズ」のあるべき姿の一つを顕現した。思えばCome OrgやBFの似非ナチシンパ的振る舞いはもういい加減にあの時代を忘却したい、笑い飛ばしたいという若い世代の要請から生まれたものであったのかも知れない。この作品はしかしまだそれが十全に出来なかった時代の良き証左であるかも知れぬ。

PS
電子雑音にブートの写真を堂々と掲げてしまったのは私です。申し訳ありません。つーか、田野さんもオリジナル持ってなかったのかしらん。誰か教えてくれても良かったのに。
しかしあの焼死体(?)ジャケでもブートがあるらしいのでもう何が何やら。

PS2
DiscongsにこれをNeuengamme関係の団体に寄付した人の話があり面白く読める。

 

Militia - New European Order

最近の文学界を読んだところではアナキズムが注目を集めてるそうである。一体どこの誰の注目を集めているのかと「そもそも俺のアルバイト先の人にアナキズムと言って通じるのか」としがない一労働者は思うのだが高尚な人々の世界ではそうとされているのであろう。高等遊民、羨ましい事である。という訳でエコアナキストのMilitia。デスインダストリアル周辺のアーティストの物言いに反発を覚えたことは無く逆に惚れるのだが彼らがEco-Anarchic Manifestoで「俺たちの築く社会は完全に自由だけど人々は無神論者でないとダメ」という素晴らし過ぎる理論に無学な私は付いていけず、「反発すると面倒な人が寄ってくるであろうし己の無知をさらけ出す可能性がある」という予想の元に反社会的音楽を求めてでもその事には触れなかった。音も好きだったし。そのMilitiaを初めて聞いたのがこのアルバム。MerzbowのDadarottenvatorとTaintのIndecent Libertiesのリリースから活動を始め、後にWar against societyなどというストレートすぎる3枚組LPを出したドイツのレーベルPraxis Dr. Bearmann(彼らの功績はもっと知られてよいと思う)からのリリースである。題名に反して音色は「NEW」という感じはしない。コンピューターよりも蒸気機関の世界。その思想にまだ現実味のあった古き良き時代を回想でもしてるのかしらんと思ってしまう。アナキズムの理論家が書いた本は一冊も読んだことが無いしまた読むことも無いだろうが、この哀愁&郷愁を帯びた1920年代・大正時代っぽい古臭さは何度聞いても飽きが来ないし、またこれから何度となく聴き込むだろう。old europa cafeから再録されたCD再発されたが「お前らオリジナル持ってないだろ、ザマーミロ」という意味ではなく純粋に音的な観点からアナログ盤の方が個人的には気に入っている。


 

SOCIETE ANONOMIE / THE DADAROTATOR

その昔にFM誌上でソニックユースが「私たちが演奏しようとすると(ある種のファンが)そんなのいいからノイズを流しとけって言う」という趣旨の事をインタビューで話していた。私が「そんなのいいからノイズを流しとけ」派なのは言うまでもない。となると、それなりの数の音源を持っていながら、果たして私は「音楽」が好きなのかと自問自答してしまうわけだがまあそれは置こう。という訳でSOCIETE ANONIMIEとTHE DADAROTAOR。ノイズを「情報」として愛する輩向きにはPAUL HURSTだとかPRODUKTIONだとかいう床屋とかの話があるがそんなことはどうでも良い。垂れ流しオナニー愛好家目線で話を続けるのでこの辺りを有難がっている人は以降は読まない方が良かろうと思う。全てMENSTRUAL RECORDINGSからの再発盤を聴いての「感想」である。まず SAの#1、1曲目に「しつこいんだよ、お前!」とイラついてくるぐらい執拗に繰り返されるDINGOS GOT THE BABYという女の声+雑音。15分くらいあるので「ああ、ウルセー」とうんざりして途中でスキップすることがままある。その無間地獄が終わるとさて始まるのは垂れ流しオナニーショー。色々音作りで苦労されたのであれば誠に申し訳ないが正に「そんなのいいからノイズを流しとけ」の世界。確かにある種のパターンや作為めいた作りを感得することは出来るのだが兎に角、音が籠りまくっていて光彩を放つものが一切ない為に色盲というか音盲状態にされてしまい「音が鳴ってるからいいや」状態に連れ去られて気持ちよくなれるが後半にかけて昭和のエロビデオみたいな音楽が始まりオッサンの喘ぎ声?呻き声?みたいなのが聞こえてきて嫌になる(またここも無駄に長い)。それがやっと終わると今度はGENOCIDEと言い続ける男となんて言ってるか分からない(一部、オナニーと聞こえる)女の声。これも長くてうんざりする。DADA絡みで解釈するべきなのかもしれないが私は垂れ流しオナニー愛好家なのでそういうことはしないし出来ない。本当にこんな(地球上の殆どの人にとっては)どうでも良い物をよくぞ作った&またそれを再発したと感心させられる。次はNEW CASTLE大學でのライブを収めたNEW CASTLE 27.3.83。音籠りまくり。仰々しい音楽で始まるオープニングから始まるが垂れ流し度が凄い。変なギミックが無い為に笑えるくらいの音盲状態に入れる。ライブ会場の様子はどうだったのだろうか恐らく映像位は流してくれたと思いたいが音だけだったらこれを起ちっぱなし・立ちっぱなしで聞くのは辛かったろうと思う。1曲目は垂れ流しオナニーの定番通りにブツッと終わり、2曲目後半申し訳程度の拍手の後に客が退場するところ(?)まで録音されているが演奏がどこで終わったのかも判然としない素晴らしさ。そしてTHE DADAROTAOR。KURT SCHWITTERSの文が載っているのでまあ矢張りそういう文脈で作られているのだろうがそういう事を考えるとこの作品の純度が下がるとオナニー愛好家的には思うのだ。ラジオの選局つまみをいじって自家製コラージュをこしらえたことは年寄りなら誰でもあるだろう。それに通奏低音が被せられたものがこれ。言う事なしの名作。好評だったのか100限定の再発の後、別ジャケットで再再発された。