LINEKRAFT - HUNGER FOR LIFE

2023年1月に桜台POOLで行われたライブ録音の前後に録音曲を付したフルレングス。当のライブは大久保さんの意見開陳と観客との応答を含むもの。その場面でとある質問者から「大久保さんの作品に触発され所謂、犯罪行為をリスナーが起こした場合にあなたはどうするのか」という趣旨の質問が出た。後で聞くと質問者の意図は、当然のことながら、大久保さんを倫理的に断罪するものではなく、受けて立った大久保さんも、会話中に生じた無言の数秒間を慣れ合いの微笑や意味のない言葉で埋めなかったことから考えて、恐らくこれは真摯な質問であるということは理解されていたように思う。ただ二人の「革命」観、「捨石」観の相違と限られた時間内での遣り取りであったということから生じざるを得なかった僅かな差異が沈黙としてあらわされるしかなかったのだと思う。
 

「ノイズミュージック」が今ほど人畜無害なおしゃれアイテムとされていなかった頃に発せられていたようなゴリゴリした音に不穏なドローンが絡み、誰かが何かを、静かな声ながらも、必死の思いで話しているのが聞こえてくる一曲目。以降、ライブ実況となる。改めて全編を冷静に聞き直すと、全体的な音の作りは欧州風とは言え、この混沌はいかにも日本的なのだなと思わされる。荘厳ではない静けさ、脳を麻痺させるような金属音の繰り返し、システムを作り上げる音と奈良の事件や暗殺秘録や街宣(?)の重なり、任侠的な暴発型暴力そのままの雑音と声、そして最後の檄。「行動せよ!」と言いながらも、安易な寄りかかり、連帯を全く求めないその態度は大久保さんとの対話時に時として現れるそれと全く同様のものだ。最終曲はタイトル通り、生きることへの渇望で締め。
 

作品外容も生者が死者となって帰ってきた有様を示す写真と日本語、英語で書かれた高橋和巳「邪宗門」からの一節で彼の身中に渦巻く奔流にそのまま身を預けたような作りとなっている。

ANENZEPHALIA – PERFUMED DEATH

「二十年間活動してきたが世の中は変わらなかった。だから俺は活動を止める」と2016年に吐き捨てた男。だが時ならずして復活した。この復活はプロレス的なそれではなく彼なりの使命感、若しくは三つ子の魂百まで的なある意味忌まわしい宿痾の様なものかも知れない。本人の意志や業とは関係なく一リスナーとしては単純に喜ばしい事ではある。
2023年7月13日。アルバイト先から無脳症状態のまま帰宅した私はドイツからの小包の中に当作品を見付け、再生した。その時の気分を孤愁と書いたがもうちょっと何か焦点の合った言葉が無い物かと脳の無いまま薄ぼんやりと考えていた。兎に角、「孤」という言葉が纏わる感覚を聞きながら感じたのである。茫漠とした、周りに誰も居ない上に何もない、だけれどもそこは宇宙空間などという一種ロマンを掻き立てるような場所でもないという。
翌日、アルバイト先に向かう道すがら昨日のあの感覚は何だったのかを考えていた。そこで唐突に記憶に浮かんだのが三島由紀夫の豊饒の海、そして天人五衰。聡子に「それも心ごころですさかい」と突き放され、「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまった」本多の心境。虚無と言う言葉すら追いつかないような虚無。ドナルドキーンが「豊饒の海」の意味を三島に尋ねたところ「月のカラカラな嘘の海を暗示した」との返信を受け、そのニヒリズムにゾッとしたとNHKで語っていた事も思い出した。「何も変わら」ない世の中に対峙する虚無。脳の無い人間に向かって無脳症と言い立てる虚無。既に死んだ世界で「世界は馬鹿らしさの中で窒息した」とがなり立てる虚無と徒労。これはさてSthalmessiasなのかNihilists sermonなのか。
特異な精神状態の再現は困難であり、事後あの広大無辺な茫漠への誘いは訪れないがいずれまたそこへ行きつくこともあるかも知れぬし、一リスナーの心理状態とは関係なく貴重な音源であることは間違いない。

 

 

 

 

1. Erehwon,混沌の首共に「音楽」というよりは「芸術」のフィールドで活動されていることが多いかと思います。私は「音楽」のフィールドにいるものと思っていますので「芸術」のフィールドにここまで純粋にノイズ的であるユニットが存在することに驚き、またもっと「音楽」のフィールドにいる人に両者がアピールされたら良いのになあと思うことが多いです。実際活動されているお二方はこの「フィールド」の違いによる各々の表現活動の受け取られ方、広まり方の違いを感じられてますでしょうか。若しくはあまり気にされていませんか

 

羅入

混沌の首は複数ジャンルを横断する表現ゆえに、美術、文学、音楽、演劇、舞踊、映画などの総称である「芸術」を冠し「密教系芸術集団 混沌の首」と称しております。これまでに美術館、ライブハウス、神社仏閣、大学、アートフェスティバルなど様々な場で儀式(ライブパフォ-マンス)を行って参りました。なかには観客などをおかない純粋な自行(自分の悟りのため行う修行)もあり、言うなればそちらが本質です。混沌の首は私が10年ほど行っていた演劇活動に区切りをつけ、より内的にとはじめた瞑想会が母体となっております。2008年に山奥で火を焚きErehwonの爆音で夜通し激しく動く原始宗教的な瞑想会を行い、その時の体感と一年間ほど積み重ねた瞑想会の手応えから、瞑想を表現へと展開できると考えました。山奥の爆音ノイズ瞑想会では書き溜めた写経を火に焚べ「根源」へ御奉納したのですが、燃え盛る炎に煽られたお経の束が舞いあがり、暗闇へ金色の火文字が刹那描かれ消えゆく様を見た時は荘厳な美しさと靈の現れに心が震えたものです。そうして劇団にゲスト参加していたErehwonの石川雷太さんとダンサーの神林和雄さん、劇団を共同主宰していた細野紅葉さんはじめとする瞑想会参加者数名をお誘いして混沌の首を発足致しました。瞑想会では長い時間をかけて丁寧に誘導しておりましたので、瞑想会参加者にコンセプトを説明した際はライブという30分程度の短い時間で瞑想を深めるのは無理だと訴えられましたが、そのように自分の内面が伴わなければ意味が無いと思える方々であればこそ出来ると私は確信を深めました。

「フィールドの違いによる表現活動の受け取られ方」は、結局のところ列席者や観客など受け手の問題に存じます。「音楽」のフィールドでももっと活動したいのですが大所帯のせいかあまりお声がかからず残念に思っております。実は最少人数2名から対応可能なので気軽にお誘いいただけたら嬉しいです。

 

雷太

Erehwonの活動は、コンテンポラリー・アート(現代美術)のインスタレーションの拡張として、展示された_鉄板を叩くという行為から始まりました。その意味では、60年代のハップニング、フランスのヌーヴォー・レアリズム、日本のゼロ次元やネオ・ダダやもの派などのアヴァンギャルド・アートの系統に属すると言えます。しかし、西洋的モダニズムの標榜した「純粋芸術」という考え方には懐疑的で、アート/芸術は常に既成の世界観や価値観のブレイクスルーを促し、世界の脱構築を担うべきものだと考えています。その行為の過程においては、様々なジャンルの壁を破壊し、「美術」「音楽」「文学」「言葉」といったカテゴリーを無化し、多くの人々が自明なものと捉えている「人間」というイメージそのものの解体をも目的とするものです。

 

アート/芸術はノイズであるべきです。そしてノイズは自律的なものであるべきです。古くから多くのシュルレアリストが語ってきたように、「人間」的な合理主義や「人間」的な欲望に回収するべきではないと考えています。それを「私やあなたの快楽」に奉仕させることは、ノイズに対する搾取であり、アート/芸術の死を意味します。叩かれた金属板が発する音と火花、その剥き出しの物質性が、仮設された世界の虚構性を暴き、私たちは世界の実相を目のあたりにすることでしょう。このことは、TGやSPK、ノイバウテンといったインダストリアル・ミュージックの先駆者たちが現前させたダダイスティックなヴィジョンと通底するものだと感じています。

 

しかし、一方で、様々なジャンルが存在していることを否定はしません。私たち人間はそのような回路を通してしか、世界の実相に触れることができないからです。そしてまた実際の現代社会の中で、ノイズを一般の人々にまで広く体感させ認知させるためには、それを可能とする「場所」が必要となります。「音楽」「美術」「アート」「芸術」といったフィールドがそれにあたります。各ジャンルが極めて人間尺度の概念であるが故に最終的には捨て去るべきものなのだとしても、私たちの活動をそれらの概念が守ってくれているのは事実であり、故に私たちもそれらを大切にし、ツールとして最大限に活用することが望ましいと考えています。「音楽」も「美術」も「アート」も「芸術」も、私たち自体の自律性、物質世界の自律性を脅かすすべての敵にアタックするための武器だと思っています。

 

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2.また日本で「音楽」としてのノイズというフィールドで活動している人々は殆ど現実社会への意見表明を表だってすることはありません。それに対してお二方は非常に積極的に意見表明をされているように思います。この辺りの違いが生じる理由は何だと思いますか。

 

羅入

私にとっていわゆる「現実社会」は平面的な作り物のようでリアリティが薄く、人間に対しても社会に対しても少し後ろから眺めているような感覚です。しかし2011年の原発事故によって否が応も無く現実社会に引きずり込まれ、仮にも一人の人間として意見表明せざるを得ませんでした。当時横山さんが「国家がこんなにも簡単に自分を殺すことを知った」とおっしゃっていましたが、その意味で311は私にとっての戦争体験だったと捉えております。権力に自他の命が脅かされる体験をした者にとって権力の暴走は見過ごせぬ恐怖のはずなので、今の日本において「現実社会への意見表明」を行わない表現者は(稀な役割を担うごく一部を除き)残念ながらイノチに鈍感なのだと思います。政治へ意見するには知識が必要だと構え発言できなくなってしまう場合もあるようですが、「殺すな*」の一言で伝えられるのが表現者の強みであり、ええじゃないか**のうねりを盛りあげるのも表現者の得意とする部分であると申しあげたいです。

 

殺すな*:1967年、べ平連(日本のベトナム戦争反対の運動体)が米ワシントンポスト紙に、岡本太郎によって書かれた「殺すな」の文字の全面反戦広告を出した。これに影響を受けた前衛芸術家ダダカン(糸井貫二)は、「殺すな」と書いた紙を掲げて路上を走るハプニングなどを行った。現在日本で行われる反戦デモや反原発デモにおいても、多くの人が「殺すな」の自作プラカードを使用している。

 

ええじゃないか**:1867年、江戸時代末期に起こった社会現象。民衆が女装・男装・仮装するなどして「ええじゃないか」の囃子言葉を大合唱しながら集団で町々を練り歩き熱狂的に踊り狂った。囃子言葉と共に政治情勢がうたわれたことから、世直しを訴える民衆運動であったとされる。

 

雷太

政治的な発言をするかしないかというご質問かと思います。私の考えでは、私たちひとりひとりが社会を構成するパーツだとするなら、私たちが生まれて生きているということ自体が既に政治的な事件なのであって、故に政治的でない表現というものは存在しないと思っています。時の首相や政治体制を激しく批判する表現が政治的であるなら、自分の飼い猫の生死や生命の尊厳を語ることもまた政治的なのです。直接的な言葉で政治的な内容を語っているか否かにかかわらず、主体的/自律的に発せられる表現はすべて常に既に政治的だと私は思います。

 

別な角度から、テロルという観点から言えば、日々私たちが見て感じて自明なものと捉えている世界は、実は人間に都合のいい情報だけで構成されたイメージ、言葉でコントロールされた仮構の「現実」にすぎません。その「現実」の中に、物質世界の断片、あるいは、無意識/潜在意識の領域からの断片、すなわちノイズが流入する時、それは人々が日常的に従わされている仮構の「現実」や「制度」に対する暴力として機能します。歴史上の多くの支配者たちがアート/芸術を忌み嫌ってきた理由がここにあります。

 

私たちがアート/芸術を通して、ノイズによって言葉の専制にアタックしようとする時、それが「現実」に対する「テロリズム」と呼ばれたとしても至極当然のことです。そして、私たちやあなたが、既存の概念や仮構の「現実」に固執し続けようとするならば、発動されたテロルによって、私たちの身体、あなた自身の身体そのもが戦場になるのだということも付け加えておきたいと思います。答えを出すのは、私自身でありあなた自身だからです。Erehwonは活動開始当初から「サイキック・レフト」を提唱していました。これは混沌の首のスローガンでもある「靈的革命」とも通ずるものです。私たちは人間レベルでしか通用しない偏狭な価値観や世界観を捨てるべきです。

 

多くのアーティストに対して言いたいことは、自分が行う表現、「アート」も「美術」も「音楽」も「ノイズ」も、現実から逃避するための「避難所」、自分が立て篭もるための単なる「幻想」へと貶めてはならないということ、「役に立たない」という妄言にだまされるな、ということです。私はすべての人が表現者になれば世界は確実に変わると思っています。そして、愚かしい人間ばかりが支配する強権的な世界は絶対に変えなければならないと思っています。そのためにはあらゆるレベルでの、美しくポジティブはテロルが必要なのです。

 

 

 

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3.雷太さんがおっしゃったと記憶しておりますが「自分を供物として饗する」表現活動として神社での奉納ライブを行っているとの発言がありました。その様にお考えになる経緯を教えてください。また実現には、神社側との折衝など、困難が伴ったともいますが神社側では最終的にその「自分たちを供物として饗する」というコンセプトに対し理解をされたのでしょうか。またライブ終了後の彼らの反応はいかがでしたでしょうか。

 

羅入

私の帰依する真言密教における根本仏の大日如来は宇宙真理そのものであり、一切の諸仏諸尊*は大日如来の化身とされます。そして仏教と神道が混ざり合う中で神々も仏の化身とされました。明治政府による神仏分離政策(神仏判然令)**以前の長い間日本の信仰は神仏習合が当たり前で、言ってしまえば「仏も神も同じ」でした。そのような大らかさは宗教以前の信仰、自然を畏怖し「カミ」があまねくに宿ると感ずるアニミズム的靈性が根底にあると考えます。私はアニミズム的靈性の源である全ての大元を「根源」と呼んでおり、それは哲学用語の「arche(万物の始源)」が近い概念かと存じます。また、真言密教の目的は「即身成仏***」ゆえに究極には「人間」=「仏」=「神」となります。人間視点の説明として「自分たちを(根源への)供物として饗する」とお話しする場合もございますが、誤解を招きやすい表現でもあるので、奉納ライブの際などはアメノウズメ(巫女的な性格を備えた日本の芸能の祖とされる女神)の天岩戸開きなどを引用しお伝えすることが多いです。ライブ終了後の反応は様々です。

 

諸仏諸尊*:如来、菩薩、明王、天部(古代インドにおけるバラモン教やヒンドゥー教などの神々が仏教に取り入れられたもの。梵天/ブラフマン、弁財天/サラスヴァティー、歓喜天/ガネーシャ、など)など広義の仏の総称。

神仏分離政策(神仏判然令 1868年)**:明治政府が神道の国教化政策を行うため神社から仏教的な要素を排除した。これにより廃仏毀釈運動が起こり多くの仏堂、仏像、仏具などが破壊された。そして後に天皇は国家神道の最高祭司となり神聖不可侵の現人神とされ、昭和期における帝国主義的政策推進の役割を担った。

即身成仏***:生きながら仏に成る、つまり悟りを得ること。生きながらミイラになる即身仏とは異なる。

 

雷太

アーティストはメディウムだと思います。例えば、私はほとんどものを考えていません。正確には、思考は無意識/潜在意識が行っているのであって、私はそこから降りてくる断片を綜合し言葉や物質(作品)に変換しているにすぎません。主体は物質の領域と無意識/潜在意識の領域にあり、それを形として実体化させているのが「Erehwon」であり「石川雷太」であり「混沌の首」だといえるでしょう。鉄を叩くという行為によって物質の実相が現れる、_意識の機能を低下させることによって無意識/潜在意識の機構とシュルレアリテが顕在化する。神社や野外でのパフォーマンスや展示も同じで、場所や状況が持つ潜在的なポテンシャルを現前させる(羅入さんの言葉を借りれば霊場化する)ことが目的です。

 

神社の方や野外展示の場所の提供者が事前事後にこのことを理解してくださっているかどうかはわかりませんが、それは大した問題ではありません。私たちの行為が人々の理解の可能性の端緒となればよいと思っています。

 

 

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4.若し全てが許されるのならどこでどのようなライブをしたいですか

 

羅入

朽ちゆく死体を目の前に瞑想する「不浄観」ライブを行いたいです。

 

雷太

「Erehwon」も「石川雷太」も、その作品は多種多様な引用によって構成されています。鉄板や鉄パイプ、大量のガラスの破片、骨、血液、肉、放射性鉱物、武器、TVニュースの画像、ノイズ音、さらには観客の手によって実際にボードや壁に書き込まれてゆく言葉や絵まで。それらの要素の最も強度のある組み合わせを志向します。作品は触媒であり、静的な社会を活性させる起爆剤であるべきだと考えるからです。

 

「ライブ」の定義にもよりますが、現在の日本人の無垢な精神を最も蝕んできたと思われる国家神道と国家主義の後ろ盾として捏造されたテーマパークである靖国神社や皇居を可視化する何らかの行為をそこで行うなどは面白いと思います。しかし単なる犯罪として退路を断たれるようなやり方は賢い方法とは思えません。私は腹切や神風特攻のような自滅の美学などは完全に否定しますし、そもそも私たちの生命は私たちの自己実現のための道具ではありません。それよりも、時間がかかることかもしれませんが、人々の精神を鼓舞し、それ自体の意義と自らへの尊厳をそれぞれに取り戻させることによって、世界を正常化していくことはできないかということをいつも考えています。

 

 

 

 

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5.ライブ後に羅入さんが「事ここに至っては」かなりラディカルな方法で訴えるしかなかったというようなことを文章に書かれていた記憶がありますが今持っていらっしゃる危機感について教えていただけますか。また混沌の首のパフォーマンスを通じ、そのような状況の打開が可能であるとお考えでしょうか。

 

羅入

日本に限れば「国家権力の暴走」への危機感であり、その根底にあるのは「イノチを尊べない人間たち」への危機感です。社会状況の打開を可能とするのは大勢の人間の行為でしょうから、混沌の首のパフォーマンスは行為のきっかけの一つに過ぎません。本来、混沌の首は「革命」という側面においては「根源」に開き共振し表層世界(現実社会)を動かす「靈的革命」を担うものであり、本音を申せば私が現実社会に言及するなど世も末だと思っております。

 

雷太

ヴィジュアルを多用するのも「Erehwon」の特徴です。3.11以後、ここ数年のErehwonのライブでは、ガスマスクと防護服を着用し、福島第一原発の放射性廃棄物ドラム缶をステージ上に配置しメタルパーカッションとして使用、東日本大震災と原発事故のニュース映像のカットアップなどを映写するというスタイルを続けています。状況が許せば、放射性物質が降った福島や茨城の被災地の土を会場に持ち込み、その放射線量をガイガーカウンターで測り警告音を人々に聴かせるというパフォーマンスも行っています。これらは、情報に基づいた思考ではなく体感に基づいた思考を促そうとするものです。人間レベルではない世界の実相を顕在化させるとともに、人間存在の有り様を逆説的に照射する行為でもあり、偏狭な欲望に囚われた私たち人間に対する警鐘でもあります。

 

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6.リリース作品が極端に少ないのが誠に勿体ないと思うのですが以降も、リリース作が少ない、という活動の仕方に大きな変化はなさそうでしょうか

 

雷太

記録物よりライブにおける体感に重点が置かれてしまうので、どうしても結果的にリリースが少なくなってしまっていました。今後は多くの人々に私たちの活動を知っていただけるよう、音源リリースにも力を入れたいと思います。ライブ、リリースともにお誘いいただければ幸いです。

 

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7.最後に何かあればお願いします

 

羅入

 

「根源」とは人間が人間を保てぬが如き混沌の激流であり、それを宗教は人間が近寄れるよう整えたと私は解釈しております。ゆえに古い信仰の「カミ」はより生々しく恐ろしいのでしょう。私は「根源」に開きやすい場を「靈場」と呼び、儀式(ライブパフォーマンス)をもって場を靈場とします。人前で儀式を行う目的を端的に申せば「靈場を顕現し、自分含めたそこに在る生者も死者も合わせて根源に開くため」となります。その先は個々の問題です。

いま、記紀以前の古い「カミ」が見え隠れする「諏訪*」に強く惹かれております。諏訪とのご縁は、2021年に東京で開催されたフランス人キュレーター、アレクサンドル・タルバさん企画の「バーチャルの具体性展」における松澤宥*さんとゾエ・シュレンバウムさんのインスタレーション空間にて儀式を行ったことがきっかけです。お二方の展示空間は特別に靈的でしたので、儀式をするにあたりゾエさんが作品の素とした灰を頂いた下諏訪の小さな祠と、同じく下諏訪に残る松澤宥さん**の自宅兼アトリエ「プサイの部屋」にお参り致しました。そこで諏訪の靈威に触れ、見えないものに対峙し続けた松澤宥さんが生涯諏訪を拠点としたことが腑に落ちました。高野山開創1200年にあたる2015年に、土生川正道前官(はぶかわしょうどうぜんかん)のご指導のもと私が加行***させて頂いた高野山の無量光院にて「高野山アニミズム展」という美術のグループ展を石川さんと企画したのですが、アニミズム信仰の聖地とも言える諏訪でアニミズムをコンセプトとする企画の第二段として儀式、パフォーマンス、ライブ、講義、展示などを行いたいと漠然と考えております。

何にしろ、目に見えないものは言葉で説明しようとすればするほど本質から離れてしまうものなので、目に見えないものにこそ実(じつ)を感ずる方およびそれを求むる方は、ぜひ混沌の首をご体感ください。「根源」へ真摯に向かう方々と共振し、境界を破壊できることを祈念いたします。

 

諏訪*:現長野県の地域。旧石器時代や縄文時代の遺跡が多数あり国宝の土偶や土器も出土している。パワースポットとしても人気が高く、日本最古の神社のひとつとされる諏訪大社がある。「諏訪」の信仰は、仏教・神道に対しても独自の習合を成している。

松澤宥**(1922-2006):下諏訪町に生まれ、同地を拠点に国内外に芸術を発信しつづけた日本を代表するコンセプチュアル・アーティスト。42歳の時に「オブジェを消せ」という啓示を夢の中で受けた。

加行***:四度加行のこと。真言密教において、行者が阿闍梨となるための伝法灌頂(真言宗では伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て正式な僧侶と認められる)を授かるに先立ち行う修行。

 

雷太

「Erehwon」のライブの最終到達点は「Erehwon」が消滅すること。「アート」の最終到達点も同様、その有用性は過渡的なもので、「アート」は最後に投げ捨てるべきものだと考えています。「Erehwon」や「アート」が存在しなくとも、根源的な力学に従い世界が普通に動き続ける状態が実現できるなら、それが理想です。その力学の上では人間の有無も関係ありません。私自身もパーツでしかありません。「Erehwon」や「アート」や「私」もその過渡的な装置にすぎません。

 

「根源」「霊場」「物質界」「器官なき身体」「シュルレアリテ」等々、真意が伝わるようにとやむなく使う言葉が増えていってしまうのですが、言葉は指示体にすぎず決して本質を射抜くことはありません。言葉にすればするほど本質から遠のく気がします。やはり重要なのは、体感であり、現実の音であり、そこで今ここで現に動いているであろう無意識下の力学なのです。意を共にできる世界中の多くの皆さんと直接的な交流、交感ができる機会が得られれば嬉しく思います。

All Those Tears Ago - Grave of Love

ポーランドのネオフォークの2作目。ポーランドと音楽と言えば冷戦時代にあるパンクバンドがあってそのバンドのギターがクビになった理由と言うのが「奴のギターには暗さが足りない」というものだったという西側ジャーナリストの本を読んだことがあるが矢張り困難な歴史を持った国の人のその様なものなのか。
モロにChildren of Godの頃のSwansを思わせる様な重苦しいと歌詞とオープニングの「我ら全ては沈み行く」に続き、「狼の如く」、「時は何も癒すことが無い」、「思い出は消え行く」、「涙が流されるだろう」、「悲嘆の残滓」、「信じて」、「死に行く救世主」、「魂の乾き」、「希望の死」、「多くの涙の果てに」、「さよなら」とタイトルを並べてみる。「狼という言葉は出てくるものの、他のネオフォークの人達が如何に魂をアウフヘーベン(小池百合子はこのアホな時代に殆どの人が理解できないであろうあの語を投げたという嫌がらせ精神だけでも大したものだと思う)するのかを模索しているのにお前らは失恋を何時までも引き摺りおって」と赤玉がそろそろ出るであろう世代の人間は思うのだがそこはジェネレーションギャップと微苦笑しながらも歌詞を読み進めると、最後の「さよなら」では嫌がらせのように「君に幸ある事を祈る」と言いながら本当に「さよなら」してしまう。ここなぞはもう共感するよりもあの失恋男による嫌がらせの極致的幻の名曲「海猫」(みやざきみきお)を思い出してしまう様な鈍感ぶりでもうこれは駄目かも分からんね状態。それは兎も角、そんな風に「さよなら」する中でも「さらば私の故郷よ」と歌う所がポーランドらしい(のか?)。以上、上滑りするように書いてしまったがこれは赤玉世代の感想。失恋に思い悩む人間であれば歌詞にも大いに賛同できるかもしれぬし(今や私には想像すら不可能)、音それ自体は赤玉世代でも十分に楽しめる爽快な東欧的重苦しさに満ち溢れている名盤。

 

浦邊雅祥+加藤啓(人形操り)デュオ・パフォーマンス@四谷ひろば内CCAA アートプラザ

 

四谷ひろばの敷地内で行われたライブ。通常の正門ではなく専用入り口とされた裏口からコソコソと建物内に入る。マスク必須とあるが中に入るとしてない人もちらほらいたので外すこととした。

加藤さんの人形(ヒトガタ)と動物様、怪物様のモノは海辺に漂着したモノ(はっきり言えばゴミ)を接続し纏わせ形を作り出したものだがゴミが生き物様に形作られを付け名を付されると加藤さんの叡知&技術と受け手側の想像力に助けられてかそれらには否定しようのない存在感が生じていた。澁澤龍彦や種村季弘が人形についてい描いた文や呪物と言う言葉を思い出しながらそれらを見ていた。またこれら人形が(と)書いたドローイングも展示してあり、そこにも無駄に知能の発達していない存在だけが描ける自由奔放な野放図が繰り広げられており「なるほどこれは人形の描いたものだ」と無性に納得させられるのであった。浦邊さんを描いた絵画もあり、恐らくはキッドアイラックホールで雷雨の中をベランダに飛び出て演奏した事、鶯谷のバーで水の入ったコップを演奏した事が描かれていた。

会場はその中の一室、観客は定員20名とあったがそれだけいたかどうか。「こういう所って必ずどこから来たのか分からんような外人カメラマンがいるよな。きっとフランス人に違いない」と偏見に満ち満ちたことを考えている中で演奏が始まった。

どこからともなく聞こえてくる金属音。出所を目で探せば浦邊さんが口中で鈴を舐っているのであった。加藤さんは会場向かって左側に吊るされた人、鳥、蜻蛉、象の様なものを取り外してはしずしずとそれらを会場中央に連れてくる。よちよちと歩きながら、あるいは羽搏きながら、あるいは引き摺られながらも彼らが「動く」。対する浦邊さんは楽器を取り換えつつ、それらと相対し、無視しているように見え実は横目で存在を意識し、同じように腹ばいとなり、楽器を望遠鏡のようにしてそれを覗き込み、引きずられている者に対してはそれに相応しい挽歌のような一節を口から発する。

取り分け印象に残ったのがペットボトルの胴体と金属片の足を持ち頭に造花を指した「子」。この子を浦邊さんが持ち、加藤さんが羽搏かせる鳥の様なものに手を伸ばさせたところ、また置かれた場所から転げ落ちてしまった子を浦邊さんが小脇に抱え一緒に演奏をしたところ、また加藤さんがこの子を踊らせその横で浦邊さんが演奏したところ、そして演奏中には絶対見せないような優しい顔で浦邊さんがその子を元の場所に座らせたところはまさにこの日の白眉であったし、その薄汚れたペットボトルと断ち切られた金属片などで出来た子は間違いなく生きておりかつ出演者の一人であった。

終盤、加藤さんもアコーディオンを持ち音を出させる。浦邊さんはその横でハーモニカを激しく吹く。そして加藤さんが床にアコーディオンをドンッ!と置いたところで演奏終了。素晴らしい時間だった。

 

ライブ終了後、お二方と少しお話しさせて頂いた後で帰ろうとすると何とLinekraft好き&阿佐ヶ谷のトークイヴェントにもいらっしゃっていた方と遭遇。世界は広い様で狭い。

ある日、私はLinekraftの大久保正彦さんと東京メトロ三越前駅で待ち合わせをした。ここは三井住友銀行日本橋支店の最寄駅でもある。そのビル前で阿修羅アルバムのジャケットに写っている菱沼五郎が団琢磨を射殺したのだ。私達は彼が団の到着を待ったとされる三越百貨店の入口辺りでその時の彼の気持ちや彼の行動の動機を理解できないものかと思いつつ話をした。最後に三井住友銀行前で大久保さんの写真を撮ることとなり、私が撮影者となった。その時被撮影者である彼は団が死んだという階段の二段目に立っていた。


1.近年LINEKRAFTの作品テーマが例えばカンボジア、ウクライナ、そして日本と明確に分かる形で提示されるようになりましたがその様に何かをテーマとして分かりやすく提示して作品を作るようになったきっかけを教えてください。

私はこれまでの自分のインダストリアルミュージックとの関わりの中で、「インダストリアルミュージックの伝えようとしているメッセージは何なのか?」という命題と向き合い、答えを探し続けて来た。自分自身が1リスナーとして考え続けた事を、1人の人間としての答えを明確な形で作品として残そうと思った。私は1人の人間の、生きる道を作品の中に投影した。社会という巨大な集団に対し疑問を抱き、行動する1人の人間が自分自身である。これが作品の中に込めたテーマだ。



2.カンボジア、ウクライナ、血盟団をテーマとして選んだ理由をそれぞれ教えていただけないでしょうか。

インダストリアルミュージックでしばしば取り上げられるのは(自分が許容できないと感じている)社会、人間の極限の姿、欲望、死、支配に対する反逆等であると認識している。カンボジア、ウクライナは人間の極限の姿を今の自分の日常生活と対比し、極限状態に生きる人間のエネルギーへの渇望が一つのテーマだ。血盟団は90年前の青年の持った苦悩を、現代の自分自身そのものであると感じ、その行動と気概に対し私もそうありたいと考え、またこの精神こそインダストリアルミュージックそのものであると考えテーマに選んだ。



3.特に血盟団についてはこの様にマニフェストまで出すことになりましたが、、、。

音楽活動を始めて、最初は音楽は個人の活動であり、社会に対して働きかけることはないと考えて活動していた。
過去の自分にとって社会とは集団の数が重要な人間の活動であった。
社会だけではない。自分の周りの全てが数が重要。数が多い、どんな場面でも、どんな世界でも、それが重大とされているのだと見えていた。


金の額が多い。集まった票の数が多い。人間の数が多い。売れた品物の数が多い。客の数が多い。支配している土地の面積が多い。「いいね」が多い(馬鹿げている)。

集団の数を増やすための行為は、精神の腐敗へと必ず向かうように思えた。
だから社会の活動と自分の音楽を切り離して活動をしたいという意図があった。

そのうちに、社会という巨大な集団、得体の知れない何かに対し、単独、あるいはほぼそれに近い形で行動する人間に関心を持つようになった。それらの人間は自分の行為に対し確信を持っていた。

彼らの行動、気概はまるで自分が進むべき道を示しているように感じた。
その行為が正しいのか、邪悪なのかに関わらず。

血盟団の井上日召、小沼正、菱沼五郎。皇居で爆死した藤田留治郎。安田善次郎を刺殺した朝日平吾。皇太子裕仁親王を襲撃した難波大助。変電所に手榴弾を投げ込んだ矢吹正吾。そして市ヶ谷で割腹自殺した三島由紀夫。

これらの人間に行動に人間の持つべき魂を見出し、社会とは集団の数が重要な何かではない。社会とは一人の人間である私自身である。と考えるようになった。それを音楽に投入しようと試みるようになった。



4.この手の作品は実際にそれを経験した人間からすると嫌悪感を持たれかねないと思うがそれについてはどうお考えですか

その通りだと思う。クメールルージュに家族を殺された人間が私のアルバムを聴き、嫌悪感を覚え、私を徹底的に罵倒し、殴る蹴るの暴行を加えても当然だ。

プノンペンの路上でアルバムの直接販売をしたら…殺される可能性があるかもしれない。願わくば殺されたくはないが…。

しかしながら、そういった人々に配慮し、また嫌悪感を持つ人がいるなら作品の制作、発表を見送ろう。人々に愛されるアルバムを発表する方向にシフトしよう。というのは私の考え方とは異なるので、作品を制作し発表した。

幼い頃から「他人に迷惑だけはかけるな」と教育されてきたが、この教えは間違いである。との結論に達した。私は自分自身の意志を持ちまた行動する中で、憎しみを買うだろう。全ての人間に絶賛される事は無い。この「自分自身を消して、他人に配慮する事を優先せよ」という教育は日本では強烈に行われてきたと感じているが、他国ではどうであるのか興味がある。



5.血盟団の地所(大洗のお寺)を訪ねた際に面白いことがあったと聞きましたが教えていただけますか。

血盟団が集まっていた大洗の護国堂を訪ねたとき、人の気配が無く、変だなと思いながら門を叩き住職に呼びかけていたところ、東南アジア出身風の中年女性が軽トラックで敷地内に乗り付け、日本語で声をかけてきた。
「あなたここにお墓あるの?」

墓のある所縁の者ではないが住職に会って話がしたい事、住職の所在を知っているか訪ねた。すると、答えは意外なものだった。私は驚き、愕然とした。
「もうここには誰もいないよ。住職は立派な人だった。でも亡くなっちゃった。少し前に。息子はダメなやつよ。逃げ出したんだよ。何もかも放り出して。最低な息子だよ。私はすごくお世話になった人のお墓があるからこうしてたまにお墓を綺麗にするために来てるけど、この先どうなるか、全然わからないよ。」

6.一方では大洗の街は未だにガールズパンツァーという女の子が戦車に乗って戦うというアニメの聖地として人気があります。重苦しい歴史の遺物は忘却され、一方で作り物の軽薄な戦争劇がもてはやされる。これは正に今の日本、ひいては先進国世界の現状を表していると思うのですがどうでしょう?

私が宿泊した宿は護国堂からわずか500mほどの場所にあった。入り口では制服姿の戦車で戦うという若い女性アニメキャラが笑顔で迎えるパネルが所狭しと並べられ、観光客で賑わっていた。

それと対比してあまりにもひっそりと忘れ去られ朽ち果てている護国堂の、血盟団主要メンバーが葬られているという塔の前で手を合わせながら、現代のこの街をもし井上日召が見たら、何を感じるのだろうかと考えた。途轍もない虚しさを感じた。これが現代日本の姿なのだ。誰一人気に掛けてもいない、護国堂の現状を教えてくれたのは異国のおばちゃんで、当の日本人はそのすぐ隣で、女子高生アニメの聖地を楽しんでいるのだ。これは歴史教育はあまり重要視されていない結果なのか、人間自体が過去に興味を失ったのかという面と、人間が社会から提供される快楽物質に快楽中枢を刺激され続けた結果、脳のキャパシティが快楽物質以外を受け入れられなくなったのかもしれない。先進国に於いて同じ現象が共通して起こっているとしたら、驚くべき事だ。

7.あと最後に何かあればお願いします

このノイズ、インダストリアルミュージックの開拓者たろうと道を切り開き続けて来た偉大なる本に、私のためにページを割いてくれたことに敬意を表します。

 

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Uwe Nolte Liedersammlung

「歌曲集」とそのものズバリながらどことなく気品を漂わせるタイトルの2枚組CD。集を編んだのは旧東独を出自としチュートン人のフォークなどと形容されたこともあるゴリゴリのネオフォークORPLIDのUwe Nolte。活動の幅の広い人なので興味ある方は調べていただきたいがORPLIDの目指す所が「ドイツの詩の保持と再生」でありそれをネオフォークの世界でやっている所から彼がどの様に批評され、それによりどのような困難に立ち向かわざるを得なくなっているかは容易に想像できるだろう。
同様の理由で作品内容には深く触れないでおく。それは「容易に想像できるだろう」から。我々極東に住む人間が「欧州」と聞いて思い浮かべる「美」と「音楽」がここにある。卑近な事を言えば過去作が全て高嶺の花状態にあるForsetiが三曲も聞けるだけでありがたいではないか。
欧州と聞いて我々極東に住む人間が思い浮かべるもの。「今」の欧州ではなく一昔前の「欧州」のそれ。そう、いつのころからか「それ」は過去のものとなってしまった。だとしたならこの作品は単なるノスタルジーを集めたものなのか。例えばこの歌曲集のそれぞれの盤が「帰郷」、「日の落ちるとき」と題された曲で終わるように。単なる郷愁、敗北と諦めが「欧州」の「どこか」を覆ってしまっているのか。そう認めざるを得ない「現実」がそこにはあるが負け犬ではない理想主義者の見る「現実」はまた別にあり、それは此処に収められた「歌」同様に美しく力強い物であるはずだ。あらゆる「何か」を乗り越えて二つの現実がまた一つになる日が来ると信じたい。

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X.E.-S.H.
あの世でかつてのナチ指導層にNSBMのジャケットを見せながら歓談しているとする。誰かが「このウルサイ音楽は兎も角さ、ジャケットは良いねえ。俺らの美意識っていうの?それを分かってる!」。その他に「お、お前写ってんじゃん」とか「あー、これはねえ(以下自慢話)」などと昔話に花が咲き和やかな雰囲気。そこでウケを狙った誰かが「今じゃこんなのもあるんですよ」とこのCDを取り出したとする。新たな話題のタネに期待をしながら笑顔を向ける彼等。だがジャケを見た瞬間、総統、SS長官、宣伝相、全国青年指導者、映画監督辺りが真っ先に「お前なあ、ふざけんなよ!何だよこれ!」とお怒りになるだろう。怒りの後には困惑。「え、何?こんなんが新生ナチとか言われてんの、マジ?」云々と暫くは「俺達の創意工夫は何だったんだ状態」の虚しさから抜け出れなくなるのではないか。
SPRIT OF HATE & LUST。そう孤高の憎悪者、偉大なるオナニストは徒党を組まなければ何もできなかったナチの世界観などを遥かに超越(無視)し、己を資するものつまり「対象無き(=全てが対象である)憎悪」と「ずりネタ」だけをそこから取り出した。もうそこは彼だけの独壇場。人と世の中憎みまくり&あちこち走り回りながらのオナニーしまくりのやりたい放題。「これがフィンランドのスワスティカじゃい!俺はフィンランド前線に立っているんだ!お前ら(=特定の誰かではない)は皆殺しだ!」と憎悪しまくるのが1曲目。金属音などもあり混沌とした曲調なのだが陰に籠った所がありこの辺が如何にも孤高というか孤独というかボッチな感じがある。2曲目はドイツー勝利万歳。オナニーの時間です。「やっぱオナニーは隠微な物だからね。まずは静かにこっそりと」という冒頭。高まっていくうちに脳の奥から「ドイツ、勝利万歳」の声が聞こえてくる。総統の声が聞こえてくる。右手か左手だかは知らないが兎に角、手の上下は「ドイツ、勝利万歳」のリズムで動く。総統の声が大きくなってくる。イキそうになるのを必死に我慢する。出来るだけ我慢する。が、結局はイってしまって、あとは真っ白。
 

Phosgen – When Innocence Dies...

私が勝手に認定したパワエレ・インダストリアルの三大ゴロツキ、キチガイ&ルンペンプロレタリアート。フランスのICK,ドイツのDJK,そして同じくドイツのPHOSGEN。その内の一人、Phosgenが唯一遺したLP。いきなり一曲目から「お前ら全てが気に食わない」。KKKを描いた映画のドイツ語タイトルでもあるようだが、まあどちらにせよ碌なもんじゃない。早くもゴロツキ、ルンペンプロレタリアート的な盲目の憎悪が忌まわしい風の音の様に旋回する。そして「(俺は)悪魔と恋仲だ」。「だからどうした、この低能」と心の中で呟くことは出来るが何と言ってもキチガイは目の前にギラギラとした目をして立って何やらを叫んでいるのだ。心の中を声にした時点で何をされるか分かったものではない。「怒り」では例のガイアナのオヤジが他の音盤同様に喚いている。何度も何度も飽きることなく同じフレーズを繰り返す。バックには死者を鞭打つような音が繰り返されている。「拷問の時間」。「中学生かよ」と心の中で(略)。ゴリゴリと凄く嫌な何かを耳の中にねじ込んでくる。この永遠にはれることのないルサンチマンの塊のような音群は如何にもゴロツキ、キチガイ、ルンペンプロレタリアート。B面。「無垢なるものが死ぬとき」。勿論、殺すのは俺というか彼。この辺になるとこちらも毒されてくるので女性の叫び声なんぞ、哀れでも何でもなく耳障りにすら感じるようになっている。「Immortal Hate」。ブラックメタルとパワエレを足したようなタイトル。映画の一場面からのサンプリング?何か琴線に触れたセリフがあったらしく同じ言葉が繰り返されるのだが悲しいかなこちらもキチガイのルンペンプロレタリアートなので聞き取れない。ウィーウィルワイワイワイとしか聞こえない。「平和と正義」。神経質なロボットの様な声が遠くで聞こえてすぐに止む。平和にも正義にも縁のなさそうな男の声でその言葉が繰り返される。DJKとのスプリットで見せた頑迷な青年将校的素顔(?)が垣間見られる一曲。最終曲「終わることのない痛み」。オクラホマがどうとかいう能天気な曲に漫画っぽい爆弾の音が聞こえたと思うと、弩ノイズ。懐かしのハル吉のノイズ拷問部屋でハル吉さんに聴かせてあげたかった。
 

超然としているゴッドファーザー的バンド群は掛け値なしに素晴らしいが言いたいことだけ言って去って行ったゴロツキの様な彼らがいたからこそ今のインダストリアルにその残滓が残り、このジャンルに隠微な何かを添えているのだと思う。

The Gerogerigegege - 直美のオナニーと若草寮案内

The Gerogerigegegeの作品に対するリスナーはただそれを押し頂くしかない。それはリスナーが「聴いてるだけの能無し野郎」だったかなんだかなのであるから仕方がない。ノイズだと思っていたらインドの音楽が入っていた(カンボジアの音楽とある場所で書かれていたがどうでも良い)、カセットだと思ったらずたずたにされたレコードが入っていた、レコードから落語が流れてきたなどなどは全て私が能無しであるが故の劫罰のようなものなのだ。

「いつまでも残っているのを見るのが嫌だ。最後の一個だし、安くするから買ってくれ」とジャケに相応しい昭和的な一人泣売というか押し売りというかの後に購入したブツ。「木箱入りとはいえカセット一本。なんでこんなに高いんだ」と思ったがレーベルもそこを読んだのか「イタリア製」で一つ一つ彫ってますみたいなアピールをしてくるのがまた胡散臭いのだがまあ直美ちゃんは可愛いし良くできてる。令和の時代では聞くことの出来ないしゃべり方は箱入り娘ならではなのか、「おまめちゃん」って言葉はディープコリアで書かれた以来だな、この粘つくようなあえぎ声はなんなんだろう、そもそもこいつ何歳だ?、「オナニーカセットテープ」などの発語の仕方が車内販売のそれに似ているな、この心のこもってない「アソコが熱い」は録り直した方が良いのではないか、そもそもこんな陰気なものでヌける奴はいるのか?????

上記全てをひっくるめてもこれは名盤なのだ。ノスタルジーのせいか、ニヒルに惹かれる性向に訴える何かがあるのか。兎に角、作品全体に何とも言えぬ雰囲気が立ち込めている。それはライナーにあるような鄙びた書店の片隅から漂いくる妖気や中古DVD店に漂うある種の諦念に似たものかも知れぬ。

 

セックスをする甲斐性もない野郎から搾取するアンダーグラウンドポルノ業界のバッタもんを買うよりははるかに報われる一本。