1. Erehwon,混沌の首共に「音楽」というよりは「芸術」のフィールドで活動されていることが多いかと思います。私は「音楽」のフィールドにいるものと思っていますので「芸術」のフィールドにここまで純粋にノイズ的であるユニットが存在することに驚き、またもっと「音楽」のフィールドにいる人に両者がアピールされたら良いのになあと思うことが多いです。実際活動されているお二方はこの「フィールド」の違いによる各々の表現活動の受け取られ方、広まり方の違いを感じられてますでしょうか。若しくはあまり気にされていませんか
羅入
混沌の首は複数ジャンルを横断する表現ゆえに、美術、文学、音楽、演劇、舞踊、映画などの総称である「芸術」を冠し「密教系芸術集団 混沌の首」と称しております。これまでに美術館、ライブハウス、神社仏閣、大学、アートフェスティバルなど様々な場で儀式(ライブパフォ-マンス)を行って参りました。なかには観客などをおかない純粋な自行(自分の悟りのため行う修行)もあり、言うなればそちらが本質です。混沌の首は私が10年ほど行っていた演劇活動に区切りをつけ、より内的にとはじめた瞑想会が母体となっております。2008年に山奥で火を焚きErehwonの爆音で夜通し激しく動く原始宗教的な瞑想会を行い、その時の体感と一年間ほど積み重ねた瞑想会の手応えから、瞑想を表現へと展開できると考えました。山奥の爆音ノイズ瞑想会では書き溜めた写経を火に焚べ「根源」へ御奉納したのですが、燃え盛る炎に煽られたお経の束が舞いあがり、暗闇へ金色の火文字が刹那描かれ消えゆく様を見た時は荘厳な美しさと靈の現れに心が震えたものです。そうして劇団にゲスト参加していたErehwonの石川雷太さんとダンサーの神林和雄さん、劇団を共同主宰していた細野紅葉さんはじめとする瞑想会参加者数名をお誘いして混沌の首を発足致しました。瞑想会では長い時間をかけて丁寧に誘導しておりましたので、瞑想会参加者にコンセプトを説明した際はライブという30分程度の短い時間で瞑想を深めるのは無理だと訴えられましたが、そのように自分の内面が伴わなければ意味が無いと思える方々であればこそ出来ると私は確信を深めました。
「フィールドの違いによる表現活動の受け取られ方」は、結局のところ列席者や観客など受け手の問題に存じます。「音楽」のフィールドでももっと活動したいのですが大所帯のせいかあまりお声がかからず残念に思っております。実は最少人数2名から対応可能なので気軽にお誘いいただけたら嬉しいです。
雷太
Erehwonの活動は、コンテンポラリー・アート(現代美術)のインスタレーションの拡張として、展示された_鉄板を叩くという行為から始まりました。その意味では、60年代のハップニング、フランスのヌーヴォー・レアリズム、日本のゼロ次元やネオ・ダダやもの派などのアヴァンギャルド・アートの系統に属すると言えます。しかし、西洋的モダニズムの標榜した「純粋芸術」という考え方には懐疑的で、アート/芸術は常に既成の世界観や価値観のブレイクスルーを促し、世界の脱構築を担うべきものだと考えています。その行為の過程においては、様々なジャンルの壁を破壊し、「美術」「音楽」「文学」「言葉」といったカテゴリーを無化し、多くの人々が自明なものと捉えている「人間」というイメージそのものの解体をも目的とするものです。
アート/芸術はノイズであるべきです。そしてノイズは自律的なものであるべきです。古くから多くのシュルレアリストが語ってきたように、「人間」的な合理主義や「人間」的な欲望に回収するべきではないと考えています。それを「私やあなたの快楽」に奉仕させることは、ノイズに対する搾取であり、アート/芸術の死を意味します。叩かれた金属板が発する音と火花、その剥き出しの物質性が、仮設された世界の虚構性を暴き、私たちは世界の実相を目のあたりにすることでしょう。このことは、TGやSPK、ノイバウテンといったインダストリアル・ミュージックの先駆者たちが現前させたダダイスティックなヴィジョンと通底するものだと感じています。
しかし、一方で、様々なジャンルが存在していることを否定はしません。私たち人間はそのような回路を通してしか、世界の実相に触れることができないからです。そしてまた実際の現代社会の中で、ノイズを一般の人々にまで広く体感させ認知させるためには、それを可能とする「場所」が必要となります。「音楽」「美術」「アート」「芸術」といったフィールドがそれにあたります。各ジャンルが極めて人間尺度の概念であるが故に最終的には捨て去るべきものなのだとしても、私たちの活動をそれらの概念が守ってくれているのは事実であり、故に私たちもそれらを大切にし、ツールとして最大限に活用することが望ましいと考えています。「音楽」も「美術」も「アート」も「芸術」も、私たち自体の自律性、物質世界の自律性を脅かすすべての敵にアタックするための武器だと思っています。
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2.また日本で「音楽」としてのノイズというフィールドで活動している人々は殆ど現実社会への意見表明を表だってすることはありません。それに対してお二方は非常に積極的に意見表明をされているように思います。この辺りの違いが生じる理由は何だと思いますか。
羅入
私にとっていわゆる「現実社会」は平面的な作り物のようでリアリティが薄く、人間に対しても社会に対しても少し後ろから眺めているような感覚です。しかし2011年の原発事故によって否が応も無く現実社会に引きずり込まれ、仮にも一人の人間として意見表明せざるを得ませんでした。当時横山さんが「国家がこんなにも簡単に自分を殺すことを知った」とおっしゃっていましたが、その意味で311は私にとっての戦争体験だったと捉えております。権力に自他の命が脅かされる体験をした者にとって権力の暴走は見過ごせぬ恐怖のはずなので、今の日本において「現実社会への意見表明」を行わない表現者は(稀な役割を担うごく一部を除き)残念ながらイノチに鈍感なのだと思います。政治へ意見するには知識が必要だと構え発言できなくなってしまう場合もあるようですが、「殺すな*」の一言で伝えられるのが表現者の強みであり、ええじゃないか**のうねりを盛りあげるのも表現者の得意とする部分であると申しあげたいです。
殺すな*:1967年、べ平連(日本のベトナム戦争反対の運動体)が米ワシントンポスト紙に、岡本太郎によって書かれた「殺すな」の文字の全面反戦広告を出した。これに影響を受けた前衛芸術家ダダカン(糸井貫二)は、「殺すな」と書いた紙を掲げて路上を走るハプニングなどを行った。現在日本で行われる反戦デモや反原発デモにおいても、多くの人が「殺すな」の自作プラカードを使用している。
ええじゃないか**:1867年、江戸時代末期に起こった社会現象。民衆が女装・男装・仮装するなどして「ええじゃないか」の囃子言葉を大合唱しながら集団で町々を練り歩き熱狂的に踊り狂った。囃子言葉と共に政治情勢がうたわれたことから、世直しを訴える民衆運動であったとされる。
雷太
政治的な発言をするかしないかというご質問かと思います。私の考えでは、私たちひとりひとりが社会を構成するパーツだとするなら、私たちが生まれて生きているということ自体が既に政治的な事件なのであって、故に政治的でない表現というものは存在しないと思っています。時の首相や政治体制を激しく批判する表現が政治的であるなら、自分の飼い猫の生死や生命の尊厳を語ることもまた政治的なのです。直接的な言葉で政治的な内容を語っているか否かにかかわらず、主体的/自律的に発せられる表現はすべて常に既に政治的だと私は思います。
別な角度から、テロルという観点から言えば、日々私たちが見て感じて自明なものと捉えている世界は、実は人間に都合のいい情報だけで構成されたイメージ、言葉でコントロールされた仮構の「現実」にすぎません。その「現実」の中に、物質世界の断片、あるいは、無意識/潜在意識の領域からの断片、すなわちノイズが流入する時、それは人々が日常的に従わされている仮構の「現実」や「制度」に対する暴力として機能します。歴史上の多くの支配者たちがアート/芸術を忌み嫌ってきた理由がここにあります。
私たちがアート/芸術を通して、ノイズによって言葉の専制にアタックしようとする時、それが「現実」に対する「テロリズム」と呼ばれたとしても至極当然のことです。そして、私たちやあなたが、既存の概念や仮構の「現実」に固執し続けようとするならば、発動されたテロルによって、私たちの身体、あなた自身の身体そのもが戦場になるのだということも付け加えておきたいと思います。答えを出すのは、私自身でありあなた自身だからです。Erehwonは活動開始当初から「サイキック・レフト」を提唱していました。これは混沌の首のスローガンでもある「靈的革命」とも通ずるものです。私たちは人間レベルでしか通用しない偏狭な価値観や世界観を捨てるべきです。
多くのアーティストに対して言いたいことは、自分が行う表現、「アート」も「美術」も「音楽」も「ノイズ」も、現実から逃避するための「避難所」、自分が立て篭もるための単なる「幻想」へと貶めてはならないということ、「役に立たない」という妄言にだまされるな、ということです。私はすべての人が表現者になれば世界は確実に変わると思っています。そして、愚かしい人間ばかりが支配する強権的な世界は絶対に変えなければならないと思っています。そのためにはあらゆるレベルでの、美しくポジティブはテロルが必要なのです。
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3.雷太さんがおっしゃったと記憶しておりますが「自分を供物として饗する」表現活動として神社での奉納ライブを行っているとの発言がありました。その様にお考えになる経緯を教えてください。また実現には、神社側との折衝など、困難が伴ったともいますが神社側では最終的にその「自分たちを供物として饗する」というコンセプトに対し理解をされたのでしょうか。またライブ終了後の彼らの反応はいかがでしたでしょうか。
羅入
私の帰依する真言密教における根本仏の大日如来は宇宙真理そのものであり、一切の諸仏諸尊*は大日如来の化身とされます。そして仏教と神道が混ざり合う中で神々も仏の化身とされました。明治政府による神仏分離政策(神仏判然令)**以前の長い間日本の信仰は神仏習合が当たり前で、言ってしまえば「仏も神も同じ」でした。そのような大らかさは宗教以前の信仰、自然を畏怖し「カミ」があまねくに宿ると感ずるアニミズム的靈性が根底にあると考えます。私はアニミズム的靈性の源である全ての大元を「根源」と呼んでおり、それは哲学用語の「arche(万物の始源)」が近い概念かと存じます。また、真言密教の目的は「即身成仏***」ゆえに究極には「人間」=「仏」=「神」となります。人間視点の説明として「自分たちを(根源への)供物として饗する」とお話しする場合もございますが、誤解を招きやすい表現でもあるので、奉納ライブの際などはアメノウズメ(巫女的な性格を備えた日本の芸能の祖とされる女神)の天岩戸開きなどを引用しお伝えすることが多いです。ライブ終了後の反応は様々です。
諸仏諸尊*:如来、菩薩、明王、天部(古代インドにおけるバラモン教やヒンドゥー教などの神々が仏教に取り入れられたもの。梵天/ブラフマン、弁財天/サラスヴァティー、歓喜天/ガネーシャ、など)など広義の仏の総称。
神仏分離政策(神仏判然令 1868年)**:明治政府が神道の国教化政策を行うため神社から仏教的な要素を排除した。これにより廃仏毀釈運動が起こり多くの仏堂、仏像、仏具などが破壊された。そして後に天皇は国家神道の最高祭司となり神聖不可侵の現人神とされ、昭和期における帝国主義的政策推進の役割を担った。
即身成仏***:生きながら仏に成る、つまり悟りを得ること。生きながらミイラになる即身仏とは異なる。
雷太
アーティストはメディウムだと思います。例えば、私はほとんどものを考えていません。正確には、思考は無意識/潜在意識が行っているのであって、私はそこから降りてくる断片を綜合し言葉や物質(作品)に変換しているにすぎません。主体は物質の領域と無意識/潜在意識の領域にあり、それを形として実体化させているのが「Erehwon」であり「石川雷太」であり「混沌の首」だといえるでしょう。鉄を叩くという行為によって物質の実相が現れる、_意識の機能を低下させることによって無意識/潜在意識の機構とシュルレアリテが顕在化する。神社や野外でのパフォーマンスや展示も同じで、場所や状況が持つ潜在的なポテンシャルを現前させる(羅入さんの言葉を借りれば霊場化する)ことが目的です。
神社の方や野外展示の場所の提供者が事前事後にこのことを理解してくださっているかどうかはわかりませんが、それは大した問題ではありません。私たちの行為が人々の理解の可能性の端緒となればよいと思っています。
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4.若し全てが許されるのならどこでどのようなライブをしたいですか
羅入
朽ちゆく死体を目の前に瞑想する「不浄観」ライブを行いたいです。
雷太
「Erehwon」も「石川雷太」も、その作品は多種多様な引用によって構成されています。鉄板や鉄パイプ、大量のガラスの破片、骨、血液、肉、放射性鉱物、武器、TVニュースの画像、ノイズ音、さらには観客の手によって実際にボードや壁に書き込まれてゆく言葉や絵まで。それらの要素の最も強度のある組み合わせを志向します。作品は触媒であり、静的な社会を活性させる起爆剤であるべきだと考えるからです。
「ライブ」の定義にもよりますが、現在の日本人の無垢な精神を最も蝕んできたと思われる国家神道と国家主義の後ろ盾として捏造されたテーマパークである靖国神社や皇居を可視化する何らかの行為をそこで行うなどは面白いと思います。しかし単なる犯罪として退路を断たれるようなやり方は賢い方法とは思えません。私は腹切や神風特攻のような自滅の美学などは完全に否定しますし、そもそも私たちの生命は私たちの自己実現のための道具ではありません。それよりも、時間がかかることかもしれませんが、人々の精神を鼓舞し、それ自体の意義と自らへの尊厳をそれぞれに取り戻させることによって、世界を正常化していくことはできないかということをいつも考えています。
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5.ライブ後に羅入さんが「事ここに至っては」かなりラディカルな方法で訴えるしかなかったというようなことを文章に書かれていた記憶がありますが今持っていらっしゃる危機感について教えていただけますか。また混沌の首のパフォーマンスを通じ、そのような状況の打開が可能であるとお考えでしょうか。
羅入
日本に限れば「国家権力の暴走」への危機感であり、その根底にあるのは「イノチを尊べない人間たち」への危機感です。社会状況の打開を可能とするのは大勢の人間の行為でしょうから、混沌の首のパフォーマンスは行為のきっかけの一つに過ぎません。本来、混沌の首は「革命」という側面においては「根源」に開き共振し表層世界(現実社会)を動かす「靈的革命」を担うものであり、本音を申せば私が現実社会に言及するなど世も末だと思っております。
雷太
ヴィジュアルを多用するのも「Erehwon」の特徴です。3.11以後、ここ数年のErehwonのライブでは、ガスマスクと防護服を着用し、福島第一原発の放射性廃棄物ドラム缶をステージ上に配置しメタルパーカッションとして使用、東日本大震災と原発事故のニュース映像のカットアップなどを映写するというスタイルを続けています。状況が許せば、放射性物質が降った福島や茨城の被災地の土を会場に持ち込み、その放射線量をガイガーカウンターで測り警告音を人々に聴かせるというパフォーマンスも行っています。これらは、情報に基づいた思考ではなく体感に基づいた思考を促そうとするものです。人間レベルではない世界の実相を顕在化させるとともに、人間存在の有り様を逆説的に照射する行為でもあり、偏狭な欲望に囚われた私たち人間に対する警鐘でもあります。
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6.リリース作品が極端に少ないのが誠に勿体ないと思うのですが以降も、リリース作が少ない、という活動の仕方に大きな変化はなさそうでしょうか
雷太
記録物よりライブにおける体感に重点が置かれてしまうので、どうしても結果的にリリースが少なくなってしまっていました。今後は多くの人々に私たちの活動を知っていただけるよう、音源リリースにも力を入れたいと思います。ライブ、リリースともにお誘いいただければ幸いです。
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7.最後に何かあればお願いします
羅入
「根源」とは人間が人間を保てぬが如き混沌の激流であり、それを宗教は人間が近寄れるよう整えたと私は解釈しております。ゆえに古い信仰の「カミ」はより生々しく恐ろしいのでしょう。私は「根源」に開きやすい場を「靈場」と呼び、儀式(ライブパフォーマンス)をもって場を靈場とします。人前で儀式を行う目的を端的に申せば「靈場を顕現し、自分含めたそこに在る生者も死者も合わせて根源に開くため」となります。その先は個々の問題です。
いま、記紀以前の古い「カミ」が見え隠れする「諏訪*」に強く惹かれております。諏訪とのご縁は、2021年に東京で開催されたフランス人キュレーター、アレクサンドル・タルバさん企画の「バーチャルの具体性展」における松澤宥*さんとゾエ・シュレンバウムさんのインスタレーション空間にて儀式を行ったことがきっかけです。お二方の展示空間は特別に靈的でしたので、儀式をするにあたりゾエさんが作品の素とした灰を頂いた下諏訪の小さな祠と、同じく下諏訪に残る松澤宥さん**の自宅兼アトリエ「プサイの部屋」にお参り致しました。そこで諏訪の靈威に触れ、見えないものに対峙し続けた松澤宥さんが生涯諏訪を拠点としたことが腑に落ちました。高野山開創1200年にあたる2015年に、土生川正道前官(はぶかわしょうどうぜんかん)のご指導のもと私が加行***させて頂いた高野山の無量光院にて「高野山アニミズム展」という美術のグループ展を石川さんと企画したのですが、アニミズム信仰の聖地とも言える諏訪でアニミズムをコンセプトとする企画の第二段として儀式、パフォーマンス、ライブ、講義、展示などを行いたいと漠然と考えております。
何にしろ、目に見えないものは言葉で説明しようとすればするほど本質から離れてしまうものなので、目に見えないものにこそ実(じつ)を感ずる方およびそれを求むる方は、ぜひ混沌の首をご体感ください。「根源」へ真摯に向かう方々と共振し、境界を破壊できることを祈念いたします。
諏訪*:現長野県の地域。旧石器時代や縄文時代の遺跡が多数あり国宝の土偶や土器も出土している。パワースポットとしても人気が高く、日本最古の神社のひとつとされる諏訪大社がある。「諏訪」の信仰は、仏教・神道に対しても独自の習合を成している。
松澤宥**(1922-2006):下諏訪町に生まれ、同地を拠点に国内外に芸術を発信しつづけた日本を代表するコンセプチュアル・アーティスト。42歳の時に「オブジェを消せ」という啓示を夢の中で受けた。
加行***:四度加行のこと。真言密教において、行者が阿闍梨となるための伝法灌頂(真言宗では伝法灌頂を受け阿闍梨位を得て正式な僧侶と認められる)を授かるに先立ち行う修行。
雷太
「Erehwon」のライブの最終到達点は「Erehwon」が消滅すること。「アート」の最終到達点も同様、その有用性は過渡的なもので、「アート」は最後に投げ捨てるべきものだと考えています。「Erehwon」や「アート」が存在しなくとも、根源的な力学に従い世界が普通に動き続ける状態が実現できるなら、それが理想です。その力学の上では人間の有無も関係ありません。私自身もパーツでしかありません。「Erehwon」や「アート」や「私」もその過渡的な装置にすぎません。
「根源」「霊場」「物質界」「器官なき身体」「シュルレアリテ」等々、真意が伝わるようにとやむなく使う言葉が増えていってしまうのですが、言葉は指示体にすぎず決して本質を射抜くことはありません。言葉にすればするほど本質から遠のく気がします。やはり重要なのは、体感であり、現実の音であり、そこで今ここで現に動いているであろう無意識下の力学なのです。意を共にできる世界中の多くの皆さんと直接的な交流、交感ができる機会が得られれば嬉しく思います。