その日は、なにもない平凡な日だった。
奈緒子は、いつもように会社に行き、OLとしては極めて普通の、少しの残業をこなして帰宅する予定だった。
午後、急に会社に電話が入った。年下の恋人、敦也からであった。
「両親が会いたいと言っている、急だけど今夜どう?」
晴天の霹靂だった。
いつも、敦也に会う時に遠まわしに、結婚の意思を伺っていた。
疎んじられないように気を使いながら、それでも自分の年齢や環境を考えたとき、このまま楽しいだけの交際というわけにはいかなかった。
だから突然で驚きもしたが、嬉しかった。そして嬉しい以上に、大変慌ただしい午後になった。
まず、行きつけの美容院に電話を入れて、無理を頼んで予約を入れた。
終業の定刻の直後である。残業するつもりは一秒もなくなったし、以後依頼された仕事は極力翌日にまわした。
幸い、上品なワンピースだったので、洋服はそのままでも大丈夫だったが、靴は少し汚れていたし、安っぽくも見えたので、なんとかデパートの閉店前に駆け込んで、この歳新調しようと思った。
アクセサリーや化粧も今更どうしようもなかったけれども、同僚の紘美に相談して、おかしくないはないという自信だけは持った。
家に電話して、母親に伝えた。
外の空気がいつもより澄んでいるように思った。
余裕をもたつもりが、銀座の待ち合わせ場所に着いたのは、約束の時間の5分前だった。
敦也と、一度訪れたことのあるレストランだった。
二人の場所に、彼の両親を迎い入れるような気分でもあった。
期待と不安の緊張。正直には
上座に、上品で優しそうなご両親が座っていた。
丁寧に挨拶されて、いろいろと気さくに話をしてもらい、ほっとしていた。
気持ち良く勧めてもらった料理もお酒も、美味しかった。
しかしそのとき、息子の恋人に対するにには、あまりにも礼儀正しい対応だったことに、どこかで変な空気を感じていたのかもしれない。自分でも予想していなかった言葉が、隣の席で沈黙している敦也に向かってこぼれた。
「あの、今日はどうして・・・ご両親はいらしたの?」
敦也が答えない少しの間があって、彼の父親が、少し姿勢を正して話し始めた。
「息子の将来のこと、まあ将来のことについてということで、お話をさせてもらおうと思いましてね・・・」
ひきつった笑顔の父親の隣で、無表情でいる母親が威圧的に見えた。
敦也は酒を飲んでいる。とっくに空になったグラスを何度も口に運んでいる。
それでも、奈緒子は自分の意思を聞かれるのもだと、そう信じようとしていた。
x x x x x
心のどこかで覚悟していた、認めたくない言葉が奈緒子に突き刺さった。
いまどきこんな話があるだろうか。
恋人の両親に交際を断たれた。
認めたくなかった。
悪い夢の靄の中にいるようだった。
体中の力が抜けた。
しかし泣きたくても、泣く場所を選ぶ冷静さが残っていた。
「送っていってあげなさい。」
と言われて、敦也はタクシーに奈緒子を乗せた。
会話のない時間が過ぎた。
カーラジオのAM放送のかすれたBGMが、ただ耳を通り過ぎていた。
二人にとって、長いのか短いのか。いつもより渋滞が少なく思えた。
なにか隣でしゃべり出した敦也の、どの言葉も奈緒子には届かなかった。
それでも期待してた言葉はそこにはなかった。
「ごめん」とか、「ありがとう」とか、絶対に受け入れたくなかった。
到着した自宅の前で、今度は自分の母に合わせる姿を取り繕うことを考えたら、初めて奈緒子の目から涙が溢れてきた。
情けなくたたずんでいるだけの敦也を、無理やりタクシーに押し込んで、涙が乾くまでの時間をつくるために、意
味もなく駅まで歩いた。
まだ馴染んでいない新しい靴が、虚しい足音を響かせていた。
XXXX
毎日通い慣れた道、見なれた駅舎、しかし時間も方向もいつもとまったく逆だった。
奈緒子の気持ちと同じように、ありきたりの風景が反転してした。
家路に向かう、疲れたたくさんの顔とすれ違った。
孤独だった。
定期券で構内にはいり、終電前の登りのプラットホームに立った。
人もいない、朝とは違った風景がそこにあった。
これまで、慌ただしさの中で気にもしていなかったが、そこにベンチがあった。
しばらくそこに座って、通り過ぎる満員の下り電車を何本か眺めた。
上り電車が到着した。
いつもと同じ電車とはおもえないくらい、ガラガラだった。
しばらくして、下りの最終電車の降車客の群れが奈緒子の前を通り過ぎる。
晒されているようで、憐れんでもらっているようで、情けなくて、その場を離れた。
無表情な人の塊を、改札口が吐き出したのを見届けて、奈緒子も歩き出した。
改札口に、母が立っていた。
つらそうに微笑んでいた。
いや、厳しく叱ってくれた顔だったろうか。
いつもの母がいた。
どうしたのとか、なにしているのとか、自分を取り繕うための会話を始めようとしたとき、母の足元が目に入った。
ふだん、ゴミ出しくらいにしか使わない家履きの古いサンダル履きだった。
自分がタクシーを降りたときから、ずっと見ていてくれた。
改札口の外から見守ってくれていた。
いっしょに歩いて家に向かった。
子どもの頃、習い事の帰りに駅まで迎えに来てくれたときと同じようだった。
そういえば、よく泣きながら一緒に歩いた。
慣れた夜道を歩き、角を曲がると、家が見える。
リビングルームの灯りも着いたままだろう。
早くこの滑稽に着飾った姿を巣のなかに隠したかった。
「なおちゃん」
後ろから声がした。
電信柱の影に敦也がいた。
その場で、母にお辞儀をして、近寄ることなく話しかけた。
「じゃ、また・・ね」
それだけ言って、駅の方へ足早に歩いて行った。
もう終電はない時間だった。
歪な月が中途半端に後ろ姿を照らしていた。
じゃ、またね・・・。
敦也は、明日は何事もなかったように出勤するのだろう。
いつか奈緒子も、また少しの残業と小さな楽しみを見つけて生きるのだろう。
何も失っていない、ただ変わっただけの平凡な一日が始まるのだろう。
すべてを解決してくれる時間という万能薬は、もうすでに作用し始めている。