続・日々コラム・・・ -10ページ目

続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

続・日々コラム・・・

2001年の9月11日、かの世界貿易センタービルにハイジャックされた飛行機が突っ込むシーンを見てから、小説や台本、フィクションを書くことを止めました。

あんな「生放送」を前にしては、どんな素晴らしいアクションものを作ったって、敵うはずありません。


事件ではありませんが、スポーツ中継で興奮や感動を体験すると、これまた「現実」の素晴らしさの前に、無力感を感じてしまうことがあります。


しかし、ドラマやシアターのある劇場は、それだけの場所ではないと思っています。


サプライズや刺激だけではありません。

娯楽やエンターテイメントだけでもありません。

それだけなら、他に敵わないか、他でも出来ることです。


楽しい娯楽であり、美しい芸術であると同時に、相手を変えることのできる深さをもっているのだと思います。


劇場は、ひとりひとりが自由に想像できる場所だと思います。

架空の世界を通して、安全な条件の下でいろいろな問題を考え、明日生きる知恵を得ることができるように。


僕らは寝て、夢を見るとき、安全で架空の世界に身を置きます。

夢の中では、あり得ないよことも平気で起きてしまいますが、そのシチュエーションでみんな必死に考えてます。

そして、必ず目が覚めます。

撃たれても落ちても死にませんし、どんな良いことが起きていても、それは残念。


夢と同じような状況を作れるのが、劇場だとおもいました。

皆さんに、その夢の世界に、ひとときいてもらって、付き合ってもらって、考えてもらうこと。

それで、何か救いになれば、変わる「きっかけ」になればと願います。


その大きな媒体となるが、俳優さんです。

めちゃくちゃなことが起こる夢の中でも、出てくる人物はリアルです。

大根役者はいません。


特に、深く生きている観客に、なんらかのリアリティーを感じ取ってもらうためには、

「声、姿、立ち振る舞い、」といった技術の高さだけでなく、

俳優さんの、しっかり生きてきた経験が不可欠です。


今、このところ、そういう俳優さんと仕事できていることが幸せです。

そして、新しく作品を書くようになってきました。

この10年の自分の人生を見つめ直すように。。。


楽しい気分の人を笑わせて、より楽しくなってもらうことよりも、

深く傷ついている人に少しの笑顔や涙を持ってもらうことのほうが難しいです。

そして、そういう人は少数派で、今のエンターテイメントの社会では見捨てられつつあります。


劇場は、それに同調してはいけないと思います。


僕らは、慰問をしているわけではありません。

身内によろこんでももらうための発表会をやっているのでもありません。

眺めてもらって美しいだけでも、耳に優しいだけのものでもありません。


想像してもらうこと、考えてもらう事、そのきっかけを発信すること。


まずは信じられる夢を見てもらえるように。


(写真はスペインのホテルの照明。「寝ない国」で、これを見ながら夢見てました。)

続・日々コラム・・・

♪真実は一つなのか~ と、河島英吾さんの『てんびんばかり』。


たぶん、事実は一つしかなくても、真実は人の数だけあるのではないかと思います。

同じ場所で握手している二人も、それぞれの事情と解釈があるわけです。


平和という言葉、英語ではpeaceですけれども、語源は(もう聞きたくないんですけど)pax

お金を払うpayと同じで、借りを返して平らな状態、チャラにすることみたいな感じです。

貸し借り無しの状態ないら、紛争は起きないということでしょうか。


広島の悲劇、辛さをたくさん見てきました。

たくさんの犠牲者は、死と生存の両方にあります。

不条理な差別も近年までありましたし、まだ残っているのかもしれません。


マツダスタジアムに移る前の、広島市民球場は原爆直下の原爆ドームの隣にありました。

多くのアメリカ人選手もそこでプレイしました。

ホプキンスの名前を出したのは、ただの例示なのですけれども、ルーツ監督の下、広島カープV1の立役者の一人でした。


ホプキンスは、メジャーリーガーであり、医者であり、牧師でもありました。

油症を決めた巨人戦のホームラン、いまだに覚えています。

原爆投下後30年の広島。

どういう思いで、アメリカ人監督と選手は来日し、プレイしていたのかと思います。


原爆投下と終戦、ここに債務・権利の関係があるかないか、日米はどう認識してきたのかと思います。

握手する両者の思いは、同じだったのか、違ったのか。


いま、『平和』を安直に語りすぎているように思います。

平和に越したことはありませんが、紛争のあるところを平和な状態にするには、たくさんの犠牲と代償を払わなければなりません。

友好的なお友達関係だけで 『平和』 が実現できるのは、現に平和で幸せに過ごせている幸運な状態のおかげです。


平和を訴えるのは、ある意味、債権者に対しては大変な犠牲を強いることでもあります。


平和の道のりを身をもって知っている日本人に伝えられること。

何なのでしょうか。


また、私たちは、今の世界平和のためには債権者なのか、債務者なのか。

それともただの平和ボケの呑気な部外者なんでしょうか。


ホプキンスは広島にとって、どういう存在だったのかと思います。


続・日々コラム・・・
ご存知草間彌生さんの作品なのですけれども、この立地ですから、台風で一度流されたんだそうです。


なんとか沖で回収したものの、かぼちゃのヘタの部分は紛失してしまったんです。


ところが後日、なんと偶然、漁師の人がこれを釣りあげたんだそうです。


僕らが釣りをして、長靴を釣り上げるギャグと違って、プロの漁師さんは間違って釣り上げるものも立派。


無事、この形になっているのです。


こういうエピソードが、有名な作品には、たとえばモナリザの盗難のように、ついて回るものです。


作品は、世間に晒されてなんぼ、というとこはあると思います。


安全な場所、つまり美術館で、触っても写真もダメ、みたいなとこでは、出来上がった後も「育たない」と思います。


ま、これは危険すぎるけど・・・。


青春時代に戦争を体験して、戦後に親になった人たちは、自分の子の世代に辛い戦争体験はさせたくなかったのではないかと思います。

そして、なんとか平和な社会をと願い、それを実現しました。


そのへとりあえず平和ななかで育った子どもたちの世代は、今度は豊かになるために必死で働きました。

世界に追いつけ追い越せと、働き蜂のように働いて高度成長になりました。

三丁目の夕日の頃ですかね。


しかし、その頃は、父親は仕事優先、まだ家長制度も染みついている頃で、「家庭」なんてのは置き去り。

子どもは、家庭の戦力にならなければお荷物的存在でした。

親父が威張ってる封建的家庭。

なので、これを見て育った子どもたちは、アメリカの一家のような団欒にあこがれました。


そして、家族が友達のような家庭、節分もクリスマスも、楽しいイベントはもれなく家庭でも行う習慣を作りました。

とりあえず生活が安定しているので、母も周りも興味の中心が子どもにあって、習い事、受験、趣味、いろんあサポートや提案を与えるようになりました。


そうして、平和で豊かで暖かく育った子どもたちは、いろんな飛躍のチャンスを持ちました。

これだけ整っていれば、堂々と世界にチャレンジしてみることも期待されます。

自分以外の人のことを考えてあげる、ボランティア活動もできます。

芸術活動なんてのも肩身狭くなくできます。

価値観も多様化して、いろいろなものが受け入れられるようになりました。


戦後必死で社会を築いてきて、やっと世界に肩を並べたと思ったら、世界中でこれほど恵まれた国民はいないというくらいにまでなっていました。


そうして、平和で豊かで暖かく育った子どもちが今、親になろうとしてます。


次にどういう社会をめざしている世代なのか、ちょっとよくまだ分かりません。

いまのまま、ただ安定飛行を目指すのか、次の世代に渡したくない何かストレスがあるのか。

それともただの「家族ごっこ」なのか。


環境を整えるもの大変な役割でしたが、整った環境の上で何ができるか、、これも大変な役目です。



雪景色が綺麗な日比谷公演の一角、日比谷公会堂のアーカイブカフェに行ってまいりました。


もっと早く行っていればよかった、て感じの素敵な場所でした。


ただし、ホットコーヒーがすぐさまアイスコーヒーに変わる寒さでしたが、やはり日比谷公演は東京のセントラルパークってカッコよさ。


カオルさんと、ラジオ番組の打ち合わせ、というかよもやま話して時間切れ、でしたが、「針」のある蓄音器の生音が、なんとも豊かに響いていました。


なんて落ちつく音、振動なんだろう。積み重ねた歴史の重さとやさしさ。そう、やさしさ。

アナログっていいですよね。
続・日々コラム・・・

遠野で「夢」に見たマクベス。森と魔女と座敷童子のパフォーマンス。

舞踏家の小関すま子さんによる舞踏公演。


シェイクスピアと岩手県?ってなんか、自分の今の課題にピッタリすぎて、参考になりすぎで、そわそわしました。

シェイクスピアの韻律と、遠野の民話の抑揚の対比が、「森」についての欧米と日本の認識の違いを、ひとつ象徴していたみたいで印象的。


ブレヒト的な役の突き放し方が演出されていたけれども、俳優さんにその辺の理解が足りなかったのでは、と思いました。


あと、色と光が乏しすぎなのとか残念。
まだまだやれること、洗練されたものに出来る余地だらけ。


マクベス断章―遠野でみた夢、というのが正式タイトルですけど、タイトルが先に決まっていて、それから作り上げたらしく、タイトルとは乖離していた感はしましたが、それまた面白いところ。

作ってみなきゃわからないし、面白い発見は最優先したいですからね。

川で洗濯してた時代は、そりゃひどい重労働だったと思います。

洗濯機が普及している今は、その時想定した夢の「未来の世界」が実現しているわけです。

需要があって、必死で働いて夢を供給して、未来が出来たわけです。


では、今考えている未来ってどうなんでしょう。
「便利」が未来だった頃のままのコンセプトでまだ動いている気がします。


便利すぎることの苦痛。
便利の引き換えに失ったものへの無配慮。


洗濯機はいいことだらけだけど、川でのコミュニケーションは奪った、とか。

だんだんそっちが問題になってきているのではないでしょうか。


今は、もう一つの「未来」の方向を考えないといけないんじゃないかと思います。

友達の友達はみんな友達。

ライバルの友達は全部敵。


ライバルと友達になれば、友達の数は倍増、社会は平和。


なのにこれ、子どもにできるけど、大人には出来ない。


みんな、少年少女の気持ちを持ち続ければよいのだけれど、それじゃ世の中成り立たない。


大人がただ、愚かなだけじゃないと思うんですよね。


とロミジュリ中。

「苦労は報われる」「努力は裏切らない」「夢は叶う」。


青少年向けに限らず、こういうメッセージを伝えるものが多いけれど、それはそれで無責任なきがする私ヘソマガリ。

現実はみんなヒーローになれるわけじゃないどころか、むしろ成功しない方が多いわけです。


単純な夢や希望だって、叶わないことの方が多いわけです。


実際、一生懸命やっても報われないどころか、どん底まで叩き落されることだってあるわけで。

そこをケアしてあげる風潮がだんだん無くなって、世間がヒーローマンガ的になっている気がします。


ま、これも勝ち組社会。


そりゃ、まあ成功談の方がやりやすいです。

人の失敗や不幸には近寄りたくないですからね。


それが勝者願望になって頑張れればいいのですけど、挫折は大小だれでもします。


その上で、笑っていられるような生きる力を与えるのは、社会の仕事だと思います。

出世する人、成功している人ほど、威張ったりしないものです。

虚勢を張る必要が無いんでしょうね。そうありたいものです。


かつて、誰もが知っている超一流企業の重役さんに、銀座のお店、といっても綺麗なママさんがいらっしゃるところではなくて、とてもお洒落でアーティスティックなところに連れて行ってもらいました。


そこで、30歳近くも年下でペーペーの僕の事を、「友達です」と紹介してくれました。

これがとってもカッコよく感じました。


僕には若さっていう「可能性の魅力」がありました。

それ以外の魅力は全部負けている「成功者の貫禄」のある方でした。

この二つを、台頭に扱って並べて「ともだち」って言葉でつながれたんですね。


話は変わりますが、その時に伺った話。

好奇心で、砂漠に行ってみたんだそうです。

すると、そこは完全に「無音」の世界だったんだそうです。


そして、音が全くないところにいると、しっかり自分と向き合うことができたんだそうです。


僕も生き方に迷った時には、いつか砂漠に行ってみようとと思います。

最後の手段ですね。。。


砂漠にも鳥取砂丘にも遠く及びませんが、先日池袋のサンシャインで停電に合いました。

すると、すこし無音状態なんですね。

というか、普段は音楽とか、余計なBGMがなくても、結構モーター音とかがあって、つまり日常生活では無音ってあり得ない事に気付きました。


でもちょっと静かなところ、音のお仕着せがない時間って、とても新鮮でした。


今も、ハードディスクが唸っています。

良く働いてくれているんですけどね。