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続・日々コラム・・・

Shen Teh n Shui Ta = hen na TeTSuShi・・・

『知る権利』と同様、『知らないでいる権利』もあるんだと思います。
大事な基本的人権なのではないかと。

小さなことだと、推理小説の犯人情報とか。

今の高度な情報化社会では、知りたくないこともどんどん知らされて、ストレスで苦しくなってしまいます。

極端にいえば、生存権が脅かされます。

たとえ「事実がわかるだけ」であっても知らぬが仏、知らないでいたほうが幸せなことも尊重されたいものです。

余計な詮索をしたくなくても、できてしまう世の中、使う人がどれだけ成熟しているかが大事です。

どんなに大事なことであっても、親しい人のことであっても、全部はしらないほうが良いのだと思います。

情報に鈍感になることは、ある意味で現代社会の「生きる術」なのかもしれませんし、そうしている人に情報の爆弾を投げつけてはいけないのでしょう。
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座・高円寺「あしたの劇場」
こどもたちとの「みんなの作業場」での演劇ワークショップは、今年で3年目、ずっとやらせていただいて、とても刺激的で、ありがたい機会です。

発表会ではなくて、過程を重視していろんな発見を引き出すのがワークショップ。
そこに必要なのは、見事に『出来損なうこと』を恐れない強さ(笑)
それにしても、劇場の日曜日の子どもたちには、まいど大変鍛えられています。

今回は、これまでの作業とのリンク、春のイベントとの伏線などを折り込んで、「海の上の島に新しい国を作る」というお題で始めました。

国を作るには、土地、自然、住民、構築物、法律、統治機構、言語、インフラ、産業、習慣、文化・・・そういうものを決めていかなければなりません。
もちろんそれらは全部、子どもたちの自由な発想でつくっていくわけです。

その出来上がった、国の設定の上で、遊んで(演技して)みる演劇ワークショップなんですね。

まずは領土作り。
コーディネイターの北村さんの提案で、おおきなブルーシートを海に見立ててみました。
これが、音といい、色いい、とっても楽しくて、音は波の音だし、下にもぐってみると空にも海にも見えるんですね。
そして、その海の上に領土を作って行きました。
ルールも書いていきました。
3つの国(島)が出来て、の名前も決まりました。

今回無理を願いしてファシリテーターをやってもらった女優のいずみさんに、ダンスとストレッチも折り込んでもらいました。
ここで子どもたちのことで、また新しい気付きや発見があれば、そのあとの創作で活かせるわけです。
でも、ダンス以上に既にハードな鬼ごっこに「逃亡」されてしまいました。

次に、そこで起こるいろいろなストーリーを考えました。
願い事ポストに、みんなの願い事を投函してもらいました。
これらの国で起きる話は、みんなの願い事がなんでも叶う話になるみたいです。

ところが、領土問題が起きました。
扮装が始まり、元の王子が難民になりました。
ガチ勝負です。
機知と優しさがたくさん引き出せました。
そして、戦争(つまりは喧嘩)ですから、それぞれの国は、せっかく作ってきた美術的な造作物も、法律をかいた紙も、全部壊されてしまいました。

楽しく生きる(遊ぶ)ためには、自分の意見をどう調整するかということ、争いの原因も双方に正当な理由がって仕方のないこと、これは全く大人社会と同じ状況です。
たのしく遊びたい(生きたい)のに、思い通りにいかないとき、相手が羨ましくて、それで根底から破壊してしまったら、結局自分も楽しく遊べないんですね。

結局、相手をどう受け入れて、そこに自分の意見を混ぜていくか、の練習なんですね。
面子よりも実益。100点でなくても60点なら及第点ということで、受け入れることも大事です・

最後は、ここで作った話に登場するキャラクターの仮面を作って、みんなで演じて観る試みをしました。

最後に、ずっと使ってきた「地」としてのブルーシートの上で、いろんなストーリーをやってみます。
予定では、このブルーシートはとっても充実した「舞台美術」になるはずだったのですけれども、今回のワークショップでは、荒廃の町状態。

でもこれがワークショップなんです。

この「つわものどもが夢のあと」状態のブルーシートって、意図的に作ろうと思っても作れないものですから。

最後は、宇宙に飛び立って、真っ暗になった劇場に蓄光テープの星が光りました。
ボロボロになったブルーシートをみんなで見て、最年少の「神の鳥」に争いの無駄さを語って貰いました。(のつもりでした)

記念撮影は、じゃんけんで決まった王様の掛け声「フリー!」をチーズ代わりに叫んで終わりました。
「フリー」は、今回作った国の一つ、「自由ランド」の挨拶言葉です。
小学校2年生の、なんとも見事な即興です。

整理された体験教室にはない、見事な出来そこない感の中に、本当のクリエイティブな発見がたくさんありました。

みんなの作業場
豊かさとお金。

最近の日本人はマナーがよくて、旅行者としても海外でも好評なのだそうです。
穏やかなんでしょうね。
とりあず「国民性」ということで、僕も仲間入りさせてもらっておきます。

じゃ他の国はどうかというと、治安の悪さと貧困はかなり密接に連携しています。
データは知りませんが、景気の良いとき、経済成長している国では、町は平和で安全になっていると思います。

人は、お金に余裕がある時は、やはり心にもゆとりが持てます。
ピリピリイライラしている時は、その逆ですぐに他人とトラブルを起こしてしまいます。

お金ではない豊さも、もちろんあります。

ただ流れる景色の中で、好きな人と静かに流れる時間。
とか、牧歌的な生活にもストレスフリーな豊さがあります。
お金がなくても、豊かに楽しく生きる方法というのはもちろん必要です。

しかし、貧しさの中にある小さな幸福を見つけるよりも、経済的に豊かになる方が簡単なのかもしれません。
お金って、とてもよく効く薬なのだとおもいます。
たくさん持っていると、それだけで気持ちも豊かになります。
だからたくさん印刷すればいいともうのですけれど、なかなか最近の社会ではかき集めるのが大変です。

ま、だいたいもめる時は、ロマチックな間柄でも、お金が絡むことが原因なのが常ですけれども・・。

何事も選択肢が少なくて、貧富にも趣味にも差が少なくて、そんな時代のほうがよかったかも、とおもうことがたまにあります。
アーティストとしては頷けますが、経済人としては失格。
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少し前、両国から浅草橋へ渡る隅田川の上。

隅田川を歩いて渡ったのは、何年ぶりでしょうか。
両国から浅草橋へ、気の重い夜へ変わる時間を埋めるための遊歩でした。
空き時間の調整としては、スタバよりはある意味贅沢で、どうせ自腹の電車賃も浮いて、健康のためにもよし。心地よい寒さ、散歩するのはよいことです。

気持ちの伏せがちな日、集中できなくて朝からみなさんにはご迷惑をおかけ通し。
心の中で泣いてお詫びしながらも、シアターχを出発しました。

交差点で志摩ちゃんの笑顔に会って少し元気もらいついでに、回向院さんの鼠小僧のお墓参りをしました。これだけお隣に通っていながら、意外に初めてなんです、ちゃんとお参りしたのは。ペットも飼ってないし・・。
それから、野田総理になっても意外にヒットしなかった、どぜう料理もゝんじゃの前を通って、橋を渡ります。

以前ここを歩いた時、あまり芳しくない心境で、国技館で昼間の無名の相撲の取り組みを立ち見して、そのまま夢遊病のように東京駅まで歩いた記憶があります。
ま、あんなに辛くても、10年近く経てば昔話。というか教訓なさすぎ。未だに同じような失敗の繰り返しだらけ。進歩なし。

この下町の隅田川じゃないですけど、その逆もありました。嬉しい成果に、打合せの砧スタジオから、小躍りしながら2時間くらいずっと興奮して歩いて気が付いたら、ここはどこ?ってこともありました。
何かあると、歩くんです。止まらなくなるんですね。

それはさておき、さすがはお江戸の隅田川。不思議なパワーを感じます。

「橋の上の風景」は、アルマ橋やミラボー橋から見下ろしていたセーヌの色に似ていました。
翡翠色の悲しい色やね、って、感じです。
スカイツリーが完成して、エッフェル塔が背景になっているセーヌと、また一つ似てきた感じがありますけれど、こっちは下町文化です。

橋を渡ると、柳橋の日本家屋のギャラリー、僕の秘密スポットで休憩。
この日、ダウン症の書家・金澤翔子さんの作品展が行われていました。
作品を背景に、隅田川の流れを眺めて、夕暮れを迎えながら、豊かな時間を使います。

~自分はこのままでいいのか、誰かに必要とされているのか~

自分と対話するにはいい時間でした。
そんなことばかり考えていました。
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「夢」といっても、睡眠中のことではなく、現実の世界にいながら描く願望。

たとえば僕は小学生の頃、プロ野球の選手になっていることを夢みていました。
不思議なことに、小学生のまま、王選手といっしょにプレイしている姿を頭の中に描いていたりします。

ボケてもいないのに、よくそんな世界に浸れるものだと思います。

しかしそういう夢が目標になって、実現していく人もいます。
どうせ途中で現実と妥協しなければならないなら、できる限り、元の夢は大きい方がいいのかもしれません。

僕が王選手とプレイする夢は、いつ叶わなくなったのでしょうか。

そもそも、野球が隣町まで噂になるくらい、上手じゃなきゃいけませんが、その時点でクラスでも下手くそ部類。
それを克服したとして、こんどはまあ、王選手が選手だったのは僕が中学生のときまでですから、引退の時点で無理と言えば無理。
中学も野球部に入らなかったし、高校も野球部なかったし、あれこれと奇跡的にクリアしても、現在の年齢では、そもそも現役でプレイすること自体、草野球でもつらいところ。
も一つ言えば、巨人がいまは大嫌い。

つまり具体的な、愚かな夢は、どこで区切ってもとっくに終えているのです。
でも、本質的な事をいえば、「華やかな舞台で、国民的ヒーローと、同じ意識で仕事する」ことが夢だとしたら、今からでも叶わないことはありません。

夢が現実にならなくなることが決定するのは、本人がそれを放棄した時だけなのではないでしょうか。

今もまだ、実現不可能な夢に向けて、ドン・キホーテしています。

大事な人に迷惑をかけながら、それをわかっていながら。

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現代社会のストレスの原因は、ほとんど「人間関係」の問題ではないかと思います。

「避けることのできない人との難しい関係」

社会人に限らず、小学生でも悩むのはここです。

「嫌われたくない」「馬鹿にされたくない」「自分の評価を下げたくない」という保身もあれば、
実生活や収入に直結すること、失うことの怖さや、得ることへ欲求もあります。

また、人の間に立って、双方誰にも不愉快な思いをさせまいとすると「右を立てれば左が立たない」ことになってしまいます。それは自分が滅私して折れて曲げて調整できたとしても、その歪みが気付かぬうちに自分のストレスになってしまったりします。

社会人の方の研修の場でも、人気メニュー(というか題材)は、「緊張しない方法」とこの「人間関係の悩み」だったりします。
そんなもの万人に通用する特効処方があるわけもないし、あったら本当に教えてほしいろころです。
けれども、みんなでいろいろと話してシェアすることだけでも、よい効果があるように思います。

ちなみに研修では、東京の人込みは大変疲れますが、肩が触れ合ってしまう無数の人達が、すべて自分の「見込み客」「見込み友人」だと思うように進めています。
これだけ人がいるのだから、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」し、
これだけ人がいるのだから、「いくらでも代わりはいるから執着しなくてもいい」
と考えるようにと受け売りしたことがあります。
ま、これが地方の閉鎖的な社会だと、もっと陰湿になってしまってそうはいかないのですけれども・・。

現在の日本で生きていれば、人間関係で悩んでいない人なんて、まずいないのではないでしょうか。

気の置けない人だけと、穏やかに過ごせればよいのですけれども、なかなかそうはいきません。
好きな人に不快な思いをさせたくない、苦手な人と関わらなければいけない、そんな環境にはなかなかなれません。
現代社会にかぎらず、たぶん牧歌的な農耕の古代でも、人がいれば、その数だけ軋轢はあったのだと思います。

大事なのは、そんな「軋轢」の陰に同じ数かそれ以上の「喜び」や「共感」があって、それを時間を賭けて発見して、認知することだと思います。

『殺人犯人の被告と、遺族の間にシンパシーが生まれた』という台本があります。

実際の記録からつくったドラマですが、最も会いたくなく、苦手で、避けて通りたい者同士が最悪の感情で話し合っていくうちに、お互いの中に理解を見出すというものです。

人と人の間では、むしろ笑顔のあいさつでカモフラージュされたものよりも、こういう本音の感情をさらけ出すところから、根の深い共感が生まれるのかもしれません。

表面的な付き合いだけで済む相手とは、困ったらにげちゃうことです。
満員電車の乗客分、代わりはいくらでもいます。

人は、幸せなことは、すぐ「あたりまえ」なこととして処理してしまいます。
なので、「困ったこと」にフォーカスされてしまいますが、自分の90%以上を占めている幸運の中少し嫌なことがあるだけです。
生きているだけ、酸素があるだけ、平和、食事、夢、寝床、友達、便利それだけでも幸せなことです。

それらをちゃんと有難がってあげられるように、辛いことが牽制してくれているのだと思うようにしています。


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3.11後1年が近づいてきました。
ちょっと芸術家のボランティア活動について振り返って、考えてみたいと思いました。

成功しているアーティストなら、チャリティーイベントを行うのはよい事です。
経済効果もあり、多くの人々が励まされることでしょう。

マネージャーが一生懸命チケットノルマをさばいているようなアーティストなら、ボランティアで「無償の慰問」といっても、結局「自分のために勝手にやっている」と言われても仕方がないわけです。

さらに、ちゃんと生活できていないアーティストなら、自分の活動をお披露目することではなく、むしろ一般の人といっしょに作業を手伝ったほうが役に立ちます。
それよりも何よりも、まず社会人としてちゃんと働いて、納税すること。自分が社会のお荷物にならないことです。

しかし、これらは正論ですけれども、直接行うボランティア活動の参加についてということです。

アーティストはいつ評価されるかわかりません。
だから今は、それぞれの作りたい作品を、自分の持ち場で一所懸命追及していけばいいのだと思います。
それが巡り巡って、時間も空間も越えて、どこかで誰かを助けていたりするものではないでしょうか。

自分自身は、被災地に飛ぶ前にいろいろとやることがあるように思いました。
まずは自分の未熟さを克服すること、そうじゃないと、アーティストとして、社会人として、お役に立てそうにありません。

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現世での生命を失った記念日を、命の日と言うのですね。

忌まわしい『死』の日ではなく、『命』について考える日、なのだと思います。


熱心な浄土真宗の信者としては、命日はお釈迦様の元へ旅立つ穏やかな日、なのでしょう。


これで楽になれた。

もう苦しまなくていい。

やっと穏やかになれた。


残されたものに、こう解釈させてくれるだけでも、有難いものです。


毎年忘れてしまう命日ですけれども、今年は一応思い出しました。

禁酒のおかげかもしれませんけど、そういえば葬儀だ法事だと、結局『飲み会』と化していたような気もします。

お酒の好きだった故人をしのんで。。。


しかし寒い2月です。

早くこの陰鬱な冬が去り、陽気で快活な春が来ることを願います。

春の柔らかい光は、どれだけ人を救ってくれることか。。


天国から届く光は、僕の理不尽な生活や願いでさえも、応援してくれる気がします。



世の中、具体的すぎるんですね。


こどものオモチャを見ても、大人の情報社会で感じることも、お節介なくらい具体的に「正解」を押し付けられる世の中なんです。


悔しいじゃないですか、勝手に想像する自由だってあるのに、奪わないで欲しいです。


本で読んだ話が映画になったとき、マンガがアニメになったときの声、とか

だれしも、自分の中に合ったイメージと違って、戸惑ったことがあると思います。


どう感じるか、は人それぞれの自由なんですけれども、メジャーになるとそれが固定されてしまいます。

いまだに、ドラえんもんはあんな声じゃないと思うし、コロンボだって作家さんの意図とも違うところで、「標準」とか「正解」が作られています。


想像することの大事さは、楽しさだけではありません。

相手の事を考えること、過去と未来を推測すること、現実を把握すること、生きるために必要な能力なんですね。

「こうすればこうなる」

「こうなっているのは、こうしてきたからだ」

これを考える機会を少なくしてしまう社会は良いとは思えません。


ところで僕らは、芸術活動をするときに、何か社会とのつながりを持つべきだと思っています。

いまのテーマは「想像すること」を社会に取り戻せたら、なんて思っています。


そしていま、宮澤賢治に取り組んでいます。

6月の国際舞台芸術祭参加と、そしてなんと来週はリーディング公演。


賢治は、なんとも具体的になりづらい、有難い作品が多いです。

賢治の世界を表現するにあたっては、どんなに研究した人でも、正解であるはずはありません。

人それぞれに感じだ賢治を、それぞれが表現して、それ違う、いや違う、あーだ、こーだというのもよし、

互いに尊重するもよし・・・。


2月25日は、四谷の絵本塾ホールというちょっとメルヘンな場所、しかも迎賓館と学習院初等科の裏です。

そこで、賢治の頭の中にあったものを、我々で想像して、それを形にしてお見せしようと考えています。


賢治の頭の中にある、心象風景。

これを、文字にしたのが賢治の作品です。

その文字を頼りに、まず俳優さんが声にして音にします。

それを受けて、賢治の愛したセロ(のような、ウッドベースで)素敵な即興でまた音を重ねてもらいます。

それらの「音」から得たインスピレーションで、アーティストさんに「図画工作」してもらいます。

そしてそれらの絵とか、オブジェとかを並べてみます。


とっても抽象的で楽しく、無責任な想像の世界。


是非、現場でお楽しみいただければと思います。


宮澤賢治リーディングコンプレックス

『下ノ畑デ読ミマス』


2000円です。

公演URL http://katengetch.blog96.fc2.com/blog-entry-73.html

チケット申し込み・お問い合わせhttp://katengetch.blog96.fc2.com/blog-entry-74.html



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流れ星は、願いごとを叶えてくれるものか、

それとも、不吉の予兆か


流れ星に願い事をすれば叶う、という言い伝えは、科学的に分析することができます。


流れ星をみつけるときのように、自分が天気のいい夜の空を見上げてゆったりしているとき、

不意に起こった願いごとのチャンス、千載一隅の機会を逃すかどうか。

一瞬ですから、考えている時間なんてありません。

「願いごとは?」と、抜き打ちで聞かれて「これです」と即答できるくらい、

いつもいつも願っている事だったら、それくらい真剣なら、結局は自分の力で実現することができるという事だと思います。


「願いごとは?」と聞かれて、「えーっと」と整理や思い出しが必要なくらないなら、

さして重要ではないということになります。


ライバルよりも思いが強ければ、諦めない分だけでも有利になります。

必死で生きていれば、一つくらいはなんとか天も味方してくれるものです。


しかし僕にとっての流れ星は、ないをどう誤解したのか、いつも「悲しい知らせ」の予兆でした。

いろんな希望をもっていても、流れ星をみたら、いつも「残念でした」という意味にとらえていました。


流れ星は、「誰かが亡くなる予兆」だと思っていました。

アンデルセンです。

星の生命の終わりが流れ星だと考えれば、どちらも儚く美しいものです。


日本では「いいこと」「願いごと」なのは、国民性からすると珍しくポジティブです。


死にゆく誰かに願いごとをするというのは、黒魔術みたいですけど

それくらい必死なら叶えてもらえるのかもしれません。


個人的には、星の綺麗な田舎に住んでいた小学生のころから、

流れ星はどんなに美しくても、儚いものだとおもって眺めていました。

そして、流れ星を見た後には、たくさんの願いごとを諦めました。

いまだに一度も、願いを伝えたことはありません。


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