器と火防の神さん、火防陶器神社。
看板は「ここから参道」のような表記になっているが、この奥に神社?
この近辺にはよく来るので地理感がなんとなくあるが、この道はさっき来た方向に戻ってしまうし、写真の通り左は高速、右に曲がれば数十歩でまた四ツ橋筋に戻ってしまうであろうこのブロックは東西に狭く、神社があるって感じではない。
たしかもう少し御堂筋側に行けば、坐摩神社(いかすりじんじゃ) があったはずだけど、それとは別にこんな所に神社があるのか??
と思いつつも、火防の文字が気になる気になる気になる器。参道らしかぬ参道へ吸い込まれていくのであった。
これ参道??
左側の阪神高速の信濃橋出口からどんどん車が降りてくるので、これがさらに神社の像を遠のかせる。
こういう時、スマホを使えば一瞬で神社の情報も出てくるのかもしれないが、ワクワク感は大事にしたい。
とか考えながら右側の建物に目をやると、「陶器の神社らしさ」がいきなり出現。
少しビックリしたが、女性の人形の着物が盃のような無数の陶器で表現されている。こういう時、スマホを使えば一瞬で神社の情報も出てくるのかもしれないが、ワクワク感は大事にしたい。
とか考えながら右側の建物に目をやると、「陶器の神社らしさ」がいきなり出現。
マンションの入口の横がショーウィンドウのようになっていた。
多数の器が織りなしている着物のディテールを見ていると、外の気温は暑いにもかかわらず少し寒気がする。
(後で調べた事:この人形は、色々な陶磁器を組み合わせて人物や物を表現した、「造り物」という歴史ある展示品だそう。)
そして、少し道なりに進むと陶器店もあったが、残念ながら閉店中だった。
飾らない建物の雰囲気も看板もかなり好きである。
(後で調べた事その2:この一角は瀬戸物などの陶磁器の問屋街だったそうで、現在でもこのあたりには南北に広く陶磁器のお店が残っている。)
参道に入ってすぐに陶器店や陶器の人形。かなりいい感じだが、まだ見ぬ神社への期待が高まると同時に、前方に延々と横たわる阪神高速見ると、ますます社や境内といったものの想像がおぼろげになっていく。
足を先に進めつつも、頭の中に、この道の先の路肩に小さな社が控えめに佇んでいる光景が浮かび、少し期待が萎えたその時・・
んん???
チャリンコに乗ったおっちゃんが高さの無い高架下から出てきた。
脇の柱に「火防陶器神社」と「参道」の文字。
ん???こっち???これですか?????
高架の下を覗いてみる。
ある・・奥に灯篭が!
この参道はどうやら、この近辺で働いている人達の通り道にもなっているようだ。
おそるおそる「参道」に入っていくと鳥居も見える。
全体的像はまだ見えないが、立派な神社である事が垣間見える。
ここまでの道のりの雰囲気もあり、良い意味で期待を裏切られたようで嬉しくなる。
そしてこの高架下の空間を抜けると・・
長い道のりを経て、ついに入口に辿り着いた(所要時間3分弱)。
「立派」なんてもんじゃない。敷地もけっこう大きい。
そして石碑の写真を撮ろうとした所で、やっとこさあることに気付く。
「ここ坐摩神社(いかすりじんじゃ)の裏側だ・・」
次回に続く。
※オマケ
高架下の参道の入口の脇に立っている柱に、火防陶器神社の由来が書いてあったので文章に起こしてみました。なぜ火防(ひぶせ)なのか、またなぜ参道に従って陶器神社に向かったのに坐摩神社の裏手に出たのかもコレを読めば解ります。
【火防(ひぶせ)陶器神社の由来】
火防陶器神社は、江戸時代初期に旧靭南通りに祭祀(さいし)されていた火除けの守り地蔵にその端を発する。
当時陶磁器に保護などで大量の藁を取り扱っていた陶磁器商たちは、火災を極端に恐れこの地蔵尊にそのご守護を祈った。
一方地蔵盆に集まる人々に感謝の心を込め奉仕の蔵ざらえを行ったのが「大阪せともの祭」の始まりである。
その賑わしさは浪速の風物詩となった。
昭和四十六年、阪神高速道路の建設に伴い坐摩神社の境内に火防陶器神社が再建され、現在に至っている。