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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 ローマ帝政の初期を生きたセネカの著書である。昨今様々な自己啓発本が出版されているが、今も昔も同じ問題提起がされている。
 他二編「心の平静について」と「幸福な人生について」も現在、僕が違和感を感じている問題にも回答を投げかけてくれた。
 『論語』(岩波文庫)より引用。

 子曰、?故而知新、可以爲師矣

 子の曰わく、故きを温めて新しきを知る、以て師となるべし。

 先生がいわれた、「古いことに習熟してさらに新しいこともわきまえてゆくなら、人の師となれる。」

 僕は今、人の師になれるような資格はないな。師となるべき最低限の要件さえも持ち合わせていない。
 『論語』(岩波文庫)より引用。 

 子曰、人之生也直、罔之生也、幸而?、

 子の曰わく、人の生くるは直し。これを罔いて生くるは、幸にして免るるなり。

 先生がいわれた、「人が生きているのはまっすぐだからだ。それをゆがめて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ。」

 生きている意味の理由だと思う。自分の良心に従って、正しいと思う道を進んでいるうちは、人生の試練を通り越した災いはふりかかってこないだろうという世界に対する信頼感を持っている。その道を進んでいるうちにこの世を去ることになろうとも、それはこの世での自分の「分」を果たしたのだと思い残すことはない。
 『論語』(岩波文庫)より引用。

 冉求曰、非不説子之道、力不足也、子曰、力不足者、中道而廢、今女畫

 冉求曰く、子の道を説ばざるには非ず、力足らざればなり。子の曰わく、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。

 冉求が「先生の道を(学ぶことを)うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」といったので、先生はいわれた、「力の足りないものは(進めるだけ進んで)中途でやめることになるが、今はお前は自分から見きりをつけている。」
 先日の連休は「寺子屋」について気にかかり、関係の本をいろいろと読み、研究していた。面白い統計表が載っていた。沖田行司著『日本人をつくった教育』(大巧社)で「私塾と寺子屋の普及」として江戸時代と明治以降の都道府県別のそれらの統計資料があった。ダントツで多いのが長野県で寺子屋は江戸時代、明治以降を合わせて1341校。次に山口県の1304校。続いて岡山の1031校であった。これら三県が教育県と称される所以はここにある。
 『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)を読んでいて「可憐」について書かれていた大井栄光さんの文章が印象的だった。彼は1941年6月14日に中国山東省柿樹園で戦死している。陸軍少尉で当時26歳。なんと深い教養であろうか。なんと深い洞察力、人間性であろうか。感銘を受けた。以下引用する。

 可憐
 可憐の情ということは?々言われる。僕もよくその気持を味わうことがある。小さきもの、微弱なる者をを慈しむ心は実に人の心に浮かぶ数々の情念の中でも非常に好ましいものである。実力のない、頼る所のない弱い者がただ弱いというだけでは、可憐の情はわかないのではなかろうか。弱いながらに自己を保存し、細々ながら下手ながら、及ばずながらの努力をあらわしているのを見るときこそ可憐の情が湧くようである。弱者が強者の庇護を当然かの如く考えているのは、結局卑屈であるに過ぎない。そこのは可憐の情はチットも湧かない。
(中略)
 或いはまた他の上官からは既に彼はダメだと烙印をおされていながらも、なお自分では無心に空しい努力をしている兵隊を見る時、可憐だと思う。彼らにだって彼らの世界はあるのだ。彼らが誇りかに自己を主張する場面もあるのだ。少なくとも彼らはその愛する父或いは母、兄弟をもっているはずだ。そして彼らが誠実であるにもかかわらず、彼らの才能の低き故に彼らは低く評価せられ、不合格の批評を受けねばならぬ。彼らは珠玉の如き美しい心をもっているのに、彼らの父・母・兄弟が彼に希望をおき彼に期待しているのに、彼らは結局微弱なのである。その時とのような兵一人一人が限りなく可憐になる。
 我々は過去からしか未来を拓けない。過去から学ぶしかないのである。歴史を学ぶ意味、書物をとおして先人と対話する意義をもっと考えた方が良い。今、感じて学んでいると思うのはおごりである。謙虚に先人の言葉に耳を傾けることに「学問」の姿がある。身の修めかたこそ、それである。
 再々度、『論語』を紐解いている。「學而第一」は、なぜ「學而第一」という篇のタイトルがついているのか?それはただ篇の初めの二文字が「學而」であるからに過ぎない。
 同じ事を聞いたことがある。音楽家の友人が投げかけた質問。
「なんでレクイエムって言うか知ってる?」
 僕はありとあらゆる理由を探して答えたが、どれもピントをはずしていた。答えは単純にレクイエムの最初の歌詞が「レクイエム」と歌い出すからに他ならない。
 今日、僕は『論語』を読んでいて、その共通点に気が付いた。・・・ささいな事だけどね。ほんとに。
 鍵を意識するのは
 扉に鍵を閉めるときだけ
 鍵は扉を支える柱に常にかかっているのに
 全くきづかれない
 存在するのは
 朝と夕方だけ
 我々は観たいモノしか観ていない
 ここに書かなくなって一ヶ月と一週間が過ぎた。書くことが無かったわけではない。書きたいことへの感情の波にのまれてしまっていたというのが適切だろう。
 今、この一ヶ月を振り返ってみても何で書かなかったのか?と不思議になる。題材は山ほどあり、事件は日々起きていた。書こうと思えばいくらでも書けたといえる。が、書かなかった。書けなかった。日常の肉体のリズムと理想の精神のリズムのズレがそうさせたのか。
 書きたいときの書くという当たり前の距離感を取り戻そう。別に何に追われているわけでもない。僕は僕で実際に生きているのだから。