教員採用試験の面接で聞かれた質問がある。
「こどもの間で流行っていることを知らなければいけないと思います。子どもの間で流行っていると思われる日本人歌手はごぞんじですか? 」
その場は面接なので、情報として頭にある歌手の名前を言って答えたが、果たして教師たる資格に子どもの間で流行っていることを知っているか知らないか、という要素は必要なのだろうか。
僕は「必要ない」と考える。教師である者は子どもの立ち位置まで降りて、そこで子どもと目線を同じくする必要はないと考えるからである。子どもと向き合うのが教師ではない。それは「教員」と呼ばれる事務員に任せておけばよい。「教師」たるもの、先にあるもっと崇高なモノを見つめ、「この人が追求しようとしているこの道は面白そうだぞ」と子どもに思わせてこそであろう。
自分にできているか。できていない。自分への戒めとして書いている。でも「教員採用試験」だもんね。「教員」を採用しているんだ。その教員採用に関しても教育改革として社会人と外国人を全体の20%を目標に採用していく方針を提案している。「社会人」ってなんだろう?会社で働いている人のことか?外国人ってなんだろう?英語を喋ることのできるひとのことか?大丈夫かな、日本?これについてはまた機会を改めて考えを書くことができそうだ。
僕の目指す「教師」とは地位や肩書きではない。自分で成っていくしか道はないのである。例え肩書きが「教員」でなくても「教師」にはなれるということである。自分には追求している道を歩いているだけで「教師」という自覚はないだろうが・・・。
スナック菓子の袋やアイスのパッケージ、その他諸々の商品の包装紙には「開封時に手を切らないように注意してください」と記されている。今日、給食で包装袋にそう書かれている食べ物がでた。読んでいて違和感を思えたがイマイチどういう事に対する心の摩擦なのかが自分の言葉で表現できずモヤモヤしていた。家に帰り、父親と話をしていく中で明らかになったことがある。対話の中でというよりも、自分が一生懸命その違和感について説明しているうちに考えが整理され、明確になり、そしてその原因を突き止めたという感じだ。
「開封時に手を切らないように注意してください」を読んだときに、大多数の人はどう感じるだろうか? 僕は「しょうもない。切る人なんているのか?」と半ば呆れた感情を抱く。それは僕の意見だ。他の人はどう感じるかはわからない。
仮にその袋を開封するときに運悪く、手を切ってしまう人がいるかもしれない。その人はどういう感情を抱くだろうか?僕であれば自分の不注意や不手際に対して憤りを感じたり、大したケガではないだろうから、諦めの気持ちを持つと思う。
ここで「開封する時に注意しろだなんて、書いていないじゃないか!私のケガはこの商品を作った企業の責任だ!訴えてやる!!!」っていう人はごく少数で、ちょっと変わった人というのが一般的な意見だろう。しかし、この世の中には実際にそういう人がいるのだ。自分の権利ばかりを主張する人が。それこそ「欧米か!!」とツッコミが入りそうだが・・・。
商品を作った企業が「開封時に手を切らないように注意してください」という文言を付すのは、明らかにそんなごく少数の人たちに向けてのコメントである。要は「訴訟対策」ということになろう。ケガした人がいても「だから、『ちゃんと注意してください』って書いていたじゃないですか!」と。
残念なことに開封時に手を切ってケガをしてしまう人もいるだろう。でもその中の大多数の人がそれによって損害賠償を訴えるような訴訟は起こさない。この文言は「訴訟を起こしそうなごく少数のちょっと変わった人」向けに発せられた言葉であり、ケガを心配をする心遣いのコメントではなく、訴訟対策なのである。そこには優しさも思いやりも丁寧さも礼儀もない。あるのは「保身」だけである。
僕が違和感を感じていたのはそこだった。一見「ケガしないように」と消費者を気遣う優しいように思える文言であるが、その文言には全くその気持ちが込められていない。むしろ訴訟に備えるという専ら「保身」の為の言葉として記されているのである。そのギャップが見えたからこそ、その「偽善」の態度に偽物を感じ、違和感を覚えたのだ。
「開封時に手を切らないように注意してください」を読んだときに、大多数の人はどう感じるだろうか? 僕は「しょうもない。切る人なんているのか?」と半ば呆れた感情を抱く。それは僕の意見だ。他の人はどう感じるかはわからない。
仮にその袋を開封するときに運悪く、手を切ってしまう人がいるかもしれない。その人はどういう感情を抱くだろうか?僕であれば自分の不注意や不手際に対して憤りを感じたり、大したケガではないだろうから、諦めの気持ちを持つと思う。
ここで「開封する時に注意しろだなんて、書いていないじゃないか!私のケガはこの商品を作った企業の責任だ!訴えてやる!!!」っていう人はごく少数で、ちょっと変わった人というのが一般的な意見だろう。しかし、この世の中には実際にそういう人がいるのだ。自分の権利ばかりを主張する人が。それこそ「欧米か!!」とツッコミが入りそうだが・・・。
商品を作った企業が「開封時に手を切らないように注意してください」という文言を付すのは、明らかにそんなごく少数の人たちに向けてのコメントである。要は「訴訟対策」ということになろう。ケガした人がいても「だから、『ちゃんと注意してください』って書いていたじゃないですか!」と。
残念なことに開封時に手を切ってケガをしてしまう人もいるだろう。でもその中の大多数の人がそれによって損害賠償を訴えるような訴訟は起こさない。この文言は「訴訟を起こしそうなごく少数のちょっと変わった人」向けに発せられた言葉であり、ケガを心配をする心遣いのコメントではなく、訴訟対策なのである。そこには優しさも思いやりも丁寧さも礼儀もない。あるのは「保身」だけである。
僕が違和感を感じていたのはそこだった。一見「ケガしないように」と消費者を気遣う優しいように思える文言であるが、その文言には全くその気持ちが込められていない。むしろ訴訟に備えるという専ら「保身」の為の言葉として記されているのである。そのギャップが見えたからこそ、その「偽善」の態度に偽物を感じ、違和感を覚えたのだ。
目に映るモノが、そのモノとしてみえなくなる
単なる通い慣れた道路
いつも通りの車の運転席とそこから見る風景
毎日毎日同じコトを繰り返す夕暮れ時
澄み切った空気の向こうで沈んでいく橙色
その手前にある真っ黒なビルや山の影絵
遠くには電車の音がする
一つ一つが僕に話しかけてきて、長すぎる一日
宙に浮いて彷徨う視線がまた物語を探し、視界をを滲ませる
単なる通い慣れた道路
いつも通りの車の運転席とそこから見る風景
毎日毎日同じコトを繰り返す夕暮れ時
澄み切った空気の向こうで沈んでいく橙色
その手前にある真っ黒なビルや山の影絵
遠くには電車の音がする
一つ一つが僕に話しかけてきて、長すぎる一日
宙に浮いて彷徨う視線がまた物語を探し、視界をを滲ませる
自分の歩いていく道が見えてきている気がする。昨年にはなかった感覚だ。年始めに「去年始めたことを続けていく」という目標を立てられるのがその証拠であろう。いずれその積み上げてきたモノも崩し、捨てていく時がおとずれるだろうが今はまだまだ積み上げきれていない。
面白い一年になるといい。年末に司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読んだ。高杉晋作の辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」に目が留まる。
面白い一年になるといい。年末に司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読んだ。高杉晋作の辞世の句「おもしろきこともなき世をおもしろく」に目が留まる。
ここからのぼっていけるかな。まだまだはじまったばかり。十年後、惑わずおれるよう僕は立つ。
西洋・東洋問わず、様々な思想書を読んでいる。どれもこれも時代のフィルターにかけられ現代まで残ってきた名作ばかりである。自分の主義・主張に近いモノもあれば、全く反対の考え方のまで様々である。
当然、思想であるのでキリスト思想のモノであるとか、ブッダの言葉であるとかの宗教に関する本も含まれる。だいたいそういうのを読んでいると「宗教的だ」とか「考え方が偏る」とか言われる。そうですよ。宗教関係の本を読んでいるんだから当然「宗教的」です。そして考え方は「偏りません」
そもそも「偏る」ってどういうことをいうのだろう?むしろどこにもバイアスがかかっていない思想は思想ではないのではないだろうか?生きるということを考える、その真摯な姿勢が宗教的だというのならば、僕は宗教的な人間でよい。どんな人であれ自身の中に「宗教的」なモノはもっているのである。目を逸らさず向き合うべきである。
哲学・宗教・芸術は真・善・美であり一体のモノである。
当然、思想であるのでキリスト思想のモノであるとか、ブッダの言葉であるとかの宗教に関する本も含まれる。だいたいそういうのを読んでいると「宗教的だ」とか「考え方が偏る」とか言われる。そうですよ。宗教関係の本を読んでいるんだから当然「宗教的」です。そして考え方は「偏りません」
そもそも「偏る」ってどういうことをいうのだろう?むしろどこにもバイアスがかかっていない思想は思想ではないのではないだろうか?生きるということを考える、その真摯な姿勢が宗教的だというのならば、僕は宗教的な人間でよい。どんな人であれ自身の中に「宗教的」なモノはもっているのである。目を逸らさず向き合うべきである。
哲学・宗教・芸術は真・善・美であり一体のモノである。
肉体的限界が精神的限界を凌駕した時、自身の身体に異常を来す。肉体的限界は常に精神的限界の範疇に留め置かれるべきなのか。
精神的限界を見誤り、その臨界点を超えてしまっているにも関わらず肉体を使用しているとやがてその肉体も限界を迎える。
自身精神との対話を通して、肉体の状態を見定めねば調和ある活動ができない。
精神的限界を見誤り、その臨界点を超えてしまっているにも関わらず肉体を使用しているとやがてその肉体も限界を迎える。
自身精神との対話を通して、肉体の状態を見定めねば調和ある活動ができない。
見るなというなら目を閉じよう
私には聞くことができる
聞くなというなら耳をふさごう
それでもまだ私は観じることができる
私には聞くことができる
聞くなというなら耳をふさごう
それでもまだ私は観じることができる
一週間に10冊程度の本を購入している。最近では仕事を終えると書店が閉まっている時間でもあるし、書店に並んでいる本も雑誌などばかりな店が多いので、アマゾンで購入することが多い。
本を読むスピードが速くないので、たくさんの本を読むことができない。ハズレの本を読んでいる時間はもったいないので、必然的に良い本を選んで購入することになる。となると、最近出版されている本で時間によって淘汰されていない、評価の定まっていない本を選ぶよりは、既に名作として古典に数えられる本を選んだ方がハズレが少ないというわけである。
古典も文庫で出版されておりだいたいが1,000円以内で購入できる。だいたい平均500円だとして週10冊。一週間が5,000円。一ヶ月20,000円である。自分に対する投資である。安いものだ。本を読むスピードがもっと速ければ、まだまだ冊数を増やせるだろうが、消化しきれないことがほとんどなので増える見込みはない。しかもこんなにも楽しい時間を過ごせる。読書がとても好きだ。
本を読むスピードが速くないので、たくさんの本を読むことができない。ハズレの本を読んでいる時間はもったいないので、必然的に良い本を選んで購入することになる。となると、最近出版されている本で時間によって淘汰されていない、評価の定まっていない本を選ぶよりは、既に名作として古典に数えられる本を選んだ方がハズレが少ないというわけである。
古典も文庫で出版されておりだいたいが1,000円以内で購入できる。だいたい平均500円だとして週10冊。一週間が5,000円。一ヶ月20,000円である。自分に対する投資である。安いものだ。本を読むスピードがもっと速ければ、まだまだ冊数を増やせるだろうが、消化しきれないことがほとんどなので増える見込みはない。しかもこんなにも楽しい時間を過ごせる。読書がとても好きだ。
古典を読もうと思っている。古典といえば岩波文庫であろうか。安価に不朽の名作に親しむことが出来る時代に生まれた幸福をかみしめる。
この岩波文庫の巻末に「読書子に寄す-岩波文庫発刊に際して-」という文章がある。「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」という一文から始まるこの文章に感銘を受けた。
この岩波文庫の巻末に「読書子に寄す-岩波文庫発刊に際して-」という文章がある。「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」という一文から始まるこの文章に感銘を受けた。