大河ドラマ、「光るの君へ」を見ていて・・・
~私は今年の大河、好きです。藤原氏の男子たちの名前を
覚えきれないという難点はあるけれど、時代の流れの捉え方が
これまでと、また違い、言葉遣いについて批評・批判もあった
らしいけれど、実際、現代だって、私たちは場面に応じて
いろんな言葉遣いをしているのだから、登場人物がドラマ中で
砕けた物言いをしていても、そういう場面があっても許容範囲と
思うし、はっきりどんな言葉をどこで使っていたか(書き言葉で
ない以上)誰にもわからないのだから~
自分の前世や今世を見ているようで、、、そんな印象を受ける場面が
あって、ため息が漏れる。
誰かの生まれかわりというのではなく、
ああ、こういうこともあっただろうな、と。
朝ドラは、朝ドラで、現代の私の、田舎の風習との葛藤・・問題が、
~男はできるけれど、女はそれはしてはいけない等~
昭和のあの時代から、進歩していない?変わっていないのだな等と
考えさせられることもあり、(なんたって、私は出身が新潟県で、
ドラマには三条~新潟市辺りでの生活のシーンもあったので)
こちらもため息・・・。
今回の朝ドラ「虎に翼」のナレーションをしている尾野真千子さんが
主人公を演じた朝ドラ「カーネーション」では、彼女の子供時代の
(その子役が、もう!私にはたまらなくカワイイというか愛着があり)
糸子が、女はそんな男とケンカなんてしちゃだめだと、
男と女は違うと、お父さんに叩かれる場面がある。
その時、お父さんをぐっと涙を流しながらも見る(睨む?)子役の糸子、、、
私はあの場面でどれだけ泣いたことか!
女だから???なぜ???
女だって、悔しいことがある・・・。できることがある・・・。
お父さんの愛情や気持ちもわからなくもないけれど、あのシーンは、
私の心の叫びのような気がして、泣けた。
今年の大河も、朝ドラも、そのストーリーの中には、
女が世の出て行く難しさ、認められることが容易ではないことが含まれ、
描かれている。
スウェーデン人の女性解放運動(?教育学者)?)に、故エレン・ケイ という人がいる。
(著書に、「恋愛と結婚」「児童の世紀」など邦訳されているものもある)
彼女の言うように、私は、男女平等とはいえ、身体の差異があるゆえ、
全くのすべての平等は不可だと思うし、そうする必要もないと思う。
しかし、(彼女の見立てのように)男性だけが有利・優先のような
社会の仕組みではなく、女性の立場に合う、女性が男性同様に捉えられ
自分の生き方を生きることのできる、そういう”男女平等”(現代なら、
男女と分けるのではなく、どの性別であってもとなるだろうが)を
私も望む一人である。
※エレン・ケイ(Ellen Karolina Sofia Key,
糸子の子役をした星(あかり)ちゃん、、、今は学業真っただ中かな?
卒業して、女優業、たくさんやってるかな?
私は、夫婦別姓も叶わず、女だからでしゃばるな、親元に居ろと親戚には
言われ(親戚は閉鎖的でも、親は現代的で賛成してくれた)、残念な
ことあり、悔しいことありで、ここまで来た。
女性には女性の、男性には男性の有り様があって、それでいいと思う。
でも、だからといって、可能性をつぶすとか、できることをその性差を理由に
否定するような世の中ではあってほしくない。
スウェーデンで、男性(パパもお祖父ちゃんも)もベビーカーを押して
カフェで談笑する、、、それが、違和感なく存在する、、、見れる今、
日本もいつか、そうなるかなと・・・うわべだけマネするのではなく、
人々の意識が変わらなくてはならないのだけど、・・・
朝ドラや大河を見ながら、あれこれ思う今日この頃・・・。
~ 了 ~
読んでくださってありがとうございました。
人の転生では、男女両方を体験すると言われています。
頑固な日本の高齢国会議員おじさんたちは、、、、もしかしたら、
よほど前世で女性(お母さんとか?)にやり込められた経験があるのかな?
だから、女性は男性社会に含まれる形を捨てられない?夫婦別姓ではなく、
同じであるべき~なんてこだわる?なんて思うと、少し笑える・・・私です。
夫婦別姓でうまく(むしろ日本よりも家族を大事に)やっている国、民族は
いくらでもあるのに、夫婦の姓が別だと子供が混乱するだの、家族の和が
保てないだの、、、そんなのは、理由にならない、と私は思うのです。