今回からしばらく、まだそれほど仲のよくない人と、なれなれしくならないように距離を保とうとしてやる話し方(ストラテジー)であるネガティブ・ポライトネスについて考えていきます。
このネガティブ・ポライトネスというのは、人がもつ「他者に邪魔されたくない、踏み込まれたくない」という自己決定の欲求に配慮するものです。
これをもう少し具体的に言うと次のようになります。
定義上、このタイプのポライトネスは、相手の領域に踏み込むことや直接名指すことを避け、遠隔化表現と間接的表現によって、相手を遠くに置き、事柄に直接触れないようにする、表現の敬避性を特徴とする。"回避"または"敬避"のストラテジーと言い換えることができる。
(滝浦真人『ポライトネス入門』,研究社,2008年,p. 39)
今回は、神楽坂あやめが、編集部に押しかけてきてしつこく食い下がる山田エルフに帰るよう命じるのに、どのように間接的表現を用いているのかを見ていきます。
間接的に命令・依頼を行う表現というのも、間接的表現に含まれるのですが、そもそも間接的であるということを、ブラウンとレヴィンソンがどのように述べているのか、まず見てみましょう。
ストラテジー1 慣習に基づき間接的であれ
このストラテジーにおいて、話し手は相反する圧力に直面している。間接的に言うことによって相手に「逃げ道」(out)を与えてやりたいという欲求と、オン・レコードで事を成し遂げたいという欲求である。このような場合、慣習的な間接性という妥協によって解決が図られる。つまり、その文字通りの意味とは異なるが、(慣習化のお陰で)状況からその意味が明らかになるような語句や文を用いるのである。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 181)
これは結局、以前「行為の促しと気配りの公理」で取り上げた、リーチによる「気配りの公理」と似たようなものです。
つまり、相手に情報を教えるよう依頼する場合に、「教えろ」よりも、「教えてもらえますか?」の方がポライトで、それよりも「教えていただけるとありがたいんですが?」の方がさらにポライトになり、それは後になればなるほど間接的な言い方になっているからだということでした。
実は何か相手の負担となることを依頼する場合、間接的な言い方をすればするほど、はっきり依頼していない(そうしろと言っていない)分、言われた相手は断りやすくなります。
ブラウンとレヴィンソンの言う「間接的に言うことによって相手に「逃げ道」(out)を与えて」というのは、このようなことを言っているのです。
依頼からの逃げ道というのは、つまるところ、依頼を断ることだからです。
滝浦は上記のストラテジー1の例として次のようなものを挙げていますが、これも同じです。
例:[依頼の表現は用いず依頼の前提にだけ言及する]
「日程が決まり次第、ご連絡をいただければと思います」
(滝浦真人『ポライトネス入門』,研究社,2008年,p. 40)
『エロマンガ先生』で、編集部に来てなかなか帰ろうとしない山田エルフに対して、神楽坂あやめが用いているのもこのような言い方です。
神楽坂あやめが山田エルフに帰るように言っている最初の言葉から見てみましょう。
「だから? そちらで勝手に交渉するのは自由だと言ったでしょ? なんで私が他社に利するような真似をすると思うんですか?」
「フフッ、わがままね! やれやれ、仕方ない……特別にわたしの次シリーズ、あんたのところで書いたげる! それならいいでしょ!」
「え? ダメですけど?」
「えっ、なに? よく聞こえなかったわ。オリコン一位のわたしが、史上最高の美少女ラノベ作家であるこのわたしが、裏切り者の汚名を被ってまで! この出版社で書いてあげてもいいと言ってるのよ? こんな破格の条件、これを逃したら未来永劫ないわよ?」
どんだけ自己評価高いんだよこいつ。
「はぁ〜……そろそろ帰ってくれませんかね―あっ!」
神楽坂さんの目が、隠れて覗き見ていた俺をロックオンした。
やべっ。
「和泉先生! お待ちしてましたよ!」
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,p. 148)
[アニメ版だとリア充委員長と不敵な妖精のBパート]
ここでもし、まったくポライトでない言い方を神楽坂あやめがすれば、「帰れ」あるいは「帰ってくれ」のようなものになるでしょう。
ここでの「…てくれる」は、『日本国語大辞典』(精選版)の記述にあるように、「他者の行為の下に付けて、その行為が好意的になされたり、こちらに利益や恩恵をもたらしたりするものであることを表わす」用法です。
「くれ(る)」をつければ、山田エルフが帰るという行為が、神楽坂あやめに利益・恩恵をもたらすものであることが明確になるのですが、別にこれはなくてもかまいません。
問題となるのは、「そろそろ」という副詞があることと、「…ませんかね」という疑問文になっている点です。
「そろそろ」を『新明解国語辞典』(第七版)で引くと、「事態が経過して、問題とする時(状態)が間近に迫っている様子」と定義してあり、さらに「(それでは)そろそろ」などと言いさして、自分の帰宅や、予定の終了の時刻が迫っていることを、相手に知らせるのに用いられることがある」と補足が述べられています。
つまり、ここでは「そろそろ」という、予定の終了の時刻が迫っていることを、相手に知らせるための、慣習的な間接性をもつ言い方をまず使って、帰ることを促しています。
さらに、「…ませんかね」という疑問文に注目してみましょう。
これは、本来〈質問〉を表す疑問文を使って、帰ってくれるか否か訊ねることで間接的に帰ってくれるよう依頼しているのです。
以前「疑問文で質問以外のことをする仕組みと理由」という記事で書いたように、これは依頼という本来ならば命令文によって行うはたらきを、質問を表すはずの疑問文によって、間接的に遂行している手の込んだふつうじゃない言い方で、間接発話行為と呼ばれるものでした。
これによって、山田エルフに逃げ道を残すような言い方をして、神楽坂あやめは、大人としてのきちんとしたポライトな言い方をしているのです。
ここで神楽坂あやめが山田エルフに「帰れ」とはっきり言ったなら、売り言葉に買い言葉で、山田エルフの方も「なんでそんな言われ方しなきゃいけないのよ」のように言い返して、口げんかになっていたかもしれません。
ラノベ版では、同様の言い方を、神楽坂あやめは以下のようにもう一度しています。
「ってわけで、山田エルフ大先生のイラストを描くように、あんたたちからも説得しなさい」
「ちょ!」
なに言ってんだこのアマ!
バッ! 俺は神楽坂さんを睨みつける。
担当編集はやれやれとばかりに肩をすくめた。
「山田先生、いまから和泉先生との打ち合わせがあるので、もう帰ってくれません? 」
「打ち合わせ? そんなのどーでもいいわ!」
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,p. 154)
[アニメ版だとリア充委員長と不敵な妖精のBパートだが、当該の台詞はなし]
ここでは、先ほどの疑問文の使用に加えて、「いまから和泉先生との打ち合わせがあるので」という、帰るよう山田エルフに依頼する理由が述べられています。
実はこれは、間接的な言い方のうち、以下のようなものに相当するのです。
ストラテジー6 謝罪せよ
FTA を行うことに対して謝罪をすることによってS(話し手)はH(聞き手)のネガティブ・フェ
イスを侵害することを望んでいないことを伝え、それによって、その侵害を部分的に埋め合わせることができる。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 263)
ここで言うネガティブ・フェイスというのは、人がもつ「他者に邪魔されたくない、踏み込まれたくない」という自己決定の欲求のことです。
謝罪が相手に対する言葉の上での気遣いをしばしば表すことは、日本人がよく「ありがとう」の代わりに「すみません」と言うことからも明らかです。
例:[謝罪を感謝の表現として用いる]
「こないだはどうもありがとう。いつも気をつかってもらっちゃって、ほんと申し訳ないね」
(滝浦真人『ポライトネス入門』,研究社,2008年,p. 40)
これも考えたら、ちょっと不思議ですよね。なにせお礼を言うのに謝っているんですから。
さて、このような欲求を侵害することを望んでいないと伝える1つの方法は、理由があるからしょうがないんだと相手に言うことです。
圧倒的な理由を示せ
3 つ目の方法として、S(話し手)は、自分にはFTAを行うやむを得ない理由(例えば、自分自身の能力上の問題)があると主張するかもしれない。それによって、ふつうの状況であれば、S(話し手)がH(聞き手)のネガティブ・フェイスを侵害することなど考えもしないはずであるということを示す。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 266)
ブラウンとレヴィンソンが挙げている、これに関する例は以下のようなものです。
I can think of nobody else who could... 他にできる人が思いつかないのです。
I simply can't manage to ... どうしてもやりくりがつかないのです。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 266)
山田エルフに帰ってもらわなければ困る理由を、「いまから和泉先生との打ち合わせがあるので」と明確に述べることによって、「あなたを嫌って理由もなく追い返しているのではない」というメッセージを間接的に伝え、それによってポライトな言い方にしているのだと言えます。
この理由を逆から述べると条件になります。
これも同様に、そのようにしないと、どのようなまずい事態が生じるのか相手に伝えることで、やはり「あなたを嫌って理由もなく追い返しているのではない」というメッセージを間接的に伝えることになるからです。
この例が、神楽坂あやめが山田エルフを帰らせようとして行っているやりとりの、終わりの部分に見られます。
エルフは、カッ、と両目を見開いた。
「わたしがライトノベルよ!」
どんっ! 巨大な擬音を幻視してしまうほどの、凄まじい決め台詞だった。
あまりのド迫力に、俺は気圧され、たたらを踏んだ。
すべてを聞き届けた神楽坂さんが、淡々と言う。
「ライトノベルちゃん、早く帰らないと、そっちの担当編集に苦情を入れますよ」
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,pp. 157-158)
[アニメ版だとリア充委員長と不敵な妖精のBパート]
以上のように、ネガティブ・ポライトネスのストラテジー1と6をうまく使うことで、大人である編集者の神楽坂あやめは、子供で自分の思っていることを言い続ける山田エルフにうまく対処し、角が立たないようにしているのです。
このようなネガティブ・ポライトネスのストラテジーをうまく使うことで、いわゆる「大人の会話」がうまくできているのだと言ってもいいと思います。
神楽坂さん、女子大生的なノリももっていますが、こういうところはちゃんと大人なんですね。
私自身、こういうことうまくできない人なので、見習いたいなぁ。