これまで見てきたように、ポジティブ・ポライトネスというのは、仲のよい人と話をするとき、もっと仲良くなろう、もっと2人の距離を縮めようとしてやる話し方(ストラテジー)でした。
そしてこれは、人がもつ「他者に受け入れられたい、よく思われたい」という他者評価の欲求に配慮するものでした。これは、
ポジティブ・ポライトネスとは実際には、多くの点で、単に親しい者同士の通常の言語的行為を指しているとも言える。例えば、互いの人格に対し興味を持って賞賛し合ったり、互いの欲求や知識が共通しているという仮定のもとにやりとりしたり、相互に義理を尽くし互いの欲求を反映することをそれとなく伝える、というようなことは日常的に行われる。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,pp. 134-135)
でした。前回から、神野めぐみが初めて和泉家を訪ね、リビングに通されたときに、和泉マサムネと交わした会話について見ているのですが、今回は特に「相互に義理を尽くし互いの欲求を反映することをそれとなく伝える」という部分に着目します。
みなさんは「…ましょう」という日本語の連用形に接続する連語をどのような場合に使いますか。
まず、『エロマンガ先生』から2つ例を見てみましょう。
1つ目は前回も見た、神野めぐみが和泉家を訪ねて、和泉マサムネと交わしている会話です。
「ちなみにおにーさんは、このままでいいと思ってるんですかっ?」
「もちろん、よくないと思ってるぞ。この一年間、あいつが部屋から出てきてくれるよう、俺なりに色々がんばってきたつもりだ。……うまくいっているとはいえねえけどな」
「だったら、あたしと目的は一緒ってわけですね」
「まぁ……そうかもな」
正確にはちと違うが、いまはいいか。実際、『紗霧に部屋から出てきてほしい』ってところまでは、目的が一緒だしな。
「でしたら、おにーさん、あたしと同盟を組みましょう!」
ぐっと拳を握りしめ、めぐみはそんなことを言い出した。
「同盟ねえ……」
[…]
「はいっ。ヘヘー、名付けて、和泉ちゃんを部屋から引き摺り出すぞ同盟です!」
「なんだそのぶっそうなネーミングは」
「フッ、あたしの気合の入りっぷりが伝わるというものでしょう」
確かに、から回るほどの熱意がひしひしと伝わってくるが…… 。
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,pp. 108-110)
[アニメ版だと第2話 リア充委員長と不敵な妖精のAパート]
ここで神野めぐみは和泉マサムネに、和泉紗霧ちゃんを部屋から引きずり出すため2人が同盟を組むよう勧誘しています。
同盟というのは『明鏡国語辞典』(第二版)で「個人・団体・国家などが共通の目的のために協力し、同じ行動をとるように約束すること」とあることからも分かるように、2人以上でやることです。
つまりここでは、2人で(言い換えると、私とあなたで)共通の目的のため同じことをしようといっているわけです。
まとめると、「同盟を組みましょう!」の「ましょう」は、話し手である神野めぐみが、聞き手である和泉マサムネに対して、2人で何かしようと勧誘しているわけです。
一方、以下の場面も考えてみましょう。
神楽坂さんは、一言俺に挨拶をしたのち、企画書をぺらぺらめくり続けている。
[…]
ただ企画書を読まれているというだけなのに……目の前のこの人から、地獄行きを告げる閻魔大王のような圧力を感じてしまう。
見ろよこの顔…………命を刈り取る形をしてるだろ?
「和泉先生―」
死神が、口を開いた。
ごくっ、と、俺は生唾を飲み込む。
神楽坂さんは、企画書をぱさっと机に放り置く。
でもって嫌がらせのように、さんざん焦らしまくったあげく
「―これで行きましょう」
「えっ……ほ、ほんとですか?」
ボツじゃないの?
(伏見つかさ『エロマンガ先生2―妹と世界で一番面白い小説―』電撃文庫,2014年,pp. 174-175)
[アニメ版だと第6話 和泉マサムネと一千万部の宿敵のBパート]
ここでは、担当編集者の神楽坂あやめが、和泉マサムネの書いてきた企画書を読んでいます。
読み終わった神楽坂あやめは、「―これで行きましょう」と言っていますが、先ほどの例ほどは「2人で」というニュアンスがないのにみなさんは気付きましたか。
一応、和泉マサムネにとっては利益にはなっているものの、主導権・裁量を握っているのは、神楽坂あやめ1人です。
つまりこの場面では、神楽坂あやめが、自分1人の裁量で、和泉マサムネの書いてきた企画書を通すと言っています。
和泉マサムネは利害関係者ですが、この場合、一緒に何かするというよりも、話し手である神楽坂あやめの意志に従いその提案に乗るというニュアンスが強いです。
まとめると、この「―これで行きましょう」の「ましょう」は、話し手である神楽坂あやめが、聞き手である和泉マサムネに対して、自分1人の意志を提示しているわけです。
「ましょう」というのは実は、本来的には話し手と聞き手の2人で何かすることを勧誘する連語なのです。
ところが、そこから話し手1人の意志を、さも聞き手も同じ意志を抱いていて、それを2人で決めたことであるかのようにみなす形で提示するのにも使われるのです。
これはやはりポジティブ・ポライトネスの一種だと考えられます。滝浦はこの点について、次のような説明をしています。
さて、事柄をポジティブに"見なす"とは、相手と触れ合い、相手との間で事柄を共有しているかのように、視点を操作しながら出来事を表現することである。[…]そうした距離感を嫌わないなら、相手もまたその共同性のなかに引き込まれることになる。
(滝浦真人『ポライトネス入門』研究社,2008年,p. 37)
つまり、話し手が自分の行為を提案するのに、聞き手をその行為に何らかの形で引き込んで関係させることによって、本当は話し手1人でやる行為を、あたかも話し手と聞き手の共同作業のように言っていることになります。
ちなみにこの連語を一番詳しく定義している『明鏡国語辞典』(第二版)では、以下のような4つの意味が載っています。赤字にしてある意味が、今回着目してきた部分です。
ましょ‐・う
((連語))《動詞の連用形に付いて》
①推量を丁寧に表す。
「今夜半は雷雨がありましょう」「彼なら辛抱してくれましょう」「何と言いましょうか、返答に窮しますね」
②勧誘や婉曲(えんきょく)な命令を丁寧に表す。
「さあ一緒に乾杯しましょう」「今日は遊園地はやめにしましょう」「皆さん、お静かに願いましょう」
③意志や申し出を丁寧に表す。
「私から説明しましょう」「私からご説明いたしましょうか」
④《疑問や感嘆の意を表す語を伴って》反語や感動を丁寧に表す。
「こんなことにだれが気がつきましょう(か)」
◆丁寧の助動詞「ます」の未然形+意志・推量の助動詞「う」。
[表現]
(1)①は、非意志的な意味を持つ語に付く場合は、終止形+「でしょう」に比べて古めかしい言い方となる。「雷雨がありましょう/雷雨があるでしょう」「辛抱してくれましょう/辛抱してくれるでしょう」
(2)②③は、くだけた言い方では「ましょ」とも。「さ、帰りましょ」
ここには①~④まで4つの意味が挙げられていますが、青字にした①の推量の意味と、そこから派生した④の感嘆の意味は、昔の言い方で今はもう使わないように思われます。
これは『岩波国語辞典』(第七版)に次のように書いてある通りです。
推量を表す時には、「でしょう」を使うことが多い。「あすは晴れるでしょう」
つまり、「あすは晴れましょう」の代わりに、今では「あすは晴れるでしょう」と言うということです。
さて、ここからが本題です。「ましょう」の今日の主要な意味は、②の勧誘と、③の申し出なのです。
これらは広い意味での提案であるという点で共通しています。
でも、勧誘は話し手と聞き手を含めたみんなでやることなのに、申し出は話し手が1人ですることであって、両方の意味が同じ「ましょう」に入っているって、ちょっと不思議だと思いませんか。
実は、②の勧誘が「ましょう」本来の用法であり、③の申し出は、本来話し手が1人でやる行為をあたかも聞き手も巻き込んだ行為のように述べ、それに勧誘するという形を取っている派生的用法なのです。
さらに、この2つの「ましょう」の意味はどちらも、興味深いことに英語のLet's ...を使って表すことができるのです。
英語のLet's ...はもともとLet us ...(私たちに…させてください)の縮約形なので、これは本来us(私たち)、つまりS(話し手)とH(聞き手)でやることを提案する形なのです。だからやはり②の勧誘の用法を本来表します。
ところが、S(話し手)かH(聞き手)のどちらか1人だけがやることを提案する(つまり③の申し出に相当する)場合にも、2人でやることを提案するLet's ...を使うことで、2人とも、つまり互いの欲求を反映することをそれとなく伝えることになるわけです。
このようなポジティブ・ポライトネスのストラテジーは、ブラウンとレヴィンソンによって次のように説明されています。
ストラテジー12 S(話し手)とH(聞き手)両者を行動に含めよ
包括のwe(inclusive 'we')という形 を使うことで、実際にはS(話し手)がyouかmeのいずれかを指してはいても、協力的な関係を想定することになり、FTA 補償を図ることができる。英語のLet's(~しましょう)は包括のweの一形態であり、よく耳にする例として次のようなものが挙げられる。
(129) Let's have a cookie, then. (i.e .me)
それでは、クッキーを食べましょう。(i.e.私が)
(130) Let's get on with dinner ,eh? (i.e .you)
さあ、食事を始めましょう。(i.e.あなたが)
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 174)
挙げられている例文について、他の例とも比べながら、もう少し考察していきましょう。
『ジーニアス英和辞典』(第5版)に載っている次の例文のLet's ...や、その日本語訳の「ましょう」の場合、話し手と聞き手を含めたみんなでやることを提案しています。
Let's see how things go.
事態の成り行きを見ることにしましょう
Let's not talk about it(, shall we?).
その話をするのはよしましょう
これがLet's ...や「ましょう」の本来の使い方で②の勧誘に相当します。
ところが、話し手がクッキーを食べたいときに、聞き手の意志とは無関係に次のように言うことで、自分がクッキーを食べ始めることを聞き手(あるいは周り)に伝える場合があります。
(129) Let's have a cookie, then. (i.e .me)
それでは、クッキーを食べましょう。(i.e.私が)
この場合、Let's ...は実質的にLet me ...(私に…させて下さい)の意味で使われています。
『ジーニアス英和辞典』(第5版)に載っている、
Let's give you a hand. 手伝わせてくれよ(=Let me give you a hand.).
や、何かを考えたり思い出そうとしたりする時に「ええっと」の意で
Let's see. (=Let me see.)というのも同じことです。
実際に手伝ったり考えたりするのは、話し手だけです。これは③の申し出に相当します。
逆に、聞き手がいつまでたっても食事に手を付けなかった場合、話し手自身が食べたいのかどうかとは無関係に次のように言うことで、聞き手に食事をし始めるよう促す場合があります。
(130) Let's get on with dinner ,eh? (i.e .you)
さあ、食事を始めましょう。(i.e.あなたが)
この場合、Let's ...は実質的にPlease ...(あなたは…して下さい)を表し、場合によっては軽い命令になります。
『ジーニアス英和辞典』(第5版)に載っている、親が子供に宿題をするよう言っている次の例文も同じです。
Let's do our homework. さあ宿題をしましょう
ここでももちろん、宿題をするのは聞き手である子供だけです。
医者が患者に、「じゃあ毎食後、このお薬を飲みましょうね」のように言うのも、薬を飲むのが聞き手の患者だけ(話し手の医者はもちろん薬を飲みません)であることから、同種の用法だと分かります。
このような、初めのうちは見なかった、「ましょう」やLet's ...の聞き手のみの行為を表す3番目の用法は、実は②勧誘の語義で続けて書いてある、②婉曲(えんきょく)な命令に相当します。
この場合、聞き手1人の行為を、話し手も参加している共同行為のように表現することによって、話し手も何かしていて聞き手だけの負担にはなっていないような印象を与えます。
それによって、命令を押しつけがましくないように伝えることが可能となります。
このように、Let's ...や「ましょう」は、話し手と聞き手の両方を含めた本来の使い方だけでなく、話し手が自分の意志を述べたり、聞き手に何かを命じたりする場合にも、使われるのです。
そして冒頭で見た神野めぐみの「でしたら、おにーさん、あたしと同盟を組みましょう!」は本来の使い方であるのに対して、神楽坂あやめの「―これで行きましょう」は話し手が自分の意志を述べる用法だったのです。
そして、話し手が自分の意志を述べたり、聞き手に何かを命じたりする場合にも、話し手と聞き手を両方含めた言い方をするのは、話し手と聞き手が同じだとみなすポジティブ・ポライトネスのストラテジーに従うためなのでした。
滝浦はこれを次のようにまとめています。
ひとつ注意しておくべきことは、話し手が聞き手と何かをともにするというとき、実際に知識を共有しているとか行為を一緒におこなうといった、"現実"のありようを反映するものとは限らないということである。話し手がそうであればいいと願い、おそらく聞き手も同意してくれるであろうと期待して、そのように"みなす"ありようが肯定的に表現されるがゆえに「ポジティブ・ポライトネス」なのである。
(滝浦真人『ポライトネス入門』研究社,2008年,p. 37)
ただし、このようにみなすことが、常にうまくいくとは限りません。"現実"のありようを反映するものとは限らないからです。
以下の例を見てみましょう。
「おい、おい、山田先生よう……究極のラノベを創るんじゃなかったのか?」
「創るわよ、必ず。そのために、いまは魔力を充填しているの。傑作を創るため、鋭気をや
しなっているの。余計な口出しはやめて頂戴」
毎回この調子だ。無限に言い訳を繰り出してきやがる。こいつの担当編集さんも、苦労しているんだろーよ。
「そんなことより、マサムネ、協力プレイしましょう。ゲーム機ならもうひとつあるから」
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』電撃文庫,2013年,p. 236)
[アニメ版だと第2話 リア充委員長と不敵な妖精のAパート]
結局、話し手である山田エルフの提案(勧誘)に、聞き手の和泉マサムネは乗りません。
これは、山田エルフが"みなす"ありようが、"現実"のありようとは異なっていたからに他なりません。
この種のずれが生じたとき、人は気が合わないとか、ノリが合わないとか感じるわけです。
なかなか人間関係って難しいと思います。