ネガティブ・ポライトネスというのは、それほど親しくない人と、仲が悪くならないよう距離を置く話し方(ストラテジー)で、人がもつ「他者に邪魔されたくない、踏み込まれたくない」という自己決定の欲求を顧慮するものでした。
そして、滝浦はこれを、次のようにまとめているのでした。
定義上、このタイプのポライトネスは、相手の領域に踏み込むことや直接名指すことを避け、遠隔化的表現と間接的表現によって、相手を遠くに置き、事柄に直接触れないようにする、表現の敬避性を特徴とする。“回避”または“敬避”のストラテジーと言い換えることができる。
(滝浦真人『ポライトネス入門』,研究社,2008年,p. 39)
これをもう少し難しく言うと、次のようになります。
「ネガティブ・ポライトネス」(negative politeness)は、主として、自分の縄張り(territory)や自己決定権を守ろうとする聞き手の基本的欲求に向けられ、それを(補償し)部分的に満足させようとする。それゆえ、ネガティブ・ポライトネスは本質的に忌避を基に(avoidance-based)しており、ネガティブ・ポライトネス・ストラテジーは、話し手が相手のそうした欲求を認識しかつ尊重して、相手の行動の自由を侵害しない(または、侵害を最小限にしようとする)ことを請け合うという形で表現される。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 91を参考にしたもの)
ブラウンとレヴィンソンは、これを以下に示す10のストラテジーに下位分類しています。
いずれもこのような接し方をされたH(聞き手)は、S(話し手)に自分の縄張りに踏み込まれずに、自己決定権を尊重してもらえたと感じるわけです。
1. 慣習に基づき間接的であれ
2. 質問せよ、ヘッジを用いよ
3. 悲観的であれ
4. 負担Rx を最小化せよ
5. 敬意を示せ
6. 謝罪せよ
7. S(話し手)とH(聞き手)を非人称化せよ
8. FTA(フェイス侵害行為)を一般的規則として述べよ
9. 名詞化せよ
10. 自分が借りを負うこと、相手に借りを負わせないことを、オン・レコードで表せ
ブラウンとレヴィンソンによると、これらもポジティブ・ポライトネスの下位ストラテジーと同様に相互関連していて、以下のように図示することが可能だということです。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 180)
今回は、これまでに取り上げなかったストラテジー4、8、10の3つについて、ブラウンとレヴィンソンや、滝浦、福田の挙げている例や、他の小説からの例と共に紹介していきます。
ストラテジー4をブラウンとレヴィンソンは次のように説明しています。
ストラテジー4 負担Rxを最小化せよ
FTA(フェイス侵害行為)を緩和する1つの方法は、相手にかける負担の深刻さRx自体はさほど大きなものではないと示し、DとP だけを重みのある要素として残しておくというものである。こうすることで、H(聞き手)に対して間接的に敬意を払うことにもなり得る。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 247)
これは、以前「発話の効力を弱める「ちょっと」と気配りの公理」で取り上げた「ちょっと」のことを言っています。
そこで挙げられていた例をもう一度見てみましょう。
「ところで、和泉さんて」
めぐみがそう切り出した。
俺はローテーブルにジュースを置いてから、めぐみに「ちょっと待っててくれ」と言い残し、『開かずの間』へと向かった。階段を上り、固く閉ざされた扉の前に立つ。
(伏見つかさ『エロマンガ先生―妹と開かずの間―』,電撃文庫,2013年,p. 103)
[アニメ版だと第2話 リア充委員長と不敵な妖精のAパート]
この例の説明で、
>ここで「ちょっと」を入れることによって、聞き手の負担はそれほど大きくないからそれに従ってほしいと、うまく説得するような言い方になります。
>愛想悪いとか、ぶっきらぼうだとか言われる人は、このような「ちょっと」をうまく使えるようになると、相手からの印象がよい方向に変わるかもしれません。
と書きましたが、リーチの言う「聞き手の負担」というのは、ブラウンとレヴィンソンの言う「相手にかける負担の深刻さRx」と同じことです。
次に、ストラテジー8を見てみましょう。
ストラテジー8 FTA(フェイス侵害行為)を一般的規則として述べよ
S(話し手)とH(聞き手)をFTA(フェイス侵害行為)の強要とは無関係にし、それによって、S(話し手)は侵害したいわけではなく、そうせざるを得ない状況にいるのだということを伝える方法の1つは、そのFTA(フェイス侵害行為)が一般的社会規則、規制、または義務の例であると述べることである。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 293)
これは、特定の人を名指さないようにするという点で、前回取り上げたストラテジー7の非人称表現と似ているのですが、決まりとして提示するというやり方によって同じ効果をあげています。
これは一般の小説で事務所などが出てくる場面を読むと、頻繁に出てくる表現です。具体的には以下のような例となります。
九時になるのを待ってダイアルを回してみると、すでに事務員は出勤していて、いつ来て下さっても結構ですという返事である。
「但し、オフィスのほうは五時退社ということになっています」
(鮎川哲也『死びとの座』,光文社文庫,2002年,p. 21)
この場面ではっきりと「五時以降は来ないでください」と言ってしまうと、言われた相手は自分が名指しして何かを命じられたことになります。
これは「他者に邪魔されたくない」という聞き手の自己決定の欲求を侵害するので、ポライトではありません。
そこで、「五時退社ということになっています」と、オフィスの決まりでそうなっていることを伝える言い方にすることで、相手を名指すことを避けてポライトにしているわけです。
規則だということをもっと明言した、次のような例もあります。
「申し訳ございませんが、できかねます。事前にアポイントメントをとっていただきませんと、社内の者に取り次ぐことはできないという規則がございますので。どうぞお引き取りください」
(宮部みゆき『火車』,新潮文庫,1998年,p. 349)
最後に、ストラテジー10について見ていきましょう。
ストラテジー10 自分が借りを負うこと、相手に借りを負わせないことを、オン・レコードで表せ
S(話し手)がFTA(フェイス侵害行為)を補償する方法として、下に示すような表現を使って、自分がH(聞き手)に対して借りを負うことをはっきり述べる、あるいは、H(聞き手)の側に借りを負わせないと述べることが挙げられる。
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 298)
自分がH(聞き手)に対して借りを負うことをはっきり述べるものに相当するのは、以下のような例です。
I'd be eternally grateful if you would ... (…ていただければ、一生恩に着ます)
I'll never able to repay you if ... (…ていただければ、いくら感謝してもしきれません)
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 298)
この表現は、自分がH(聞き手)に対して負っている借りがあまりにも大きいので、一生感謝し続けるのに値するとか、どれほど感謝の言葉を述べても足りないくらいだと明言することで、H(聞き手)への借りの大きさを強調するものです。
実は、『エロマンガ先生』のラノベ版にも、和泉マサムネの心の声として、この種の表現が使われています。
そのくらい、エルフの申し出に感謝しているのだ。
なにしろこれで、これからも妹と一緒に暮らしていくための、算段がついたのだから。
どんなに感謝しても足りないくらいだ。
(伏見つかさ『エロマンガ先生2―妹と世界で一番面白い小説―』電撃文庫,2014年,p. 193)
これを相手に向かって声に出して言うと、上で述べたようなネガティブ・ポライトネスの表現になるのですね。
一方、H(聞き手)の側に借りを負わせないと述べる表現は次のようなものになります。
I could easily do it for you. (造作もないことです)
It wouldn't be any trouble; I have to go right by there anyway. (おやすい御用です、ちょうどそちらの方に行く用事がありますから)
(ペネロピ・ブラウン、スティーヴン・C・レヴィンソン『ポライトネス―言語使用における、ある普遍現象―』田中典子(監訳),研究社,2011年,p. 298)
これは聞き手に依頼されたことが、話し手の自分にとっては負担Rxが小さいことであると述べることで、聞き手の感じる負担Rxを軽減し、全体のWxを小さくする言い方です。
具体的には、造作もないから負担にならないとか、ついでがあるから負担にならないといった言い方になっているのですね。
『エロマンガ先生』にも、飯田橋にある出版社へ和泉マサムネが山田エルフと一緒に行く場面で、この種の表現が出てきます。
飯田橋駅に早く着きすぎたので、山田エルフはあらかじめ見つけておいた、飯田橋のカナルカフェ(CANAL CAFE)に、和泉マサムネを連れて行きます。
https://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13000402/
「そ、そうっ……ならいいわ!……え、えっと…… そうだっ、約束の時間よりも早く着きすぎたみたいだから、カフェに寄っていきましょう! ケーキおごってあげる! わたしの口に合うレベルのお店を調べっ……もといたまたまこの前見つけたの! あくまでたまたまっ!」
(伏見つかさ『エロマンガ先生2―妹と世界で一番面白い小説―』電撃文庫,2014年,p. 196)
[アニメ版だと第6話 和泉マサムネと一千万部の宿敵のBパート、当該の台詞はなし]
ここで山田エルフは、調べたという本当のことを言いかけますが、たまたまと言い直すことで、山田エルフにかけてしまったと聞き手の和泉マサムネが感じる負担を、軽減しているのです。
以上でブラウンとレヴィンソンによるポライトネスの理論を概説し、ポジティブ・ポライトネスとネガティブ・ポライトネスのストラテジーを一通り紹介しました。
ブラウンとレヴィンソンによるポライトネスの理論は、リーチのポライトネス理論のもとになったものですが、両者の間には重なり合わない部分もずいぶんとあります。
ただ、これらの理論が述べていることをうまく応用することで、人間関係が円滑になり、社会で人がうまく活動していけるようになればよいと思います。
『エロマンガ先生』に出てきた台詞の裏にある意味や効果を言語学的に読み解くという試み、如何だったでしょうか。
今後は、『俺妹』や別の小説からの例を取り上げ、これまでまとめてきたことに関連づけた応用編的なものを書いてゆければと思っています。
今回の本編はこれで終わりです。読んで頂いた方々は有り難うございました。
またの機会に、読んで頂ける物を書ければと思っています。