推敲、という言葉がある。

 

その昔、科挙を受けようとしていた詩人が詩の文言を考えながら道を歩いていると、

あまりに熱心に考えていたあまり、役人の車にぶつかってしまう。

そこに乗っていたのは、上級の長官であり詩人でもあった韓愈で、

わけをきくと、「僧は推す、月下の門」とするか「僧は敲く、月下の門」とするかで悩んでいたという。

韓愈は「敲く」がよいとして話が弾んだ、というエピソードから、

詩や言葉を練ることを「推敲」というようになった。

 

詩や文章について考えるとき、その表現(言葉)以外にはありえない、というラインに達するかどうか、

というところに「名作」とそうでないものの境目がある。

 

地下鉄や電車の中吊りに、投稿による「詩」が載ったものがぶら下がっていることがあるが、

およそそれは詩と呼べるものではない。

しかし、そういうことを言うと、たいてい嫌な顔をされたうえ、

じゃあ、詩になっているものと詩でないものの違いは何なのか、と言われる。

 

たとえば、あいみょんに〈君はロックを聴かない〉という曲がある。

 

その中に、「手を叩く合図 雑なサプライズ」という1行がある。

これは「合図」と「サプライズ」が韻を踏んでいる、それですごいという人たちがいる。

 

しかし、この程度の韻の踏み方ならだれにでもできる。

「ありふれたクイズ」でも「クローズ・ユア・アイズ」でも「手のひらのサイズ」でも

「未完成の海図」でも、「曇り硝子のサンライズ」でも、

「少し寂しそうな君」にはどれを選んでもうまくいく。

 

この歌詞には選ばれた言葉に対する必然性が欠けている。

ただなんとなくうまくいくだろう、

「手を叩く」といえば楽しそうに努めるのが「僕なりの精一杯」なのだろうか、とか、

「雑な」といえば照れてぶっきらぼうになっている「僕」が見えるだろうとか、

聴く人が想像してくれることを期待する甘えが見えている。

 

ただ、こういう無責任な妄想を勝手にするのが好きな人たちのための作品という意味でなら、

この曲は名曲である。

そしてもう一つ「叩く」「合図」「雑な」「サプライズ」はいずれもア音で始まり、

それが曲の心地よさを作るということはあいみょんの工夫である。

 

しかし、置き換え可能な言葉の累積は、詩的な純度を下げる。

 

これに対して、詩的な純度を高くもっているのは、

たとえば、井上陽水の〈氷の世界〉だ。

 

  窓の外にはりんご売り

  声をからしてりんご売り

  きっとだれかがふざけて

  りんご売りのまねをしているだけなんだろう

 

窓の外にりんご売りがいるという事態が、日常生活にどのくらいあるのかわからないが、

たぶんそれほど多くはない。

しかも、声をからすほど必死な声であるというが、

それが「だれかがふざけて」「りんご売りのまねをして」いるというオチがつく。

 

「窓の外」というからには主人公は「家の中」にいるという「場所」をあらわす。

「りんご売り」というからには季節は冬という「季節」や「温度」をあらわす。

「声をからして」というからには、売れていないという「状況」や「音声」をあらわす。

 

そうした事実は、他の言葉に代えがたい。

つまり、「窓の外」という以外に、別の言葉を入れられるかといえば、

その場所の限定をあらわすのにそれ以上にふさわしい言葉はない。

 

また、「りんご売り」を「竿竹売り」や「焼き芋屋」にすることはできない。

なぜなら、「竿竹売り」は夏がメインであり、青々とした竹のイメージがあるし、

「焼き芋屋」は冬だが「温かい」ほくほくの芋と結びつけられる。

「りんご売り」の「りんご」は赤くつややかな果実のイメージであり、そのイメージはその後の歌詞にある、

冬のモノトーンや青みがかった氷の世界の対照をなす。

 

しかし、そうして作りあげられているイメージを、

次の2行は叩き潰す。

「だれかがふざけて」そんな真似をしていることがあるのだろうか。

必死で売ろうとする声を、「ふざけて」いると否定するほどに主人公の精神は殺伐としている。

あるいは、「だけなんだろう」に用いられた「だけ」という副助詞は、

そう思いたい、という願望のようなものがあらわれている。

 

それはポーの『大鴉』にある「nevermore」のような効果を持っている。

赤いりんごや、それを積んだリヤカーか何かを引いて売るりんご売りの映像は消えてしまい、

言葉の残像だけが私たち聴き手を呆然とさせる。

 

満たされない欲求、殺伐した精神状態を描こうとしたとき、

このような言葉にされてしまうと、この歌詞の一部を他の言葉に置きかえてしまったとたん、

組立てられた言葉の世界が瓦解する。

その場合には、まったく別の状況をつくる以外にはない。

 

詩の純度が高いということができる。

 

ただ、そう言ってみたところで、結局、その判断には客観的な基準があるわけではない。

ただ私には、それ以外には置きかえようのないものをつくり、

それをひとつの作品にして、そこに豊かな読みをつくりだすものが、

よい作品に思える、ということだけがいえる。