先日、英文学の専門家でもないくせに、不遜にもシェイクスピアのソネット第18番を授業でとりあげました。

なにかのときのメモのためにここに書いておこうと思います。

 

君を夏の日にたとえてみようか

君のほうが遥かに美しくまたおだやかだ。

荒々しい風が五月のつぼみを揺さぶり、

それに夏はあまりに短くすぎてゆく。

 

ときおり天の瞳はあまりに暑く輝くし、

しばしばその金色の顔を曇らせる。

それにどれほど美しくても、その美しさは衰える、

偶然か、はた自然の摂理に奪われて。

 

だが君という永遠の夏は翳らない、

持ち前の美しさも損ないはしない。

君が死の谷を歩むのだと死神も吹聴できまい、

不変の詩行に君が生きているならば。

 

人間が息をして目が見えるかぎり、

この詩はとこしえにあり、君も生きながらえる。 (拙訳)

 

シェイクスピアのみならず、英詩のなかでもっとも有名な詩のひとつです。

おもてむきには、恋人の青年をたたえる内容になっていますが、

もちろん、そんなやわな話をしようというのではありません。

 

これを比喩の観点から読んでみます。

 

第1行で「君」を「夏の一日」にたとえる、という試みを考えます。

「君は夏の一日に似ている」という命題をあたえると、

次の第2行で、「君」の価値を吊り上げることでその命題を否定します。

つまり、「君は夏の一日よりも価値が高い」という結論を出します。

 

その次の行からは、この結論を正当化するための理由づけになっている。

しかし、です。

たとえば、第3行の「五月の花」は「青春」になぞらえられますし、

第4行の「夏はあまりに短くすぎてゆく」といえば、人生にもなぞらえられます。

 

わたしたちは、いったん否定したはずの命題を、思い出さずにはいられなくなっていく。

それだけではありません。

 

第2詩節、第5行の「天の瞳」や「金色の顔」とはもちろん「太陽」の比喩ですが、

「瞳」や「顔」という擬人法をつかったとき、わたしたちはやはり「夏の一日」と比べられた人間、

詩人が思いを寄せる相手を思い浮かべずにはいられなくなる。

 

すると、「暑く輝く」や「顔を曇らせる」というのは、

青年の表情に思えてくるのです。

 

第7,8行でどんな美しいものも衰える、というとき、「あらゆる美しいもの」のなかには、

 「君」も含まれてくるのではないか。

そうすると、実は否定していた第1行の命題はそっくりそのまま生き返り、

「君」はまさに「夏の一日」のようだ、という結論へと戻っていく。

 

ところが、第3詩節の第9,10行では、この新たな結論をふたたび否定するかのように、

「君の永遠性」を宣言します。

その「君の永遠性」はしかし、肉体としてではなく、詩の言葉のなかにおいてのみ可能になる。

 

「君は永遠に美しい」、という命題はこの詩をもってはじめて成立する、

逆にいえば、生身の肉体としての君はいぜんとして夏の一日のようにあまりに短く過ぎていく、ということです。

 

 

「芸術は長く、人生は短い Ars longa, vita brevis」を地でいくような内容の詩ですが、

おそろしいのは、この詩の最後に書かれているとおり、

人間にまだ目があり、息をしている今現在、この詩が生きているということです。

 

たった14行の詩で、どんでん返しを繰り返し、言葉のみで人の認識をひっかきまわす、

シェイクスピアの戯曲を凝縮したような言語芸術がここに成立しています。

 

『夏の夜の夢』のパック、あるいは『マクベス』の魔女たち、あるいはリチャード三世やフォルスタッフのような、

アクロバティックにレトリックを駆使してみせる詩です。

 

言葉とは文字にして口にすると、力を持つと同時に、空気でできた空虚なものである、

いわば言葉に対する信頼と疑わしさを正確に見はからった名人芸で、舌をまかずにはいられません。

 

シェイクスピアのおもしろさとおそろしさをつくづく思い知った次第。

 

これが見当違いなのか、はたまたシェイクスピアの専門家にとっては初歩の初歩なのかは知りません。

ただ、私の頭でテクストと向かい合って読み解いたものをここに記しておこうというだけです。