何年か前に、江戸川乱歩没後50年を記念した『乱歩奇譚』というアニメがありまして。
そのアニメ自体は、よくまあ、こんなものを作って「没後50年」などと銘打てたな、
という出来栄えでしたが、OPとEDの音楽が素晴らしかったのでした。
OPを担当したのがamazarashiというバンドで、「スピードと摩擦」という曲でした。
もちろん、知っている人は知っているバンドなのでしょうが、
私自身はたいしてポップスを聴くわけでなし、そこで初めて知って驚嘆したという次第。
http://www.amazarashi.com/lyrics/speedtomasatsu.php
https://www.youtube.com/watch?v=kOGcd19soPw
公式のHPに歌詞が出ていますし、YouTubeにも公式のMVが出ています。
作詞・作曲・ボーカルを担当する秋田ひろむ氏は青森出身・在住だということで、
膝を打ちました。
なんといっても青森には寺山修司がいますから。
「スピードと摩擦」という作品の歌詞には、寺山を思わせる言葉がよく表れています。
短歌や俳句、あるいは映画のような言葉です。
「地球の裏の荒野へ」とか「夏の庭に犬の骨」とか「二月は無垢な難破船」とか、
とにかくその言葉の選択が鋭い。
鋭い、というのは意味を伝えずにその言葉の並びから生じるニュアンスを感じさせる
ぎりぎりの選択をするということです。
(二月がどうして難破船なのか、しかも難破船が無垢であるとは何か、
本人の中には何らかの論理性があるのかもしれませんが、
それを聴いて把握するのは難しい。
しかし、私たちはこの歌の締めくくりに「二月は無垢な難破船」という言葉を聴くと、
何となく説得されてしまう。)
全体をとらえると、ぼんやりと何か殺伐とした感情から疾走し、
トラックの事故で生死の境をさまよう様を目撃した、という内容です。
その冒頭は、比較的わかりやすい情景描写でまず聴き手を引き込むように配慮されています。
しかし、そこにも鮮やかな技術が見られます。
「切れかけた街灯に照らされて=光」に対する「明滅する人々の影=陰」、
「切れかけた」に場末感を作って舞台設定を行い、光と陰のコントラストを立てて、
影絵のような視覚的な光景を作り出します。
(この明滅は、切れかけた蛍光灯なのですが、同時に宮沢賢治の『春と修羅』「序」に出てくる「風景やみんなといっしょに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」を想起させます。)
次に、「ゴムの匂い」=嗅覚、「静寂と呼ぶにははなはだ多弁」=聴覚、という具合に
五感に訴える言葉を並べます。
「ゴムの匂い」はタイヤ、後の歌詞も合わせれば避妊具のゴムの匂いでもありえましょう、
そして、「静寂と〜」は音に還元された言葉の残滓のざわめきを表す、とすれば
いかにも場末の繁華街という感じがします。
しかし、「したがって」以下、比喩的なナンセンスぎりぎりの言葉が並びます。
それを繋げるのはエ音あるいは「ェン」の脚韻です。
「て」は接続助詞ですから、あとの部分とつながりますし、
エ音は、私などは「ぺっ」というように吐き捨てるような音のイメージを持ちます。
さらに、エ音で区切られるセンテンスには「ア・エ」の組み合わせが必ず含まれ、
音によるリズムを作ります。
その行き着くところが「夏の庭に犬の骨」です。
「庭」「犬」のイ音は、次の「死屍累々の日付」へと引き継がれて、
音のリズムが保持されます。
そこから、そのイ音を含まない「それを踏んづけて明日へ」には、
「それを踏んづけて」「明日へ」とエ音で区切れ、8、3音という文字数の切迫が生まれます。
「気管支炎の音符で」というのは、こんどは「ン」が「きかん」「しえん」「のおん」「ぷで」
と区切れます。
「ン」というのは撥音ですから、はねる音です。
言葉の選択もさることながら、
この音に対する感覚の鋭さもまた私が強く惹かれる理由です。
むしろ、意味というよりはこうした「音」がこの歌詞を作り出していると言ってもいいのかもしれません。
ささくれだった刺々しい詩の根底にあるのは、抒情詩の精神です。
寺山修司然り、また中原中也の「汚れっちまった悲しみに」然り。
amazarashiもまた地方詩人の叙情の系譜の上にあるのだと、強く思います。