兵藤裕己氏の著作に『〈声〉の国民国家』という著作があります。

日本の近代化に浪花節が果たした役割について論じた非常に面白い論考です。

 

前近代の封建制度を破壊し、天皇に帰属した国民国家を形成することを可能にしたのは、

国家からの押し付けではなく、義理人情を語る浪花節芸人の「声」だったという主旨です。

 

この著作をふと思い出すのは、このところワイドショーを賑わせている吉本の一連の話です。

こういう記者会見を見るにつけ思うのは、泣き落としたもの勝ちだということです。

 

契約解除になることを覚悟に芸人が涙ながらに会見を行うと、

反社会勢力に100万円をもらった事実よりも、会見を止めた社長に批判の矛先が向けられる。

そして社長が涙ながらに会見すると、その涙は無駄だといって切り捨てる。

 

これは、主人なき忠臣蔵です。

そして、批判していた視聴者たちが、無批判に批判の矛先を変える。

要するに、攻撃する対象さえあれば問題なし、われわれは被害者であり、被害者に寄り添っているのだ、「お上が悪い」方式です。

 

もちろん、上の立場の人間に非がある場合には、それを訴えるべきですが、その訴え方が浪花節なのです、日本は。

さらに不快なのは、その尻馬に乗ってテレビでコメンテーターよろしく芸人が、自分の所属事務所を批判することです。

 

彼らは、その事務所の中では成功者であり、芸人ファースト云々と言っていますが、

要するに自分の給料を上げ、立場をより良くしたいという打算で動いているのが見え透いています。

会見した芸人たちも、結局のところ、自分が犠牲になるから後輩を許してやってくれという泣き落としで、

芸能界復帰をもくろんでいるのがありありと伝わります。

 

我が切腹の代わりに部下の命は、チョンチョン、といったところでしょう。

日本人に絶望するのはこういう記者会見をもって同情をする人間が少なからずいるということです。

 

そもそも、こんなことはどうでもよろしい。

反社会勢力から知らず金を受け取ったなら、それをしかるべきところに返金し、

税金の修正申告をしました、以上、おしまい。

これだけのことでしょう。

 

もてはやされた芸人を落とす喜び、今度はそれに同情する喜び、

そして、その芸人が批判する先を批判する喜び、

一番味をしめるのは誰か。

ほかでもない、われわれ外野の見物人です。

 

自分は「正義」の味方だ、むしろ自分こそ正義だ、

こうした見物人たちに共通するのはこういう感覚でしょう。

そして、それを少し「高級」にしたのが今回の参議院選挙とその結果に食いつく人たちです。

 

自民党党首の演説中にデモ活動を行って警官に取り押さえられたことをしきりに訴える人がいますが、取り押さえられるのが当たり前です。

政党の演説は許可を取ってやっているわけであり、そこに許可なく批判の声を叫んでかき消そうとするなら、それはゲリラと同じです。

 

もし反対運動をしたければ、あらかじめ許可をとって自民党党首よりも優れた演説を行えばよろしい。

あれより優れた演説をするのはさして難しいことでもありません。

ところができることといえば、相手を批判し蔑み、叫ぶことと、

聴衆を脅し、不安がらせ、味方につけようとすることです。

みんなで戦おう、勝てば勝鬨、負ければ涙、

結局のところ忠臣蔵めいた浪花節根性です。

 

もし、許可をとった演説をおこなっている最中に、警官がいきなり止めに入った、というならこれは言論の自由への侵害ですが、上に記した出来事はこれには当てはまりません。

あるいは、その政党の演説に感化された群衆が、反対する群衆に向かって暴力をふるいながら、警官がそれを止めに入らなかったというなら、事態は深刻ですが、そういうことはないわけです。

 

今回、元芸能人党首がずいぶんと持ち上げられていますが、この人もかつてセクハラ、パワハラで訴えられた人です。

もちろん、重度障害者を当選に導いた、これは意義あることです。

少なからず障害をもつ方がいる中で、その民意を代弁できる、それについてきわめて説得力を持つ人が議員になったのですから。

しかし、同時に、この党首は今回の選挙活動で自身の評価を上げて、衆議院での自身の当選ないし党員の議席確保を目指しているはずです。

失礼を覚悟で今回の当選者は、手駒としてうまく使われているのだ、というくらいの警戒を持っておくべきでしょう。

いや当選者当人はそういうこともわかっているのだと思います、それでも自分が声を上げなければならない、という覚悟を持っている、これは利害が一致していると言えるでしょう。

 

100%正義などというのは、歌謡曲やアニメにはあるかもしれませんが、現実には存在しません。

表面的な現象を鵜呑みにせず、物事の裏側にまで判断を働かせる知性が必要です。

その判断のバランスを保ち、冷静な議論を行うことにこそ、民主主義の主眼があるべきですが、

攻撃対象を作って、自分こそ正義だという顔をしたがる輩ばかりなようで。

 

忠臣蔵は、歌舞伎だけで結構。

浪花節は、高座だけで結構。