歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。 -2ページ目

歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。

誰もが得られる、心の平安について、
探求した結果を、書き綴って行きたいと思います。

体の周りには空間があり、空気で満たされている。
私達の普段の生活では空気等は意識せず、自分の体にばかり意識が向いている。
そこらじゅうにある空気に比べれば、自分の肉体の方がよっぽど大切であり、価値ある物だと考えている。
神様だって、空気よりは自分の肉体の方に、ご加護を与える物だと思っている。
そこら辺に落ちている石ころよりは、自分の肉体の方になんらかのご加護が与えられていると考えている。
このような人間を特別視する不平等な考えが根深い所に存在する。

真我を感じたければ、このような不平等さを取り除かなければいけない。
空気と自分の体を同等に扱わなければいけない。
それは、空気と自分の体をフラットにするイメージだ。
自分の体が高く(価値ある物)で、空気が低いのであれば、その高低差によってエゴ的な思考が流れ出す。
フラットに近づくにつれ、何も考えられなくなり、自分が停止してしまうような感覚を味わうかもしれないが、それを嫌がってはいけない。
それを嫌がらず、自分を停止させたのならば、景色が自分であるという認識を得られるだろう。
そこで見る景色には懐かしさがあり、穏やかな至福がある。
明け渡す際には全てを明け渡さなくてはいけない。
9割だけ明け渡して、1割を体の中に自分として住まわせるようなやり方では解放は訪れない。
根こそぎに明け渡す事によって、体の中の私が消える。
体の中の私を不在とする事によって、体の動きは阻害されなくなり、スムーズに活動する事が出来るようになる。

全てを明け渡すといっても、財産を処分すれば良いという事では無い。
財産を処分するには、財産を処分する前の「私」がいて、思い悩んだ挙句に財産を処分する。
財産を処分した後には、頑張って財産を処分した「私」が残る。
どちらにしても「私」は残ったままである。
では何故「私」が残ったままになるのだろうか?
それは、これらのやり方の背景には時間という概念が存在するからだ。

明け渡しが行われている最中は、常に今を指し示す事になる。
心を介在せずに、どこまで社会人として生きていけるだろうか。
心が介在すると、未来を思い煩う事になる。

心は幼子のように無知である方が良い。
心は無能であって良い。

心が無知で無能であれば、心に仕事をさせるのは無理だろう。
心が無知で無能で何も出来なければ、明け渡す他、道が無い。

思考と心は別物である。
心が無能であっても、思考は働く。
心を有能に見せようとする傲慢さがエゴである。
朝目覚めた瞬間のあの場所こそが、本来心がいるべき場所なのだ。
心を移動させてはいけない。心を会社や学校へ移動させてはいけない。
心はいつもあの場所から何もせず、ただただまどろんで存在していればいい。
心が何もしなくとも、世界は繰り広げられ、体は動き、思考も生じるのだから、その世界に心を参加させないという選択肢もありえるのだだ。

繰り広げられる世界を、ただただ、「あるがままに」繰り広げさせておけばいい。
それが既に定められていた事であるかのように、自然に繰り広げさせておけばいい。

世界がシナリオ通りにただ創造されているとしたら、窮屈に感じるだろうか。
世界は映画だ、それを観るのは心。
映画がシナリオ通りであっても、窮屈には感じないだろう。
それは、映画とそれを観る心が明確に分離されているからだ。
心が映画の中に完全に没頭してしまったのならば、映画をくつろいで楽しむ事は出来ない。
それは、現実世界においても同様なのだ。
だからこそ、心は何もせずに、ただ「あるがままに」世界を見続ける必要がある。
心を移動させようとしてはいけない。移動は体が行う物だから、心まで連れて行く必要は無い。

心まで怒ってはいけない。怒りは体に属し体から生じる物だから、心が怒っていると勘違いしてはいけない。怒った体はそのままにしておけばいい。

心が考えてはいけない。思考は脳が行う物だから、心が考えよとしてはいけない。脳はその時々の状況に応じて、思考を生み出す物だから、それを心と勘違いしてはいけない。

心が体を動かしてはいけない。体はその時々に応じて、脳が動かす物だから、心が体を動かしていると勘違いしてはいけない。

心には何もさせてはいけない。
心が何もしない時に至福が訪れる。
心が一切何もしなくても、体は動き続ける。
全てをあるがままに、生じるままに。
心は努力もせず、仕事もせず、全てに無関心に、ただただまだろむ。
たいした仕事をしていないの疲れる、会社にいるだけで疲れるという人の為に。。。

心が仕事をしてはいけない。
仕事は体が行う物だ。
会社の中では、心に対して、仕事をするな、するなと注意深く言い聞かせる必要がある。
そうしなければ、心までもが仕事に引きずり込まれ、疲弊する事になる。
仕事を行う、その手、言語を生み出す脳、これらの動きを注意深く観察すれば、それらが、その時々において自然に動いている事が分かるだろう。
車を運転するのならば、そのハンドルを動かす手を観察するといい、まるで別の意思を持っているかのように手が勝手に動いているのが分かるだろう。

その時々において、体が勝手に仕事を行うのであれば、心は仕事等せず怠けて、くつろぎつくせばいい。
もう金輪際、心に仕事等させないぞと強く誓うのもいい。
体の面倒を心が見る必要なんてないのだ、その時々に体は勝手に動く。
心が体を動かし、心が体の面倒を見なければいけなないという考えが、苦しみを生みだす。

心は仕事をせず、まどろんで、体にだけ仕事をまかせておいた方が、以外に良い結果を得たりもする。
このような状態の時、今にある事を実現出来ているのだろう。
自分の手を見れば、この手は私であるという思考が働くが、道に転がっている石を見ても、これが私であるとは思わないだろう。
自分の氏名が書かれているのを見れば、これが私であるという思考が働くが、他人の氏名を見てもこれが私であるとは思わないだろう。
自分の氏名に対して悪口が書かれていれば動揺するが、他人の氏名に対して悪口が書かれていたとしても動揺は発生しない。
氏名とは無数の漢字の組合せであるが、その中から特定の組合せを選んで、それが私であると特別視している。

行うべき問いとは、
「無数の現象の中で、何を私として結び付けているか?」であり、
その問いの答えは言葉では無く、気付きによって得られる。
その答えに気付いたならば、特定の物(肉体や氏名など)を私として結び付けるのでは無く、現象と私との結び付けを出来るだけフラットにするべきだ。

私と現象の結びつけ(同一化)が問題なのでは無く、特定の物だけを不公平に同一化するのが問題となるのだ。
神が肉体だけを特別視するだろうか?神が公平に行き渡っているように、私達の意識も公平にフラットに近づけるべきだ。

私と現象の結びつけを抑制する事は禁欲的であり、ただの痩せ我慢としかなりえない。
特定の現象では無く、全てに対して公平(人間的な公平さでは無く)に、フラットに強く同一化する事は、生命のダイナミックさを感じる事となる。
止めたいと思っていた思考とは、特定の物を不公平に選ぶという働きであり、問題を解決する為に使う思考とは違う。
特定の物だけを注視せず、公平にフラットに現象に対して私を同一化するという事は、源への接地面が大きくなるという事である。(イメージ図のように)

声を発する時、空気を吸い込み、声帯を振わせる等の行為は、無意識に肉体を操作し行われている。
よりミクロな視点でそれを考えれば、小さな細胞を動かしている事になる。

それでは、その小さな細胞に意識はあるのだろうか。
声帯を振わす細胞に、意識等無いというのが普通の考え方だろう。

意識とは、脳細胞が密に集まった頭の中から生まれ出されるように考えられており、その密に集まった脳細胞によって知覚が行われ、それと同時に命が発生している。
密に集まった脳細胞の中に、善悪、好嫌、等の感情やアイデンティティがあり、他人もまた同じような物を持っているという捉え方をしている。

このような捉え方では、私と、あなたは分離しており、この捉え方が世の中の大半を占めている。

ワンネス的な捉え方とは。。。

誰かに声によって文句を言われれば、動揺が発生する。
声はミクロな視点で見れば細胞の振え、マクロな視点で見れば、脳細胞が集まった意識の表現として捉えられる。
動揺が発生する時は、マクロな視点で相手を見ている事になる。

であるならば、ミクロな視点で物事を見るようにしてはどうだろうか。

他人を意識のアイデンティティとして見るのでは無く、細胞レベルで意識し観察する。
相手の存在を意識する時、マクロ的なアイデンティティレベルで意識するのでは無く、相手の肉体の一つの細胞に注視して相手を意識する。

一つの細胞には意識等存在しないと考えてしまうが、その捉え方は、まだ人間的思考の術中にはまっている証拠だ。

細菌やウイルス等に、人間的な論理的な思考は無いと思うが、彼らだってこの世界を知覚し、意識している。
ワンネス的な捉え方は、彼らのような無思考なミクロの生物にも備わっている「在る事を見る者」という、シンプルな意識を取り込む事ではないだろうか。
思考では無い命への気付き。

相手の一つの思考無き細胞に注視し、その細胞を「見る者」の存在を感じる時、その「見る者」は、私の思考無き一つの細胞を「見る者」と同一である事に気付く。
そう捉える事が出来たのならば、他人を裁く事も少なくなる。


好きな歌手がいるのであれば、その歌を聴きながら、その歌手の声を出す思考無き細胞の震えを意識してみるのがいい。
その歌手が歌手自身の細胞を見ている「見る者」と、私の中の「見る者」が同一であると感じられる時、私はその歌手になったような感覚を感じる。
私は歌が下手であるからこそ、その歌手の歌声に魅了され、喜びを感じる事が出来る。
これは二元性の世界の楽しみ方なのかもしれない。


心は想念の束。
今起こっている想念は、その束の一つにしか過ぎない。
だから沸き起こった想念の束の一つについて、それを深刻に受け止めるのは止めよう。
それを深刻に、現実として受け止める事は、思考に同一化する事になる。

心は想念の束。
想念は絡みつく糸のように、ただ一本の私という糸を芯にして絡み付く。
私という一本の糸、その想念をしっかり見つめ、幻想にはまらないようにする必要がある。
私が無くなれば、想念は無くなり、全ては無くなる。深い眠りの世界には何も無いように。

他人等つくる必要は無い、他人等愛する必要もない、人だけが特別なのか?
至福を感じる為に、他人等必要だろうか。
社会的の認めらなければ幸福になれないのだろうか。

人とは巨大な宗教のようだ。
その宗教から抜け出さなくてはいけない。
深い眠りの至福。
それは今、目覚めているこの時にも、同時に存在している。
心の奥底、そこは無我であり、深い眠りに入った時に訪れる至福の場所でもある。

苦しみは、今、心の奥底に同時に存在する、眠りの世界への繋がりが無意識に忘れさられる事によって生じる。
この物質世界にだけ心が向けられたのならば、鬱になるのも理解出来る。
この世界の基盤は眠りの中にある。その何もないただ在るだけで得られる眠りの至福、そこに意識を繋げれば良い。