歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。 -3ページ目

歩むべき道を歩む。悟りと平安、真我への道。

誰もが得られる、心の平安について、
探求した結果を、書き綴って行きたいと思います。

思考の芯、想念の芯には「私」がいる。
「私」という芯を中心に思考が広がっていく。

「私」を無くす為に、思考を鎮めようとする思考の芯にも「私」がいる。
「私」を無くそうと「私」が頑張っている。
それではいつまで経っても「私」は無くならない。

「私」を無くす為の唯一の方法は、思考が現れた時に、その中心の芯に「私」が存在するのをただ観ることだけである。
限りなくゼロに近い点。
その点は何の意味も無い、ただの点。
その点に留まろうとした時、数秒は留まる事ができるが、すぐに別の事柄へ興味が移ってしまう。

その点は一なる物であり、そこから世界は広がって行く。
その点の上をマインドの嵐が吹き荒れているから、その点から興味を失い離れていってしまう。
なので、その点から引き離そうとする力が何であるかよく観察してみる必要がある。

その点から引き離そうとする力を突き詰めていくと、表面的な思考もそうであるが、瞑想によって得られた静寂な意識自体さえも、点から引き離す力となっている。

その引き離そうとする力を観察し、その力から離れた時、再び点が現れる。
そしてその点から世界を見るとき、クリアな世界を体験する事ができる。
この世界の現れに実在性を与えると、それが執着となる。
好きな趣味があったとしても、それに実在性を与えてしまっては、苦しみの種となる。
この世の現れは、鏡に映った世界と同じく、それを参照する事は出来るが、それ自体に実在性は無い。
ラマナ・マハルシの教えの「私では無い」について。

思考に支配されたこの体、これは「私では無い」。
昨日までの自分という記憶、これも「私では無い」。
例え罪を犯したとしても、それは「私では無い」。
それじゃあまりに無責任じゃないかという考えも「私では無い」。

何かを何とかしなくてはと思っている、その何かとは、私では無い物を、私であると誤解している物なのだ。
私の本性が真我であると思うのであれば「私では無い」と唱えて全てを手放し、背負った荷物を降ろしてしまっても良いのではないだろうか。

世間一般の考えでは、それは逃げる事、それは悪い事だと刷り込まれている。
真我探求の最初のステップは世間の善を疑い、そこから自由になることだ。
但し、今まで真我を探求して来た私、それも私では無い。

いかなる物も「私では無い」、それは放棄である。
それが悪い事なのか私は知らない。
「私」と心の中で唱えた時、それは胸のあたりに存在するような感覚がある。
この「私」を消すために、胸の中の「私」にどんどん近づいて行き、その源を見ようとすると、「私」は消え去ってしまう。
それは、他人にどんどん近づいて行き細胞レベルで体を見た場合に、人間関係的な概念が無くなってしまうような感じに似ている。
極悪人ですら細胞レベルで見れば、善悪の区別は無くなってしまう。
眠りに就く為には、とにかく何も行わない事が最善だ。
眠ろうする努力こそが、眠りの妨げになる。
真我の至福もこれと同じように、無為自然でいる事が最善なのだろう。
ネガティブな思考が湧き上がった時、その思考を消し去りたいと思うと同時に、その思考が将来また思い出されるのではないか、その思考から逃れる事が出来ないのではないかという思考によって苦しみが増す。
苦しみの原因は、最初に湧き上がった思考そのものよりも、その思考によって将来苦しむ自分を思い煩う事の方が大きい。

今知覚したネガティブな思考は、ほんの少し過去の事である。
知覚したネガティブな思考はもう過ぎ去った過去の物である。
過ぎ去った物を追いかける事はエネルギーを浪費する事であり、苦しみ、ストレスを生み出す。

今に在るという事は、今知覚した物より、ほんの少し先に居続ける事だ。
ネガティブな思考が湧き上がったとしても、それが既に過去の物であると観続け、それを追いかけないのであれば、精神に静寂さが訪れる。
そして世界は美しさ新鮮さを取り戻す。
自分という感覚、エゴを捨てたい。
何故ならば、それがある事によって神経症的な苦しみを生み出すような気がするからだ。

私達は今生じている経験から距離を置いて、その経験をジャッジしたり、コントロールしようとしたりする。
今生じている経験、知覚した物とは別の、霊的、意識的な何かが本当の自分であって、その意識的な何かと今起こっている世界との間に、距離をおいてしまっている。
真我が本当の私であって、それを探そうとする行為は、求めている物とは全く逆の方向へ進んでいるという事だ。

自分を捨てるという事は、この霊的、意識的な何かを捨て去るという事だ。
この自分という感覚は、今生じている経験から距離を置くことによって生じる妄想のような物だ。
今生じている経験から離れれば離れる程、自分という感覚は強化され、その離れた距離の間には、沢山の苦しみのお荷物が蓄積されて行く。
だから、今生じている経験と離れず、常に経験の最新最先端の中にだけに留まるように心掛ければいい。

一瞬でも自分が無くなり、ただ世界を見る時、その世界はどこかノスタルジックで、クリアに透き通っている。
これは一人でいる時の方がこの感覚を感じやすい。この豊かさを感じるのに友人等全く必要無い。
過去や未来の出来事については、言葉でいくらでも表現できるが、
今生きている意識その物を言葉で表現する事は出来ない。
その言葉で表現出来ない物を言葉で表現しようとした時、言葉は消え去ってしまう。
光が闇を消し去るように、言葉で表現出来ない意識の「それ」が言葉を消し去る。
言葉も思考も、それの前では降参するしか無い。
思考が頭の中で起こる。
しかしその「思考が頭の中で起こった」という経験は頭が経験するのでは無い。
この経験を行っているという経験を、言葉で説明しようとしても出来ない。
「私がおにぎりを食べた」これは出来事であって経験では無い。
経験とは意識、命あっての物であり、透明性の上に成り立っている。そしてこの経験を言葉で言い表す事は出来ない。

今起こっている経験を言葉で言い表そうとすると、言語化出来ない為に言葉は消え去ってしまう。
つまり、今起きている経験に思考を向ける事によって思考を消し去る事が出来るのだ。
経験を言語化しようとする試みは、今という次元に戻りつつ思考を停止させてくれる。
私達の生活が思考でごちゃごちゃしてしまうのは、今起きている経験では無い物に思考を向け言語化しているからなのだろう。

思考を停止させた後に感じるのは、愛を求め愛に飢えた満たされない心だ。
私達は、愛に飢えた心を癒す為に外側に対して何かを求めて来た。
それは、地位や名誉であったり、理想の的な異性であったり。

愛に飢えた心は、幼い子供のように私達が外側から得た物を受け取る。
それは、幼い子供が親の愛情を欲しがっているのに、親はおもちゃばかりを買い与えているような物だ。

思考を停止させ、愛に飢えた満たされない心の感覚を感じ取ったのならば、その心に対してあなたが近づいて行き、その心のそばにいてあげればいい。
そうする事で愛に飢えた心は癒される。
愛に飢えた心を癒すのに外側の物は何も必要ない。
愛に飢えた心を癒す事によって、あなたも満たされ、身の回りの世界の美しさや神聖さに気付く事が出来るようになる。

あなたは愛に飢えた心に近づき、ただ側にいるだけで愛に飢えた心は癒された。
あなたは何もしていない、ただ愛に飢えた心に近付いて行っただけだ。
愛に飢えた心にとって、あなたは愛その物の存在だった。
愛とはこういった性質の物ではないだろうか。